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四角いマットの人食い狼(8)

 小林の車──リブレのステッカーが貼ってある黒のワンボックスカー──が出ていくのを見てから、古川は神野に向き直った。

「社長。ウルフは良いレスラーです。しかし、ハラダほどじゃありません。もともとリブレを潰せれば良かっただけの話が、ずいぶんとややこしくなっていませんか」

 神野は飲みさしのコーヒーカップを持ち上げ、なにが珍しいのやらしげしげと見つめながら言った。

「古川よォ。お前、俺と組んで何年になる?」

「20年目になりますね」

 カップが机と接触する。──まるで、神野が得意とするチョップのように。当然のように散華し、あたりに欠片が飛んだ。

「……社長?」

「オメェよォ。なんか勘違いしてねェか」

 神野の周りから、不満という名の闘気が立ち上ってきたのだと気づくのに、そう時間はかからなかった。

「神プロは俺の団体だ。違うかァ? 日本のプロレスは俺を中心に回ってきた。これからもそうだ。いくらオメェでも口出しはさせねェ」

「お、お言葉ですが社長。ハラダとのマッチは日本プロレス史上のビッグマッチにできるんですよ。それをむざむざ無駄にすることないでしょう!」

 古川は必死にそう述べた。ハラダのためでもあり、自分や神プロのためでもあった。

「本気のあなたに辿り着くレスラーが、今後何人いると思うんです?」

「まだわかってねェようだな」

 神野は細巻のシガリロを一本取り出しくわえると、長いマッチで火を点けた。

「客はな。俺が負けることなんか考えたくもねえ。見たくもねェんだ。だが脅かす存在がいることは歓迎される。ハラダはそういう存在にはなれる──だが、俺を倒せねェ。ファンが認めねえ」

「ハラダとはやらない、と?」

「だからやらねェとは言ってねえ。ファンが納得する形で、俺の前に立つには時間がかかるだろうってことだ。リブレを征したら、奴にももっと泊がつく。まあ、リブレのチャンピオンがどれほどのものか、やってみないことにゃあ分からねェがな」

 神野はぐつぐつ笑った。その笑みは、古川のパズルのピースをきれいに嵌めた。
 神が唯一のものであるように、彼もプロレスという世界の唯一無二になろうとしている。
 そのために不要な反乱分子──ましてや取って代わろうというハラダなど、必要ないどころか排除対象なのだ。

「納得できませんよ、社長!」

「話は終わりだ。残念だがな。お前の納得はよォ、俺には必要ねェんだよ」

 神野はひらひらと手を振って、退室を促した。

「お前がやんなくちゃいけねェのは、8.8に向けて対戦テーブルを書き直すことだ。決定事項について、話し合うような耳は持ってねえ」

 ギリギリと奥歯が鳴ったような気がした。古川は返事もせずに、怒りに任せて部屋を出た。なんでもいいから蹴っ飛ばしたかったが、手近なものは何も無かった。

「どうする?」

 彼は独りごちた。古川の人生と神プロは今後も続く。彼はいつか神野が君臨する時代が終わることを理解している。

「このままでは──プロレスが終わりかねん」

 神野は伝説のまま引退できるかもしれないが、日本のプロレスの頂点が彼のままではいけない。
 一度、彼という巨星は堕ちなければならないのだ。太陽を落とそうという人間がいないように、大きすぎる伝説が残るのはこれからのプロレスにとってマイナスでしかない。
 無敵の超人は必要ない。無敵の超人、国民的ヒーローである神野が倒れた後、彼を継ぎ新たなヒーローとなるのはハラダだ。
 熱狂的なファンはそれを望んでいる。プロレスは声の大きいファンで持っている。いかな神野の狂信者としても、彼の直弟子であり、実力者のハラダならば後押しをするだろう。
 勝ち筋はみえている。

 神野が破れ引退し、新たなエースであるハラダにその座を明け渡すことは、このプロレス戦国時代である今を神プロが生き残るために必要不可欠なプロセスだ。
 だからこそこの勝ち筋を逃すような──ローン・ウルフを先に神野と当たらせる行為だけはなんとしても避けねばならない。

 階段を登る足取りは重かった。ハラダは神殺しを狙っている。それはいい。だが他ならぬ自分が、それに直接加担しなくてはならないのは、予定外だった。
 神野は自分にとってのヒーローでもある。これからもそうあってほしかった。
「私です」
 屋上の風はぬるかった。それでも、彼は電話をかけた。

続く