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この手を離さないで ~王都脱出編~

 城門を抜けて、しばらく走った後、小さな公園の木の下に、ヘルトはうずくまっていた。

ーーーここだ、と呟いて、少し掘ってみる。すると木製の板のようなものが見えた。掘り進めると、木箱が姿を現した。蓋を開けると、女物の服。背中に冷たい視線を感じた。

『い、いや、これは、故郷から送ってもらって』

 と、言ってもまた誤解を招いてしまっているようだ。目の前の少女は後ずさりしている。

 城からけたたましくベルが鳴り響いた。とうとう女神脱走に気付かれた。いや、今まで鳴らなかったのが不思議なくらいだ。

『早く着替えて!』

 ヘルトは持っている服を渡す。

『・・・え、ここで?』

 ヘルトは首をぶるぶると振って公園のトイレを指さした。ヘルトも準備していた自分の服を持ってトイレに駆け込む。

―――ゆっくりしている時間はないぞ!

 ヘルトはさっさと自分の着替えを済ませ、掘り出した木箱から、大きめの腰に下げるポーチを取り出し、カチリとベルトのバックルを締めた。さらに木箱から小振りのナイフと手のひらに収まるくらいの水晶を取る。だが、もうひとつあるはずの水晶がない。

『あれ、もう一個どこにいった?』

 中を探るが、もう何も出てこなかった。

『やっぱりない。くそ、こんな肝心な時に、何やってんだ!』

『ごめんなさい』

 不意に背後から声がした。ヘルトは驚いて振り向く。白いブラウスに群青色のロングスカート、町で流行りのコーディネートを送ってくるあたり、送り主はさすがだ。
 
『い、い、いや、違う。君のことじゃないんだ』

 ヘルトは顔を赤くして答える。

『こういう服着るの久しぶりだから・・・変、かもしれないけど』

『全然! 変じゃないよ。あの、うん・・・似合ってるよ』

 少女はにこりと微笑む。絞り出した言葉が裏返ったり、途切れていたりしなかったか、見違えた目の前の少女に緊張して、自分の声すらうまく聞き取れない。

『女神が居なくなったらしいわよ』

 耳に入ってきた言葉に、はっとした。公園に来ている女性たちの噂話のようだ。我に返ったふたりは、着ていた服を木箱に入れて、また埋め直した。目立たないよう、平然を装って公園を後にする。

 一方、オッチデント城内は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。ヘルトを逃したスピンは我関せずといった風に、粗大ゴミの片付けをしていた。

『こっちです!』

 粗大ゴミ集積所の現場監督を任せられている兵士の声だ。朝礼が終わったら顔も見せないくせに、いかにも集積所を熟知したような口振りで、ひょろりと背の高い男と書類を抱えた秘書然とした女を案内してきた。

 こちらに近づくにつれ、男が仮面をつけているのが分かった。左に笑顔、右に泣き顔が描かれている仮面。スピンには見覚えがあった。慌てて持っていたゴミを放り投げて膝を折り頭を深く下げる。

 オッチデント軍の最高位である四貴将のひとり、バルドウィン将軍。監督の兵士はスピンなど目に入らないかの如く、揚々と将軍と秘書をヘルトが出てきたダストシュートの排出口へと連れていった。

『これが出口かい?』

 そう言ってバルドウィン将軍は仮面の顔を地面に近づける。スピンの鼓動が早くなる。監督の兵士はへらへらしながら必死に頷いていた。

『うーん、やっぱりここから脱出したんだろうねぇ』

『まさか、そんな・・・』

 兵士の顔がみるみる青ざめていく。バルドウィン将軍の言うとおりだとすれば、監督責任を追及されるだろう。

 慌てて兵士は取り繕う。

『恐れながら、私には不自然な点はないように思えますが』

『そうかい。粗大ゴミが上から落ちて来るのに、えらくきれいな地面だとは思わないかい?』

 ドキン! スピンの心臓が大きく波打つ。人間が落ちてきたことを隠すために、砂で隠したのが仇となった。

『君はどう思うね?』

 スピンは慌てて答える。

『私は・・・ここに来たのは今しがたなので分かり兼ねます』

 冷や汗が背中を伝っていくのが分かった。バルドウィン将軍は立ち上がってスピンの方へ歩いてくる。今回ばかりは甘かったと自分を呪いながら、目を固く瞑った。近づいてくる足音が、自分の生命のカウントダウンのような気がした。

