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銘醸地は動くのか?【麻井宇介】【ワイン】

 浅井昭吾という人物がいた。1974年からメルシャンのワイン製造に携わり、日本ワイン全体の発展を支え、全国のワイン生産者に多大な影響を及ぼした人物である。言うなれば、「現代日本ワインの父」とも呼べる人物ではなかろうか。

 浅井氏は私個人の出生にも多少関わっているものの、すでに亡くなってしまっているし、直接会話をしたことはないと思う。多くの人と同じように、私にとっても、浅井昭吾という名よりむしろ、彼がペンネームとして使っていた麻井宇介という名の方が馴染み深い。

 とりわけその名を一般に認知させることとなったのは「ウスケボーイズ」という作品だろう。映画化もされており、非常におすすめできる作品だ。

 しかしながら、私は同時に彼自身の著作も紹介したい。彼の著作を読むだけでも、なぜ浅井氏が多くの醸造家から尊敬されるのか、その理由を垣間見ることができる。浅井氏の文章力は抜群で、自身の体験に基づく深い考察、整理された思考、そして論理的文章の中に混じって生産者の魂を揺さぶる「熱」が宿っている。 

 1980年代以降、ワイン造りにまつわる様々な技術、理論の確立、それに対するアンチテーゼとして興った自然派ワインの出現。日本だけでなく世界規模でのワインシーンの変化を最前線で目の当たりにしてきた浅井氏が何を感じたのか。 

 今日は、彼の著作、「比較ワイン文化考」と「ワイン造りの思想」の中から、彼の「ワイン風土論」に関する記述をまとめ、紹介したい。

「風土」とは

 なぜ浅井氏が風土論に関する提言を行おうと思ったのか。その根底には、当時の日本における「ある状況」があった。それは造り手を含め多くの人が、ブルゴーニュやボルドーで偉大なワインができるのはその場所の自然環境に依るものだと納得していたということである。

 浅井氏は、その場所に生活し、ワインを飲み、かつ評価する人間の側からの働きかけが見落とされていると感じた。

 浅井氏はマデイラ酒を例にしていたが、今風に言うと、オーガニックワインなども人間からの働きかけがある1つの例だろう。環境や健康に対する関心が高い欧州では有機認証プロダクトは市場で受け入れられやすい。こうした影響を受けて、近年のヨーロッパでは急速に有機畑への転換を進めているという側面がある。この流れの結末として、どこかの産地の酒質を決定的に変えてしまうこともあるだろう。

 また、かつてソーテルヌが、甘口ワインを否定するフランスのスノビズムによって減産に追い込まれたことも例に挙げている。

 ともかく、ワインについて語るとき、自然環境のみならず、飲み手、造り手という人間からの働きかけを忘れてはならない。そこで浅井氏は「風土」という言葉を用いた。

 浅井氏の言う「風土」とは和辻哲郎という哲学者の言う「風土」のことを指している。すなわる「風土」とは人間の労働と資本の蓄積が、自然に対してどのように作用したか、いわば人間と自然の関係性が歴史とともに積み重なり現れたものである。和辻哲郎も浅井氏も、こうした「人間」の側面を重視しているように思う。

 そして、人間という側面を切り落とし、土壌や気象条件などの自然環境が絶対的な銘醸ワインを生み出すという考え方を「宿命的風土論」と呼ぶ。

 では、素晴らしい自然環境を得られなかった人々は銘醸ワインを造ることはできないのか?いつまでの二流のワインを造り続けるしかないのか?どうしたら、この「宿命的風土論」を超え、新たな銘醸地を生み出せるのか?

