四角いマットの人食い狼(12)
──7月31日。
本当なら、試合直後に叩きつけてやるつもりだった。深夜の後楽園ホール。とっくの昔に撤収し、人通りもいなくなった。ぬるい風だけがその場に残っている。
「あんたとリブレのヘビー級チャンプのベルトを賭けて試合がしてえ」
ウルフは、簡易マスクとジャージ姿のラフな格好でそれを聞いていた。
「元神プロの若手エース様にそう言われるとは、光栄だな」
ウルフは唸るように──レスラーとしてのキャラ作りも兼ねている──言った。
「茶化すな。チャンプとして、受ける気はあんのか。聞きてえ」
ハラダはまっすぐに見据えて言った。
「会社はブーブー言うかもな。だが俺も、同じ気持ちだ」
それ以上、二人の男に言葉はいらなかった。四角いマットの上に登れば、レスラーは互いを喰い合う飢えた狼でしかない。
しかしそこに登るまで──ただの狼になるためだけに、どれだけの犠牲を払えばいいのだろう。
「俺たちが今ここでやったら、ファンはがっかりすると思うか?」
「……さあな」
ハラダはチャンプのそっけない態度の中に照れを見た。強い人間と戦いたいのは、レスラーなら当然だが──ウルフにはどこか自信のなさというか、妙な距離感があるのだった。
「俺はあんたに勝つ。勝って神野にも勝つ。シンプルだろ」
「負ける前提で話しすんなよ」
ウルフは笑みさえ浮かべて言った。
「ハラダ。……俺も神野とやるつもりだ。残念だがあんたより先にそうさせてもらうつもりでいる」
「なら、8.8のメインの直前に乱入してやる」
ウルフの野望をかき消すように言いのけてみせた。
「神野とやりたい。それ以上にあんたとも。両方満たすなら神野より先にあんただ」
ハラダは拳を握る。
ウルフは少し笑みを見せながら、背中を向けた。少し言い淀んだようだった。
「……俺は、そこまで立派な人間じゃねえよ」
小さくそう言い残すと、ウルフはそのまま帝国ドームの方向へ去っていった。東京の夜空が、暗黒の中で静かに瞬いていた。
ハラダは一息つくと、別の方向へと歩き出した。
──結論から言ってしまえば、ハラダはその後二度とウルフに会わなかった。
阿久津という男がウルフとして自分と戦おうとしていたことも──その彼がただの身代わりでしかなかったことも知らずじまいだった。
この日──彼と別れてすぐ、阿久津はトラックに跳ね飛ばされて、その人生を終えたのだ。
ハラダがそれを知ったのは、他ならぬリブレ首脳陣──小林社長と小田島から教えられたからであった。
「……それを俺に言って、どうなるんです。ウルフは死んだんでしょう」
戦いたいと願った男は、もはやこの世におらず──神プロの考えが変わらないのなら、ハラダが神野と戦うことはできない。
「だが、やりようはある。それに、我々が生き残る条件は、ウルフが神野と戦い──倒すことに変わった。君は秘密を知ったからね」
小田島の言葉は重々しかったが、納得はできなかった。何を言ってる。死んだものにプロレスはできない。
「ハラダ。君は今リブレの選手だ。その上でお願いがある」
何を言われるか、ハラダには大方の予想がついてしまっていた。そしてそれを、どこか歓迎する自分もいた。
「ウルフのマスクを、俺が被れと」
「分かってんなら話が早い」
小林が静かに切り出した。
「死んだのは阿久津だ。初代ウルフはまだ塀の中だが生きてる。ウルフは生きてなきゃ駄目なんだ」
「……明日の8.8帝国ドームの神野戦、俺にやらせてくれるんですか」
「ああ」
「勝っていいんですか」
小田島は一拍置いて──それでいて淀みなく言い切った。
「リブレの王者、ローン・ウルフは最強だ。プロレス界に生きる以上、それは譲れない」
小林もそれに同意し、頷いた。腹は決まった。
最終話へ続く