『いやいや、君じゃないんだ。誤解させてすまないな、少年』

 そうスピンに声をかけ、通りすぎていくバルドウィン将軍。スピンがおそるおそる顔を上げると、バルドウィン将軍の行く先に鎧を身に纏った初老の男性が立っていた。腰の剣の紋章が目にはいる。

ーーーあれは、伝説の将軍、ラインハルトじゃないか! すでに四貴将を引退し、隠居したんじゃなかったのか。スピンは、いや兵士もバルドウィン将軍の秘書も驚いていた。

 おどけた様子で話しかけるバルドウィン将軍とは対照的に、眉ひとつ動かさず、静かに佇むラインハルト。

『君がここに居るってことは、僕も推理に確信が持てるよ』

 ラインハルトは言い終わるのも待たず、マントを翻して歩いていった。ーーー連れないね~、とバルドウィン将軍は両手を上げて首をすくめた。

 プルルルと秘書の電話が鳴った。

『将軍、王から召集がかかりました』

 バルドウィン将軍はにやりと笑った。

『さっきの続きは会議で聞くとしよう』

『ラインハルト様も出席なさるのですか?』

『たぶん来ると思うよ~』

 バルドウィン将軍と秘書は粗大ゴミ集積所から風のように去っていった。

ーーーなんか分からんけど助かったぞ、と大きくため息をついたスピン。同じように監督の兵士も大きなため息をついていた。

 オッチデントの城下町には、東西南北それぞれに大きな街路(ストリート)があり、城門から真っ直ぐ、外の街道へと繋がっている。公園から出たヘルトたちが歩いているのは、『ハーフェンストリート』と呼ばれる東門から伸びる道だ。別名『異人通り』と呼ばれ、最も多くの人種が往来している。東エリアから出る街道を行ったすぐ先にオッチデント国で一番の港があるためだ。港は貿易の起点であると同時に、重要な防衛の拠点でもある。

 そのために東エリアは、年中人が溢れていた。ヘルトたちは、人混みの中ではぐれないよう手をしっかりと繋いで、間を縫うように進んでいく。

『こんなに人が多いところを歩いて大丈夫なの?』

 手を引かれ、必死にヘルトについていく少女は、人目を気にしながら前を歩くヘルトに小声で聞いた。だからだよ、ヘルトは少女を見ずに答えた。

『これだけ人がいれば誰も僕たちには興味を持たない。だから顔を上げて、もっと堂々として』

『でも、私、こんな服で街に出たことない』

『大丈夫。その・・・すごく似合ってるから』

 相変わらずヘルトは前を向いている。少女は聞き返したい気持ちをこらえ、ヘルトの言葉を力に出来るだけ顔を上げるようにした。

 ヘルトの言うとおり、誰もこちらを気にする様子はない。進む足に迷いなく、どんどん進んでいく。急ぎ足だが、それは通りを歩く者皆同じようだった。女神の頃は、厳めしく悠然と歩く練習ばかりさせられていた。ヘルトの足についていかなくて何度も両足が絡まりそうになりながら、懸命に後をついていった。

 わぁー、という色めき立った歓声と人の壁が二人の行く手を阻んだ。なにやら大道芸のようなものが人の壁の向こうで繰り広げられているらしかった。

 迷惑なことだ、とヘルトはため息を吐き、路地裏へと回った。が、そこにはまた大道芸とは違ったビジネスが行われていた。うろんな風体の男が四人、屯(たむろ)していた。年の頃は二十そこそこか。にやにやとこちらを値踏みするような眼差しが爬虫類のような雰囲気を醸していた。

