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自#122|勢津子おばさんの青春物語~その15~(自由note)

 勢津子さんが入学した、日本女子大は、ガツガツ勉強するには向かないような、システムになっていたようです。入学をすると、まず係り決めです。整理係(主に授業のお世話をします)、園芸係、体育係、国際係などのクラスの係りを決めます。次にクラブ選び。クラスの係や、クラブの集い以外に、縦の会(1年~4年の各学年が縦割りで集まる会)、横の会(学部学科の違う同級生が集まる会)、瞑想会(学生全体が集まる会)など、目白(つまり日本女子大)特有の「お集まり」ばかりしていて、一向に授業は始まらなかったそうです。で、ようやく花嫁修業的な授業は始まります。が、数学やドイツ語がstartするのは、まだずっと先です。家政学部二類には、勢津子さんと同じように、物理や化学、数学を早く学びたいと熱望している仲間は、結構、いたそうです。教務主任の上野先生の所に行って、「何とかして下さい」と訴えると、「おとなしく待っていなさい」と、叱られたそうです。勉強をしたいと申し出たら叱られる、如何にも花嫁修業的な学校の面目躍如って感じもします。が、上野先生が、配慮されて、東北帝大の理学部出身の数学の酒井十代先生が、数学を積極的に学びたい学生のために、まったくのボランティアで、高等数学を教えて下さったようです。

 授業は、二十五時間以内で組むことが望ましいと、教務からガイドラインが打ち出されています。最低十八時間、Max取っても三十時間です。が、ガツガツ勉強したい勢津子さんが時間割を組むと、どうしても三十四時間くらいになってしまうそうです。
「あなたはね、勉強熱心というのとは違います。そんなのは強欲と云うものです」と上野先生には叱られましたが、結局、二時間オーバーの三十二時間の時間割を、毎年、許可してもらった様子です。同級生のヨッちゃんも、三十二時間。ヨッちゃんは物理好きです。ヨッちゃんの親も、理系の科目を熱心に勉強することには、勢津子さんの母親同様、大反対ですから、こっそり隠れて、おばあちゃんの部屋で、勉強していたようです。勢津子さんも、ヨッちゃんも、理系の勉強をすることに反対をする母親と云う抵抗勢力が、あったからこそ、よりモチベーションを高めて、地道に勉強できたってとこも、きっとあります。エロ本を堂々と読んではいけなかった中学時代と、おおっぴらにプレイボーイやペントハウスを読んでも、お咎(とが)めなしになった大学時代と、どっちが、よりエロ本的な教養を学習し、吸収できたかと云うと、それは、やはり中学時代です。学びには、まあ種類にもよりますが、やはり「旬」と云うものがあります。
 大学は、正規の受講届の出てない科目の受講は禁じています。勢津子さんとヨッちゃんが2年生になった時、どうしても、3年生の無機化学と、4年生の有機化学が聞きたかったそうです。そこで、化学好きの数人が、教室のドアの外に立って、授業を立ち聞きします。無機の石館先生の授業は、ドアの外でも、朗々としたお声がよく聞こえたそうです。有機の緒方先生の声は小さくて、ドアの外まで聞こえて来なかったようです。そうすると、助手の昆野先生が出て来て「困った人たちね。じゃあ、入れてあげる」と仰って、教室の片隅で聞かせてもらえることになりました。おそらく、毎年、こういう熱心な学生が、数人はいるんです。で、結局は、中で聞かせてあげると云う、毎年、繰り返されているルーティーンのイベントだと云う風にも、想像できます。
 第四高女時代は、同じ文化、同じ空気をshareしていて、みんな同じじゃなきゃいけないと云う同調圧力的なものが、あったような気もします。個性を伸ばすこと、自我を大事にすることは、さほど奨励されてなかったと云う言い方もできます。アメリカ風のリベラルアーツで教育しようとしている日本女子大は、個性ゆたかな良妻賢母を育成しようとしています。人と違っていて、全然、構いません。学長は、コロンビア大学の博士課程でPHDを取得して来た井上秀子女史です。会津出身で、高等師範を出た「精進の人、神の人」を勢津子さんたちに叩き込んだ阿妻先生とは、指導者のタイプがまったく違います。正直、第四高女と、日本女子大とは、まったく別の宇宙だと言っても過言ではありません。太平洋戦争が始まってからは、敵性言語と云うことで、英語を教えることは禁じられていましたが、日本女子大は、西生田校舎と目白校舎との往復を、体育の時間としてカウントして、文部省には体育の授業と云う風に届け出を出して、実際には英語の授業を実施していたようです。東条英機の娘さんを始め、陸海軍の高級軍人の子女も多く通っている女子大でしたから、最終的に「良妻賢母」を目指していると云うことで、お咎めなしだったんだろうと想像できます。
 第四高女では、読むことを禁じられていた小説を、女学校時代に、どしどし読んでいた大学の同級生がいます。勢津子さんも、影響を受けて、トルストイ、ドストエフスキー、ジイド、スタンダール、ゲーテなどを読み始めます。高女時代に禁止されていたからこそ、読書熱は一気に高まったと言えます(が、まあ高女時代に隠れてこっそり読んでいた人には、正直、かないません。これは、エロ本の理屈と同じです)。
 映画やお芝居を観ることが、家の方針だった同級生もいます。月に一度、必ず正装して、歌舞伎に行ったり、日響やN響の定期コンサート毎月、行ったりする人だっています。勢津子さんも、先生や親の許可なしに、自由に友だちと映画を観に行ったりするようになります。アメリカ映画は、敵性文化と云うことで、まもなく、上映されなくなりました。フランス映画と、ドイツ映画は、空襲で映画館が焼けるまで、上映していたようです。
 お金持ちの令嬢は、オーダーメイドのスーツやワンピスを着て登校していたようです。普通のサラリーマンの子女である勢津子さんは、銘仙の着物とはかま。冬は羽二重の絞りの羽織を追加しています。第四高女の女の先生は、全員、紺のはかま姿だったんですが、日本女子大では、上等のつむぎの着物に豪華な帯を締めて、教壇に立っていた先生が、たくさんいて、まあ、そのヘンも、やはり、カルチャーショックを受けたと、想像できます。

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