 この問いが浅井昭吾、そして麻井宇介の生涯をかけて挑んだ問いであったのかもしれない。

宿命的風土論を超える

 現代において宿命的風土論を支持するワインの飲み手は少ないのかもしれない。我々は世界中のあらゆる場所で、素晴らしいワインが生まれることを知っている。また地球規模の気候変動を肌で感じはじめ、もはや恒久的に恵まれた自然環境など存在しないことを知っている。

 浅井氏の時代においてはニュージーランドが、この宿命的風土論を爽快にぶっ壊すワイン新興国であった。とりわけ、浅井氏に衝撃を与えたのが、NZのマタカナという小さな町のプロヴィダンスというワインであった。マールボロなどの大産地ですらない土地で、ボルドーの銘醸ワインに匹敵するワインができていることに衝撃を受け、そして燃えたという。

 プロヴィダンスの感動を1つの契機に、浅井氏はワインの歴史を振り返り、ワインに対する認識を再構築する。

 実は、世界的に見て宿命的風土論は、1960年代以降いくつかの波を受けて破壊されていった。1つ目は技術革新。すなわちドイツのフレッシュ&フルーティーな白ワインの出現である。果汁の段階から極端に酸化を避ける技術が実用化され、世界中へ広がった。2つ目として品種の波が押し寄せる。パリスの審判でボルドーのカベルネ・ソーヴィニヨンは、ブルゴーニュのシャルドネは、新興産地のカリフォルニアに負けた。国際品種という名前もあるように、もはや品種はその土地の専売特許ではなくなった。次に、技術と品種の波を押し返すように、伝統的な産地で「テロワール」の波が生まれた。

 もはや産地がどこであろうと、それなりにおいしいワインは誰でも造れるようになった。ここに来て、1つ突き抜けたワインを生み出す「造り手」の時代が到来する。造り手は世界中を飛び回り、各々のフィロソフィーに従ってワイン造りを行っていく。ミシェル=ロラン氏によるシャトー・ル・パンの成功が例として挙げられていた。ル・パンは樽内MLFという技術の産物ととらえる人もいるかもしれないが、本質は造り手の熱意によるものだと述べている。

 ちなみに「ワイン造りの思想」では、これらの時代の波を肌で感じた瞬間を詳しく述べてあり、裏話、小ネタも満載なのでぜひ読んでいただきたい。

 こうした波を受けて、宿命的風土論は壊されていった。そしてこの流れに日本は取り残されたという。半ば自虐的に語る「高温多湿」、「酸性火山灰土壌」。そこに一種の諦めを抱いた時点で、我々はもう世界に追いつけないでないか。そもそも!完璧に恵まれた土地など存在しないのに!ブルゴーニュにもニュージーランドにもその場所にはその場所の問題が存在する。みな、人の熱意と努力によってその問題に対処しているのだ。我々だけが嘆いてはいられない。

 さあ、ワイン造りにおける、いくつかのキーワードが出てきた。「技術」、「品種」、「テロワール」、「人」。では、真に偉大なワインはどのようにして生まれるのか?

 それはいかにして「技術」を用いるかを判断できる「人」がいなければならない。またその「人」は自分の拠って立つ「テロワール」を理解し、いかなる「品種」がふさわしいか洞察する力が求められる。

 こうして浅井氏は「人」にたどり着いた。伝統的産地であろうと、彗星のごとく現れた新興産地であろうと、どちらも「人」の熱意と努力の賜物なのだ。このように「人」にフォーカスが当たるようになった背景には高度な情報化社会の存在が背景にあると指摘している。

 さて、ここで「人」というファクターは少し特徴的であることを述べなければならない。「技術」、「品種」、「テロワール」はワインの味にどのように関与してくるのか理解しやすい。一方で、「人」を語ってもワインの説明にはならない。また、飲み手はラベルの向こうの造り手をなかなか知ることはできないし、造り手の志がいつもワインに反映されているとは限らない。

 結局のところ、飲み手はそのワインの凄さを自ら見抜くしかない。いや、こう書くと、ワインはとても難しくなってしまう。素直に、おいしいかおいしくないか、自分の気持ちに従えば良いと述べている。そして最後に、とある人が言ったこの言葉を添えて、文章を締めている。

 「ドアを開ければ、たとえ暗くても、自分が小さな教会にいるのか、大聖堂にいるのかは、わかるものだ。」

宿命的風土論に対する私の考え

 ここからは私個人の意見である。

 いまや日本ワイン業界の実情も(おそらく)大きく変わり、宿命的風土論を抱いている日本の生産者は少ないのかもしれない。少なくとも私は、日本がブドウ栽培に適していないとは思っていない。