『君達、ここを通りたきゃ500ゼン置いていきな』

 なるほど500ゼンとは考えたな。

 500ゼンと言えば子どもに与える小遣いくらいだ。つまり事を荒だてられない程度。警官もたったそれっぽっちでは動かないだろう。学生崩れといったところか。騒ぎを起こしたくないというのはこちらも望むところ。ヘルトは腰のポーチに手を突っ込んだ。財布を出したと同時に、ポーチから転げ出るものがあった。水晶玉だ。コロコロと転がり、男たちの目の前で止まった。
ーーーしまった、と思ったがもう遅い。真ん中に座っている面長で目の細い男が隣の男に目配せして水晶を拾わせた。

 ドラム缶のようなものに座ったまま、真ん中の男が水晶を受けとる。他の男たちの様子を見るに、その男がリーダーのようだった。リーダーの男はしばらく水晶を弄んで言った。

『うん、気に入った。こいつで500ゼンは勘弁してやるぜ』

『ダメだ。返してくれ。金は払う』

 金を差し出しながら、ヘルトは男に歩み寄った。

 横にいた男に肩を掴まれたと思った時には腹部に衝撃が走っていた。持っていた金がヒラヒラと舞って音もなく地面に落ちた。男たちの厭らしい笑い声が耳につく。

『おい、素人だ。手加減しろよ』

 そう言ったのはどの男か。確かめる間もなく次の一撃で、少女の目の前まで吹き飛ばされた。駆け寄った少女は、心配そうにヘルトの肩を支えた。ヘルトの口に血の味が広がる。

 ニタニタと笑いながら、殴った男が近づいてくる。

『その辺にしとけ。おいガキ、通してやるからもう消えろ』

 リーダーの男がひらひらと手で促した。ーーーこんなところで使いたくなかったのに。ヘルトは唇を噛んだ。しかし、背に腹は替えられない。よろよろと立ち上がって、服についた汚れをパンパンと払う。

『合図したら目を瞑って。僕が手を引くからそのまま走って』

 え、と少女が聞き返す間もなく、ヘルトは落ちたお札を拾う。

『これはまあ、ご丁寧に』と、茶化したのは殴った男とは別の男だ。ヘルトはお札を鞄に入れた。代わりに出したのは、錨のような形の金属だった。

『今だ!!!』

 少女はぎゅっと目を瞑った。

 射抜くような強い光が暗い路地裏から溢れ出した。男たちの目に強い刺激が走る。ヘルトは少女の手を取って走り出した。目を抑え身悶えするリーダーの男からすれ違い様に水晶玉ひったくって、ヘルトと少女は路地裏の奥へと消えた。

 男たちは目が見えるようになると急いで二人を追ったが、もはや足取りをつかむことは出来なかった。結局、金も取れなかったリーダーの男は地団駄を踏むほどに悔しがった。

 十五畳の広間に十人ばかりが詰め込まれ、ひとりひとりに薄い布団一枚があてがわれた。室内は密集しているせいか、外よりも幾ばくか温かい。袖がちぎれたり、膝に穴が開いていたり、貧しい旅の者たちが使う安宿の、一番安い部屋だった。その隅に、およそその場に似つかわしくない少年と少女が座っていた。ヘルトには、個室を取る金もなく、少女と二人で一室を借りる勇気もないが、この部屋を選んだのは彼の作戦の内だった。

 不安げに周りを見回す少女をよそに、ヘルトはポーチから、鉄製の器を取り出す。上にはぽつぽつと細かい穴が開いていた。それを床に置き、中に干し草を詰め、フーフーと息を吹き掛ける。そうすると穴から蛇のように煙が立ち上がる。【香】だ。藺草(イグサ)のような爽やかで、金木犀(キンモクセイ)のように甘い不思議な香り。

