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自己紹介2

就職情報誌の編集制作の仕事で、俺は毎日を楽しく過ごしていました。
休日出勤や、朝は9時出社で毎日23時頃まで残業をしていても何も苦に
感じませんでした。本当に毎日が充実していて。周りからは働き過ぎに感じられたのか編集部長から『お前、たまにはゆっくり休め』とまで言われました。
そのくらいに自分にとって情報誌の編集制作の仕事は楽しくて仕方ありませんでした。そして、時は経過し、三年目の6月頃に夢だった一人暮らしを始めました。実家で伯母や母との暮らしが嫌だった訳では無いのですが、一人暮らしに強い憧れを抱いていたのです。

阿佐ヶ谷の6畳のアパートに引っ越しました。幸いなことにその時期は仕事も繁忙期を過ぎていて。それでも、毎日21時頃迄は仕事でしたが。けれど、夢の一人暮らしも楽しめ、入社して三年目ともなれば仕事もしっかり身についていて、幸せの絶頂にいました。あとは恋人が見つかれば最高だなと。

ところが、引っ越ししたアパートは電車の線路沿いで、夜中もずっと電車が走っていて。電車が通る度に、振動が酷く、目が覚めてしまうようになりました。徐々に眠りの状態が悪くなってしまい、あまり眠れなくなりました。
今、考えると、もっと真剣に住む場所を考えておくべきだったと。でも、後悔先に立たずです。同時期に歯医者で具合の悪い歯の治療を受けていました。すると、前歯を一本丸ごと削られてしまい。嚙み合わせがおかしくなり、どうにも自分を正常に維持することが難しくなってしまいました。

神経の病であることに違いないと思いました。どうにもならなくなり、母に紹介してもらった精神科への通院を始めて。不眠時の薬などを処方されるようになりました。そして、阿佐ヶ谷のアパートも引き払い、実家に帰りました。けれど、一度狂ってしまった神経の病はそう簡単には治ってくれませんでした。

治療に専念したいという思いから会社に休職を願い出たのですが、当時はバブルが弾け、希望退職者を募っている時期でもありました。大好きな編集制作の仕事は覚えたし、会社にも愛着があって。けれど、休職は認められず、体調は最悪のまま。結局、会社を辞めるという選択肢以外にありませんでした。

入社してたったの四年でしたが、大好きな仕事との別れがやって来て。
1994年3月末で退職しました。その後は勿論、身体の治療に専念しました。
歯の治療と不眠症の治療です。前歯はブリッジにしてもらい、嚙み合わせの問題が無くなると、それまでに感じていた身体の異常は徐々に治まってくれるようになりました。けれど、不眠症の方はどうにも簡単に治ってくれませんでした。不眠時の薬を飲むのを止め、何とか眠れるようにと頑張りましたが、三日間一切睡眠できない日が続いて。

結局、不眠時の薬を服用する以外に無いのだと諦めるようになりました。そして、すっかり自分の今後について絶望に近い感情を抱くようになりました。うつ病と診断されたことはありませんが、限りなくうつ病に近い状態だったのだと今は思います。

毎日、何もする気になれず、一週間に一度、精神科の病院に足を運んで薬を処方されるだけの日々を過ごしていました。一年半くらいそんな暮らしが続きました。
そんな時に大阪で新聞記者として働いていた兄が東京に戻って来ることになりました。見兼ねた兄は『英会話学校にでも通ってみたら』とアドバイスをくれて。
毎日、部屋の中に閉じこもってばかりでしたが、上智大学の英会話教室に通うようになりました。ほんの少しですが、また社会との接点ができました。
そして、母は親戚に税理士や公認会計士がいることから「あんたも頑張って税理士をめざしたら」と言ってきました。

全くの畑違いですが、資格の学校に通うようになりました。そして、税理士試験を一度だけ受験しました。けれど、全く歯が立たず。興味のない勉強をいくら繰り返しても頭に入って来ないのだと悟りました。

実家の都合で家族が引っ越すことにもなり、その間に、やっぱり何とか社会に出て働きたい、仕事の内容は何でも構わないと思うようになりました。
1997年の話です。勿論、新聞で求人広告を見ては編集制作関連の仕事ができる会社に山ほどの履歴書を送りました。けれど、全く採用されずじまいで。

ようやく働きたいと思えるようになっても、当時は転職が非常に厳しい時期で。バブルが弾けて不景気の真っ只中でしたから。どうにもならなくなり、伯母に相談しました。すると伯母はシブシブですが知人に俺のことを相談してくれました。

そして、その知人の方の紹介で何とか印刷会社に転職が決まりました。仕事の内容は印刷の営業です。情報誌の編集制作の仕事とは全く違いますが、とにかく働けることの喜びが大きくて。

印刷物の製作の為の見積もりや、得意先の顧客を回るいわゆるルートセールスですが、とにかく毎日働きました。そして、ルートセールスに慣れてきた段階で、自分でも新規の顧客を見つけたいと思うようになり。

新宿西口の高層ビルの中にある会社に飛び込みでの営業を始めました。けれど、全く相手にもしてもらえません。そんな中、昔自分が勤めていた就職情報誌の制作会社に足を運んでみました。懐かしい先輩たちと再会することもできて。そして、その会社から印刷物の製作の契約を貰うことが出来ました。媒体の企画書の製作が最初の仕事でした。新規の顧客であること、そして親会社は一部上場の出版社であることも含め、転職先の印刷会社の先輩たちは一様に喜んでくれました。社長までが「おい、あんた、頑張ってるなぁ。偉いぞ」と直々にお褒めの言葉もいただけて。

丁度、印刷会社に転職してから一年が経過していました。部署の違う先輩から「一年続いたんだから、次は三年だな」と言われて。

けれど、俺自身としてはどうしてももう一度情報誌の編集制作の仕事に戻りたいという思いが日増しに強くなっていました。単なる我儘なのかもしれません。けれど、やりたいことと印刷物の営業があまりにもかけ離れていて。

結論からいくと、会社に辞表を提出しました。就職情報誌の制作会社と契約できたのだから、大量の出版物の印刷を任されることはわかっていました。営業成績は格段に伸びることも保証されています。それでも、どうしても、編集の仕事の魅力が大きくて。社長や上司の方々にそれまでのお礼とお詫びをし、円満に退職しました。


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