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教#079源氏物語⑨

          「たかやんノート79(源氏物語⑨)」

 長雨の頃、内裏の物忌みが続いているので、光源氏は、宿直所(桐壺)で、厨子を開いて、手紙の整理などをしています。厨子と言われると、法隆寺にある玉虫厨子が思い浮かびます。玉虫厨子には、「捨身飼虎」(しゃしんしこ)「施身聞偈」(せしんもんげ)などの仏教説話が描かれています。厨子と云うのは、仏教系のイメージが強いんですが、本来は、台所or台所の戸棚のようなものらしいです。確かに、厨房と云う言葉は、日常的に使われています。本文の隅に、飛香舎の調度品の厨子棚のイラストが描かれています。上の二段に本が平積みで置けて、観音開きの扉を開けると、手紙などが入っていると云う趣向のアイテムです。段をつなぐ柱には、いくつかのふさ飾りを結わえてあります。

「夜昼学問をも遊びをも、もろともにして」いる頭中将も、一緒にいます。頭中将の正妻は、右大臣の四の君です。光源氏の正妻は、頭中将の妹です。二人とも、正式な彼女がいると云うことです。が、女の子といるよりも、男同士のつきあいの方が、圧倒的に楽しいと云う時期が、男たちにはあります。頭中将は、ちょっと歳上ですが、光源氏は、17歳です。小さな子供に母親が必要であるように、17歳の男の子には、しっかりした(いや、しっかりしてなくても)男友達が必要です。今も昔も、これは同じです。女の子の場合は、姉妹や母親がある程度、女友達の役割を果たします。男の子の父親は、男友達の役目を果たしませんし、兄や弟も、男友達にはなり得ません。17歳の男の子には、客観的に自分を見てくれる、隔てなき同性の友人が必要です。

 光源氏の「いろいろの紙なる文ども」を、頭中将は「わりなくゆかしがり」ます。が、光源氏は「さりぬべきすこしは見せむ。かたほなるべきもこそ(あらめ)」と言って、許しません。つまり、無難な当たりさわりのない手紙なら、少しは見せると云うことです。が、私自身の16、7歳頃の経験だと、これは違います。親友のHとは、隠し事なく何でも話し合っていました。プラトニックラブ以上の深い男女の契りのようなものは、当時の我々にはなかったんですが、もしあったとしたら、まっ先に喋っていた筈です。女の子だって、深い男女の契りを、女友達に、半ば自慢っぽく話すと思います。それと、同じです。高校生の男子が、洗面所の鏡の前で話しているのは、モンハンとか、スマブラの話だけじゃないんです。男女の契りの話だって、周囲の誰もの耳に入るように、あけすけに喋っているんです。そういうことは、秘密にしておいてもらいたいと、女の子が願っても、できない年齢だと言えます。頭中将は「おのがじしうらめしきをりをり、待ち顔ならむ夕暮などのこそ見どころはあらめ」と怨じますが、光源氏は見せません。そもそも、そんなきわどい手紙を、宿直所の鍵もできないような厨子棚に保管しておく筈ないです。そういう手紙は、二条院のどこかに隠してあります。

「源氏物語」について、書き始める前に、自宅にある「原色日本の美術」の絵巻物の巻を取り出して、源氏物語絵巻を見てみました。絵よりも、物語が書かれている字と紙の美しさに、驚嘆しました。若い頃、奈良の国立博物館で、正倉院御物の天平時代の献物帳を見た時も、紙のqualityの高さ、端正な文字のハイレベルな水準に、圧倒されました。源氏物語絵巻の料紙の美しさに、心を打たれました。さまざまな色のぼかし、金銀の切箔、砂子、野毛などを散らし、手書きや型抜きで文様を入れています。型抜きを貼ったまま、上から彩色する場合もあるようです。字が美しいことは、解りますが、連綿体で書かれた快いリズムの流麗な字を読むことは、活字体と突き合わせないとできません。それでは、読むリズムが崩れてしまいます。源氏物語絵巻で使われている料紙ほど、美しいものではないでしょうが、近代にいたるまで、美しい料紙の美しい字を模写して、貴族や学者たちは源氏物語を読んでいたわけです。印刷された活字で読んでいる限り、真の読解はできないし、玉の小櫛の注釈を書いた本居宣長や、湖月抄の北村季吟を超えることは、どれだけの碩学でも、できないだろうなと、普通に思ってしまいます。

 手紙に戻りますが、美しい字で書かれた手紙と、そうでない読みぬくい汚い字で書かれた手紙とでしたら、それは、美しい字の方が、いいに決まっています。女性の容貌は、いよいよ男女の契りを交わすと云う最後の最後まで、普通は確認できません。たとえ節穴から垣間見たとしても、そばめ(横顔)を、ほんの一瞬、盗み見るくらいです。猫が几帳の裾をひっかけてしまつて、柏木は女三宮を、まざまざと見てしまいますが、こういうことは、まず例外中の例外です。

 容貌が美しいかどうかと云うことは、判別できない状態で、男たちは、女性にfall in loveする必要があります。周囲の人たちの語る評判などは、無論、調べます。が、欠点をひた隠しにして、さほどでもないことを、針小棒大に言い立てる仲人口(なこうどぐち)は、昔から存在します。実際に会ってみたら「えっ、こんな筈じゃなかったのに」ってことは、枚挙にいとまないほど、沢山あった筈です。光源氏だって、末摘花の容貌を、まざまざと見た時、超絶、びびったんです(が、それでも、その後もちゃんと面倒を見るとこが、光源氏の余人には得難い、奥ゆきの深い資質です)。

 結局、相手に惚れる決め手は、歌がすぐれているかどうかと、字が美しいかどうか。あと、おつきの女房たちが、ちゃんとしているかどうか、そのあたりで、決定してしまいます。無論、身分がある一定以上高いことは、必須条件です。天丼やうな重だと松竹梅の三段階に分かれていると思いますが、松は一応、問題なしです(松の階級なのに、NGな姫もたまにいますが)。梅は、最初から注文しません。圏外です。松にうかつに手を出すと、後々の支払いが大変だったりします。竹の中で、リーズナブルな、お値打ち品を見つけ出そうとする、これがまあ、帚木のメインテーマだと、言えなくもないと思います。

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