『これで僕たちは薄くなった』

『薄くなる?』

 ヘルトは頷く。

『この香は、火と大地のウーラを混ぜてるんだ。僕たちのおしゃべりは小鳥のさえずりぐらい誰も気にしないし、明日になればここに人がいたかも覚えてないはずだよ』

『ウーラ、懐かしい響き』

『そう、僕たちの故郷、フリードの言葉だ』

 ヘルトの言葉に少女はハッとする。ヘルトは少し笑みを浮かべて話を続ける。

『北の出身なのは、教会で女神としての君を見た時から気付いてたんだ。肌の色もそうだけど、なにより魔術を使っていたから。しかも、あれは【サフィラス】犠牲の魔法だろ』

 少女はうつむいて、ヘルトから目をそらした。

『あれは奇跡なんかじゃない。傷病を癒すわけじゃなく、自分の体に移しかえるものだろう? どうしてそこまでして』

『やめて』と、少女はヘルトの話を遮った。少女の吐いた深い溜め息が香の煙を揺らした。二人の間に緩やかな静寂(しじま)が訪れる。

『私の名前は、ウルカ』

 唐突に少女は話し始めた。沈黙の間に彼女なりの決意を固めたようだった。

『私は他のフリードの少女たちと共にここに連れてこられた。あれから、もう七年。長かったわ、すごく』

『七年前って、前オッチデント王が北の少女を生け贄として差し出させた【魔女狩り】』

 そう、とウルカは頷く。『でもそれは』と言葉に詰まり、怪訝そうなヘルトの顔を見れば、言いたい事は分かる。それに応えるようにウルカは言葉を紡いだ。

『歳が合わないんでしょう?』

 ヘルトはウルカの言葉に無意識に首を縦に振っていた。前オッチデント王は三十年以上続いた東西戦争を終結に導いた英雄。だが決して人道あつい人柄ではなかった。数々の蛮行の中で最悪とも称される【魔女狩り】。七年前、北地方のすべての村からひとりずつ、当時十五歳になる少女を生け贄として差し出させた。もちろん抵抗する村もあったが、ひとつ残らず圧倒的武力により焼き払われた。

『あの水槽。週に1回、五時間あの中で過ごすの。いつの間にか成長は止まり、傷もすぐ治るようになって』

 ウルカはヘルトの頬を撫でるように、すっと手を当てた。ツンとした痛みにヘルトの顔が歪んだ。

《クォド・ドロロル・マイヒ・プラチェル》

 温かい光がヘルトの視界を白く満たす。徐々に視界が晴れ、ウルカの輪郭が認識出来るようになる。彼女の唇に赤く痛々しい傷が出来ていた。ヘルトは自らの頬を確かめる。

 不良たちに殴られた傷の痕跡は跡形もない。みるみる内にウルカの傷も消えていき、艶やかな唇にすっかり戻っていた。まるで奇跡だ、と魔術だとか分かっているヘルトでさえ、そう思ってしまうほど、目の前のウルカは鮮やかで神秘的に映った。

『他の少女がどうなったかは知らない。ただ私は【竜の血】に耐性があったと言われたわ。それから女神になるために、修道女として教会で一年。それからは知ってのとおり、女神として国民を騙してた』

 ふふっ、ウルカは笑う。それは自嘲か、騙された国民への憐憫(れんびん)か。

『私、これしか出来ないの。昔から魔術は嫌い。今も、嫌い』

 ウルカは呆然と自分を見つめるヘルトから目をそらし、煙を立ち上げる鉄製の香炉を指で撫でた。

『これ、私が北にいた時にはなかった。これだけじゃなく、昼間のあれも』

 女神の扱う『奇跡』を目の当たりにしたヘルトは、夢見心地からふと我に返る。開口一番に出た言葉は、ああ、とまだまだ気の入らないものだった。

『実はさ、僕も魔術苦手で、結局ひとつも習得出来なかったんだ。それで西の城に奉公にやられた。スパイ活動みたいなこともしてるけど、たぶん期待はされてない。大した指令も来たことないし。家族からすれば出来損ないを、なんとか体よく追い出したかったんだと思う』

 でもさ、とパッとヘルトの顔が明るくなる。ポーチの中を探って、あの水晶玉をウルカの顔の前に掲げた。ウルカの美しい輪郭が水晶に歪んで映る。

『魔導具って言うんだ。二年くらい前にベアテルっていう天才魔術士が開発したんだ。ベアテルは僕とほとんど変わらない歳なのにさ、新しい魔術式の開発とか葬られた古代魔法の復活とか、とにかく経歴が半端じゃないんだけど、特にこれ!』

