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自#108|勢津子おばさんの青春物語と第四高女(自由note)

 近所の古本屋さんで、「勢津子おばさんの青春物語」と云う本を買いました。百円です。それなりに面白い百円の単行本を買って読むことが、私のささやかな趣味です。

「勢津子おばさんの青春物語」は、西川勢津子さんと云う方が、御自分の過ごした学校生活について書いた、一種の自叙伝です。勢津子さんが入学された学校は、東京府立第四高等女学校。入学されたのは、昭和10年4月6日です。府立第四ですから、東京で4番目にできた女学校です。一番、最初にできた女学校は、女子高等師範(現在のお茶の水大学)の付属女学校です。が、これは、明治15年に創立された国立の女学校です。東京府立の第一高等女学校(現在の白鴎)が創立されたのは、明治21年。第二高女(現在の竹早)は、明治33年。第三高女(現在の駒場)は、明治35年。第四高女(現在の南多摩)は、明治41年です。

 南多摩高校の中夜祭の手伝いに、何回か行ったことがあります。校舎の造り方が、ちょっと奇妙だなと行く度に思っていました。それは、女学校→新制高校→中等教育学校と云う風に移り変わって行ったので、つまり継ぎ足し、継ぎ足し、ああ云う造りになってしまったんだと理解しました。

 女学校は、誰でも入れる学校ではありません。当時の義務教育は、小学校(尋常科4年、高等科2年)の6年間だけです。勢津子さんは、第四高女に入るために、受験勉強をされています。昭和の初めにも、受験産業は存在し、勢津子さんが通っていた世田谷区の代沢小学校には、毎日のように、受験産業の営業マンが出入りし、テストの紙を持って来たり模試の案内などを配布していたようです。

 模試は、毎週、日曜日に青山会館で実施されていました。東京だけではなく、近隣の県からも模試を受けるために生徒が上京して来ます。千人くらいの受験者数だったようです。20番以内なら、女子高等師範付属が確実。男子でしたら、7年生の東京高校や府立高校が確実だったそうです。当時から、中高一貫校のような学校が存在していて、高校受験を回避するために、7年制の方が、人気、偏差値が高かったわけです。昭和の初年頃も、今も、中学受験の本質は、変わってないと思ってしまいます。

 勢津子さんの住まいからですと、第三高女が近かったんですが
「空気のよい郊外の学校に行きなさい」と云う父親の鶴のひと声で(この頃は、家父長である父親の権限は絶大でした)八王子の第四高女を受験します。滑り止めは、三鷹台にある立教女学院と、経堂にある恵泉女学院を受けたそうです。で、無事、第四高女に合格し、世田谷から八王子に通うようになります。井の頭線で吉祥寺に出て、中央線に乗り換えて、八王子に通います。かなりの通学時間、通学距離です。つまり、当時、府立の高等女学校、中学校には、ともに学区は存在してなかったんです。それも、今と同じです。

 第四高女の一学年は、最初3クラスでしたが、後で増員されて、4クラスになったそうです。教室の机は、6列で、9個並んでいます。定員は、1クラス50人でしたが、実際には1クラス、54人いたんです。私が教師になった35年前も、やはり教室には、6列で9個の机が並んでいました。で、1クラス、52、3人の生徒がいました。昭和の最後くらいの頃です。昭和と云うのは、とにかく、そこらに人がいっぱいいた時代でした。ちなみにクラスの名称は、3クラスの時は、松竹梅。あとから増設されたクラスは菊組だったそうです。私は、中野区のS高校に勤めていた時、すぐ隣の幼稚園と付き合っていました。年長組のクラスの名称は、梅組さんと桃組さん。昔から、花の名前をつけたクラス名とかが存在していたわけです。ちなみに、男子校である中学校の方は、忠孝仁義礼と云った儒教風のクラス名とかもあったそうです。

 学校の多くの先生の出身は、基本、高等師範学校。男女それぞれの高等師範学校があります。あと英語は津田塾、音楽と図工は、上野の音楽学校と、美術学校の出身だったそうです。東大出や、文理科大(今の筑波)東京女子大を出た数学の令嬢先生、共立出身の裁縫の先生なども、短期間、在籍していた様子です。つまり、学閥です。今も昔も、学閥と云うものは、厳然として存在しています。ちなみに、東京都の教員の旧教育大(つまり旧々高等師範学校)の出身の集まりを茗渓会と言います。それは、教育大が茗荷谷にあったからです。管理職を目指す方々のための、最大派閥だと聞いたことがあります。

 各学校には、校風があります。勤務年数の長い学校長の影響は、大きいと言えます。第四高女の校長は、第三高女の教頭が栄転して赴任して来ます。ですから、第四と第三とは校風が似ていたそうです(今の駒場と南多摩とが似ているかどうかは判りませんが)。勢津子さんは、第四は保守的だったが、オテンバだったと、仰っています(三多摩地区のJuvenileたちですから、都心部orミッション系の令嬢達って雰囲気には、さすがにならないと思います)。

 第四には、女学校には珍しく、プールがあったそうです。今も女子は、プールに入ることが嫌いですが、それは昔も同じです。女学校では、化粧もパーマも禁止ですが、上級生になるとパーマを当てている生徒もいます。それは、お見合いの話が、いつ来るか判らないので、いい縁があれば、即座にお見合いできるように、準備しているんです。当時ですからホットパーマですが、都心部の美容室では、コールドパーマも当てられたようです。上級生のパーマは、お見合いの必要上、学校側も黙認していた様子です。ところで、パーマをかけていたら、プールに入ったあと、目もあてられない状態になります。ゴムできっちり結わえなければいけませんが、それでも、チリチリになっている筈です。それと、八王子は東京の奥地です。曇りの日の水は冷たかった筈です。二グループに分かれて泳ぎますが、前の組の体温で、水があたたまるので、なるべく後のグループで、泳ぎたがった様子です。泳げない生徒は、まず面かぶりバタ足から練習します。顔を水につけて足をバタバタやるわけです。顔を水面から上げると、体操の先生が、デッキブラシで、頭を押して、水に押し込んだそうです。オテンバな女学生たちですから、これくらいのことは、まあ教育上、必要だったと云うことだろうと推測しました。

 プールのある学校ですから、水泳の指導者の先生もいます。後に日本記録を出した卒業生とかもいるそうです。もっとも、今の南多摩の水泳部が、過去の偉大な伝統を継承しているかどうかは判りませんが。

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