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これまでとこれから その1

はじめに

僕はすごく「言語化」というものが苦手でした。ただでさえ普段の生活から一本の筋が通った会話が成り立たないほど。
でも最低限生きるのには言葉を噛み締めながら話さなきゃいけない。伝わる言葉を使って伝え続けなきゃいけない。これから書き始めるnoteは僕の言語化の自主練でもあり、僕の等身大の鏡でもあり、「しっかりと生きたぞ」っていう証にしたいと思います。

どんな人なの

気づけば社会人2年目の終わりに差し掛かり、もうすぐ社会人3年目になる年の人です。
趣味は写真を撮ること。好きなことは食べることです。

この時期といえば、そろそろ石の上にも3年と言われる"3年目"になるところ。周りでは転職という言葉もちらほら聞こえ始め、自分のキャリア形成のターニングポイントになるのでは...?なんて僕自身は思っていたりします。
新卒で入った会社はハウスメーカー。でも建築はこれまでほとんど触れて来ず、後ほど触れる本当にやりたいこととのギャップに苛まれてきました。
そんなこんなで2024年4月も目前。これから僕は自分の本望から島根県の隠岐島という島へセルフ島流しされることになりました。

まちと人とぼく

こんなサブタイトルをつけましたが、僕はこれまで"コミュニティマネジメント"と呼ばれる分野を大学で学んできました。本来やりたいことっていうのはこれにつながるビジネスでした。
平たくいえばまちの中で生まれる人と人がどうやって連鎖的につながっていくんだろうっていうのをより学問的に、でもまちに出て実践的に学んでいく分野でした。(きっとこんなに平たく言ってはいけない言葉だと思いますが、ご容赦ください)
でもなんでこんな学問を学びたかったのか。なんでこんな分野から就職先を選びたかったのか。
そのきっかけは2011年3月11日に遡ります。

東日本大震災とコミュニティの原体験

この日にあったのは東日本大震災。
僕はこの時小学校5年生で、地元である福島県で被災しました。
多くの人の命が失われて、いまだに見つかっていない人がいる。
でも今日に至るまで、まちに元気を取り戻そうと、未来を信じ続けた人たちの手によって復興が続けられてきました。
そんな中でどうしても生まれる問題であるのが、「住むこと・暮らすこと」。
発災当時は一次避難先として避難所が設けられ、帰る家が無い人は仮設住宅の建設が完了すると仮設住宅へ。仮設住宅といってもプレハブ小屋ですので、当然その後はしっかりとしたマンション(この時は復興公営住宅)に住むことになります。
そこで生まれた問題が「孤独死」でした。
避難所や仮設住宅で住むことになると、どうしても周りのみんなとの助け合いが必要ですし、人間1人で生きようっていったってそうはいきません。
家族もおらず地域に頼れる人がいない状況下で孤独死してしまう人が多く出てしまいました。
この孤独死を引き起こした背景には地域コミュニティの崩壊と再生が繰り返されたことがありました。
原発事故が発生した福島県では、帰還困難区域外に当時住んでいた地域ごとに仮設住宅が作られました。
初めは地域の人たちがこぞって避難していたこともあり、ご近所さんなど身寄りのある人たちも多かったのですが、避難から時間が経つにつれて自宅に戻る人や他県に避難する人も出てきました。
それが避難所→仮設住宅→復興公営住宅→他の避難先や自宅といった流れでコミュニティが生まれて壊されていきました。

住む環境が整えられて、暮らすことができる環境が整えられる。そんな復興が進むことは当然嬉しいことなのですが、このコミュニティの再生と崩壊が半ば強制的に進んでいくことに自分自身が疑問を感じていたことが地域コミュニティに触れた原体験です。

当時これをニュースで見ていた僕は同じ福島県で被災した身であると同時に、同じ県の中でこんな状態が生まれてしまっていることに心が痛く、辛かった記憶が鮮明に残っています。
こうした経験が、のちに出会うコミュニティマネジメントという学問とそれを学びたいと思う気持ちにつながりました。

その2につづく




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