 もちろん、ある側面から見たら日本がブドウ栽培をする上で問題が多いことはまぎれもない事実だが、問題がない産地など存在しない。これは確信を持って言えることだが、すべての産地が何かしらの問題を抱えたままブドウ栽培を、そしてワイン造りを行っている。

 ただ、ブドウの環境適応力をなめちゃいけない。例えばリンゴやコーヒー豆などとは栽培可能範囲がまるで違う。もはや、ブドウに向いてない場所など存在しない、と、そこまでの信頼を抱いてさえいる。人の熱意と努力でいかようにもなる、だからブドウ栽培は面白いのではないか。

 できあがるワインだって、私は日本が世界に劣っているとは感じない。少なくとも私がワインについてずぶの素人だったころ、バイト先のバルで取り扱っていた日本ワインたちが他国のワインと比べて劣っているとは、これっぽっちも思わなかった。まっさらな価値観で味わうと、そこに品質の優劣など感じなかった。

 だけれども、日本のワインは世界と比べると遅れているという風潮を感じる時がある。私はすでに追いついていると思うのだが。「いや、やっぱり日本ワインの品質は世界と比べるとまだまだじゃないか!」と反論する人もいるだろう。その感覚もまた真であるのかもしれないが、私は私の感覚を信じている。日本ワインをおいしいと感じれないのは、ワインに精通する過程で後天的に獲得したワインの評価の基準に邪魔されているのではないか。私も以前、バイアスのかかった基準でワインを評価していたと気づかされる出来事があったのを強く覚えている。

 そして、私が強く言いたいのは、あくまで日本ワインは世界に”追いついた”だけである。浅井氏がNZのワインに感銘を受けたのは、それが世界のトップ層に躍り出たからである。やはり、我々は追いつくだけではダメで最前線まで上がってこなければならない。そこまで来てはじめて、我々は宿命的風土論から本当の意味で脱却できるのだ。

 では、何をもって最前線とするか。これだけ多様性のあるワインの世界の中で明確な定義は難しい。そしてこの部分こそ、造り手の思想や哲学が入り込むべき隙だと思う。前提として、我々はトップを目指さなければならない。けれどもその目指し方や目指す先は造り手の考えに委ねられる。そして、この理想を実現するためのツールとして、「技術」、「品種」、「テロワール」などといったキーワードが立ち上がってくるのであろう。また、時代の流れとともに、キーワードは絶えず変化する。ブドウの様子を観察するのと同じような深い洞察をもってして、我々は人とワインの関係も、注意深く観察しなければならない。

 こうしたものの先に、真の「風土」を反映したワインが待っていると信じている。

 やっぱりワインは「人」なんだ。人が人のために、大いなる自然の力を借りて造るものなんだ。そして真に「風土」を反映させたワインは飲む人に豊かさを与える。富や名声による豊かさとはまた別物の豊かさである。私の、あなたの、五感に直接響く豊かさである。そんなワインが造りたい。そんなワインを造り、1人でもいいから誰かの元へ届けることで、少なくとも6000年は続いてきたワインの命をさらに未来へと生かす礎になれると期待している。

終わりに

 浅井氏の宿命的風土論という切り口から、浅井氏のワインに対する考えとそれに対する自分の考えをまとめてみた。自分の考えが多くなってしまったが、ここで最も紹介したかったのは、浅井昭吾ないし麻井宇介という人物である。

 私のもっと具体的なワインの理想は、実際にワインを飲みながら対面で語らせてほしい。酒でも飲まんと、私の個人的なお気持ち表明はなかなかこそばゆくて。お誘いお待ちしてます。

 それはさておき、浅井氏の日本ワイン業界に与えた影響は計り知れないものがあるし、もし業界歴の長い造り手と話す機会があったら、浅井氏について聞いてみると面白い話が聞けるかもしれない。

 最後になるが、せっかく浅井氏がワインに関する論理的な土台を築いてくれたのだから、みんなでその上にさらなるワインの考察を積み上げていこうではないか。そして、造り手の熱意と飲み手のワインに対する愛が絡み合い、さまざまに移り行くワインの姿を皆で見守ろうではないか。

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