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自#109|勢津子おばさんの青春物語~その2~(自由note)

 明治28年に高等女学校規定が公布され、必修13科目と、1科目以上を選ぶ随意科目(教育・漢文・手芸・公民など)が決められて、全国のどこの女学校でも、同じようなカリキュラムで、生徒たちは授業を受けました。各科目の授業時数も決められていました。1年生から5年生まで、毎年、だいたい同じカリキュラムです。

 勢津子さんが通った府立第四高女は、年間授業日数は四十週、毎週約三十時間。各科目の時数は、修身二時間、国語五時間、作文一時間、英語三時間、地歴三時間、裁縫四時間、数学二時間、理科二時間、図画一時間、家事二時間(4、5年生のみ)、音楽二時間、体操三時間、作法二時間で、高学年になると、作法がなくなり、教育と公民が加わったようです。私立のミッションスクールでは、裁縫の時間を減らして英語を増やしたりしていたそうですが、官公立は、全国津々浦々、文部省が推奨するカリキュラムを組んでいたようです。

 第四高女の校則は、相当に厳しく、その厳しさが生徒にとっては、誇りのようなものだったと勢津子さんは、述懐しています。髪は、黒いゴムひもできっちり止めます。服装検査、持ち物検査は、抜き打ちで実施されます。各学年の生徒は、校庭に一列で並びます。爪はきちんと切ってあるかどうか、ハンカチ・チリガミは携帯しているか、鞄の中に、「少女クラブ」や「少女の友」が入っていたら指導です。恋愛系の小説は、不良の読むものなので、基本、不可です。

 制服はあずき色のウールのブラウスに、紺のジャンパースカート。夏のブラウスは、白いポプリンです。あずき色は、今の言葉で言うならば、オールドローズのパステルカラー。本物のウールですから、乃木坂46のメンバーだったら似合うかもしれませんが、当時の野暮ったい三多摩のJuvenileたちに似合ったかどうかは、微妙です。ブラウスの襟幅は8センチ。それ以上でも、以下でも不可です(あっ、この頃ですから、制服は、当然、自宅でお母さんがお手製で作ります)。ジャンパースカートのひだは、前後に三つずつの箱ひだ。スカートの長さは、ひざ下4センチ。着丈二分の一の所に、切り返しのバンドがあって、この二分の一は、アールデコ流行の時代(大正末)に決められたもので、昭和の二ケタになると、もう目も当てられないほど、流行遅れだったようです。二分の一のバンドの位置は、かなりの生徒が嫌がる位置だったそうです。今で言うと、股上(またがみ)、とんでもなく長い、だっさいジーンズを、穿(は)くような感じなのかもしれません。

 ちなみに、私は、先日、ユニクロのジーンズを買いました。股上がとんでもなく短くて、驚きました。背中から腰にかけての肌が、すぐに見えてしまうんです。が、これ以上長い股上のジーンズはないと言われました。ワークマンとかに行って、作業用のスボンとかを買うべきだったかもと、思ってしまいました。

 制服のバンドの位置は、不評でしたが、バンドそのものは、中央に真鍮製の立派な金具がついていて、ベルトの部分は、正絹の博多織、色は上衣に合わせたオールドローズのパステルカラー、第四高女ですから、4本の白い線が入っていて、生徒たちにとって、この4本線は、やはりstatusだったようで、このベルトを締めて歩きたいために、第四高女を目指した生徒も多かったようです。

 服装検査は、担任の先生が、ものさしを片手に調べて歩き、違反者はエンマ帳につけられ、何回か続くと、特別指導と云う流れだったと推測できます。この服装検査に違反していた人が、卒業後も、お洒落で、ベストドレッサーだったと、勢津子さんは回想しています。勢津子さん自身は、規則をきちんと守る、その他大勢のsilent majorityの一人だったようです。

毎週月曜日の一時間目に、全校の生徒が講堂に集まり、校長先生の訓話を聞きます。私は、学校業界の人間ですから、毎週一回、全校生徒を講堂に集めることが、教師にとって、如何に面倒で、手間がかかるイベントであるかと云うことは、嫌と云うほど理解しています。戦前ですから、私語はしないと思いますが、列をきちんと整えて、並ばせるだけでも、訓練と努力が必要です。集会と云うのは、gdgd集まって、gdgd解散したら、まったく意味を持ちません。整然とした状態で集まって、秩序正しい集会を実施し、生徒自身が、感銘を受けると云うレベルまで、持って行く必要があります。残念ながら、そんな集会を自分自身が実施したことも、見たことも、ほとんどありません。最初に勤めた足立区の高校で、応援団が全盛だった頃、応援団の集会で、何回か見たくらいです。整然とした規律あふれる集会が実施できれば、集会を実施することは、大きなメリットがあります。週一で、整然とした集会を実施することが、戦前の高女では求められていたわけです。

 が、毎週、1時間、訓話をしなければいけない校長先生は、大変です。今、学校長は、始業式と終業式に、講話をされています。1学期に二回です。話す時間は、長くて20分ほど。が、この1学期にたった2回の講話だって、苦労されている筈です。12歳~17歳くらいのJuvenileの女の子たちのheartを掴む講話を、毎週、一時間やると云うのは、ほとんど不可能なことだろうと、勝手に想像しています。そもそも、女の子が考えていることは、男には判りません。ちなみに、月曜日以外の平日(火水木金土)の5日間も、朝礼があって、そこでも10分程度、校長先生はお話になります。つまり、毎日、ネタを準備しなければいけないんです。私は、現在、週一で、5分程度の授業のネタを考えています。それですら、かなり苦労しています。当時の校長先生ですと、結局は、時事問題、戦況報告(もう日中戦争は始まっていました)などが中心になってしまうと思います。が、勢津子さんは、結構、熱心にlisten toしていたようです。校長先生が、出張とかで、他の先生が話す時は、早く終わらないかと、窓の外などを見ていたそうです。ですから、校長先生は、ちゃんと、生徒に聞かせられる話術のスキルを持っていたと言うことです。

 もっとも、スキルだけでは長続きしません。学校長自身が、しっかりとした人生観、世界観、教育哲学をお持ちになり、常に自身満々で、生徒にぶつかって行ったからこそ、生徒はlisten toしたんだろうと想像できます。

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