高山京子第一詩集『Reborn』のこと

2024年6月1日、わたしの第一詩集『Reborn』が刊行された。

詩集 Reborn (∞books(ムゲンブックス) - デザインエッグ社) | 高山 京子 |本 | 通販 | Amazon

発売から二週間が経過したが、一時、Amazonの詩集売れ筋ランキングでにおいて、13位にあるのを見たときは驚いたし、うれしかった。いったい、どれだけの方がわたしを応援してくださっているのだろう。たくさんの方々から感想をいただいたり、批評を書いていただいたりしたが、誰ひとりとして同じものがないのも、本当にうれしく、ありがたい。

詩集を出してみて、はじめて、ああ、自分は生きていてもいいのだと思いたかったのだ、と気づかされた。愛を信じないところにも文学は成り立つけど、愛を信じられない、でも信じたいという心の奥底に秘められた意志にわたしは賭けたかった。ひとの、かすかな声、願いを拾いたい。それが所詮綺麗事だと受け取られたとしても。

わたしが、詩集『Reborn』でやりたかったことは、詩を、詩の原型というか、詩を本来の素朴な姿に帰すことだった。心に響くもの。お前の詩なんて、ただの陳腐な言葉の羅列だろ、何を言ってやがる、そう言うひとも多いと思うが、わたしというこの大馬鹿野郎は、真面目に、そう考えて、詩を書いている。

詩は、特別な、選ばれたひとたちのものじゃない。人間が生きていくうえで、泣いたり、笑ったり、悲しかったり苦しかったり、喜んだり、そういうことにダイレクトに結びつくものだとわたしは思っている。最後は、切実な言葉だけが、ひとの心を動かすと頑なに信じている。馬鹿だけど。

言葉も、詩も、究極は祈りだ。だからわたしは、祈るような気持ちで書いている。極端な話、文字の読めないひとたちにも伝わるような詩を書こうと思っている。大真面目に、自分のためだけじゃなく、誰かひとりのために書いている。本当に、馬鹿だと思う。でも、それがわたし。

また、気負いでも衒いでもなく、わたしは、自分の詩集を、ペーパーバックにしてよかったと心から思っている。とにかく、詩を、詩集を、気軽に読んで欲しかった。バッグに入れてもかさばらないもの、気恥ずかしくないものにしたかった。そのまま読み捨てられてもかまわなかった。

わたしは、自意識マシマシの人間ではない。自己陶酔ともほぼ無縁である。詩を書いている自分に、何の価値も認めていない。第一、恥ずかしい。逆に言えば、わたしの詩は、自分の価値を認められなくて苦しんでいるひと、自分なんかもうだめだと思っているひとたちのためにあるとさえ言える。

詩集を編むにあたって意識したのは、長年愛読してきた、日に焼けて手垢がついて、綴じさえボロボロになった中原中也の詩集と、太宰治の第一創作集『晩年』だった。文学は、結局、読まれてなんぼなのである。どんなにみすぼらしくても、誰かの心に届けば、それでいいのだ。

最後に、少しだけ、カッコつけてみる。太宰治の『晩年』について、彼が遺した言葉で締めくくろう。わたしはこのnoteの文章を、彼に倣って書いたつもり。

「私はこの短篇集の一冊のために、十箇年を棒に振った。まる十箇年、市民と同じさわやかな朝めしを食わなかった。私は、この本一冊のために、身の置きどころを見失い、たえず自尊心を傷つけられて世のなかの寒風に吹きまくられ、そうして、うろうろ歩きまわっていた。(中略)舌を焼き、胸を焦がし、わが身を、とうてい恢復できぬまでにわざと損じた。百篇にあまる小説を、破り棄てた。原稿用紙五万枚。そうして残ったのは、辛うじて、これだけである。これだけ。(中略)けれども、私は、信じて居る。この短篇集、『晩年』は、年々歳々、いよいよ色濃く、きみの眼に、きみの胸に滲透して行くにちがいないということを。私はこの本一冊を創るためにのみ生れた」。

詩集『Reborn』、まだお手に取られていない方は、よろしければ、ぜひ。

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