 なんとも愛おしそうに水晶を眺めるヘルト。

『これはさ、ベアテルが最初に作った魔導具なんだ。何度もリメイクされてて、他の追随を許さない、キング・オブ・魔導具なんだよ。家から初めて送られてきた魔導具がこれでさ、魔術が使えない僕にとっては正に革新的なことだったんだ!』

 それでさ、とヘルトの話は一向に切れず、魔導具をポーチの中からあれやこれや出して並べはじめる始末。

 その姿は、自分のコレクションを見せる幼子のようで、頭を撫でてでもあげようかと思った。ふいに、昔の記憶が甦る。かけてくる男の子の姿。飛び散る赤い血。叫ぶ女性の声。まるでいきなり床が抜けたかのように抗えないまま、視界は鮮烈な過去の記憶に支配される。

ーーーガラッ! と部屋の戸が乱暴に開けられた。その音にコレクションを見せびらかしていたヘルトも追憶の中に居たウルカも、はっ、と我に返った。

 そこには二人の兵士が立っていた。部屋にいた十数人は一様に兵士を見上げていた。ウルカだけが、頭を深く下げる。

『大丈夫だから』

 ヘルトがそう言って握ったウルカの手は冷たく、小刻みに震えていた。大丈夫、とヘルトは自分に言い聞かせるようにもう一度呟いた。兵士が何も言わず、座っている客を足でどけながら、部屋に入ってきた。

 もうひとりは中に入ってこない。逃がさないためかと思ったが、表情に生気がない。気乗りしていないのは明らかだった。

ーーー逃げるか。いや、こういう時のためにここを選んだ。信じろ。ウルカと繋いだ手に力が入る。部屋の中の兵士がこちらに近づいてきた。

『なんかこの辺、変な臭いがするな』

 薄くなるといっても、完全に見えなくなるわけではない。会話や接触によって相手がこちらを認識すれば、効果はなくなってしまう。兵士の足がヘルトの足を掠める。

『今、なにか足に』

『おーい! もういいだろう。逃げてんのに悠長に宿に泊まる間抜けがどこにいるんだよ。もうこの町にも居ねぇんじゃねぇの』

『おい、このバカ!』

 兵士の足下に座っていた女がやおら兵士の足を掴む。ぐらりと兵士の体制が揺らぐ。

『逃げたってなんだい、兵士さん。まさか、牢屋から殺人犯でも脱獄したんじゃないでしょうね!』

 その女の一言で、親鳥にエサをもらう小鳥のように室内の客が騒ぎ出す。入り口に居た兵士はペロッと舌を出してそそくさと退散した。

 残された兵士はやっとのこと女の手を振り払った。

『勘違いするな! 然(さ)るやんごとなきお方が行方をくらませたのだ。すぐに見付かる。邪魔したな』

 もみくちゃにされながら逃げるように兵士は部屋から出ていった。ヘルトはほっと胸を撫で下ろした。出ていった後も部屋の中は騒然としていた。

 傍らで、ヘルトの手を握りしめうずくまって震えているウルカの肩に、そっと握っていない方の手を置く。びくりとウルカの背中が跳ねる。

『もう大丈夫だから』

 ウルカは顔を上げない。荒い息づかいが徐々に収まっていくことだけは分かる。噂話にふける周りの客を見ながら、朝になるまでは、これ以上、大事にならないことを願った。


 日が沈む時分に、青年が屋敷に戻ると、ひとつ年下のメイドが深々と頭さげる。

『おかえりなさいませ、ウィルソン様』

 それには応えず、さっさと自分の部屋へと引っ込む。ウィルソンはむしゃくしゃしていた。路地裏ビジネスで、彼をバカにした態度を取った奴がいたのだ。名前も歳も分からず探す術はない。やりきれない気持ちになって当然だ。椅子を持ち上げ大袈裟に音を立てて箪笥に投げつけてやった。

 大丈夫ですか、とすぐにメイドが飛んでくる。

『うるさい!』

 ウィルソンが怒鳴ると、すみませんと何回も頭を下げる。自分が粗相をしたわけでもないのにすぐに謝りやがる。その姿に彼は無性に腹が立つのだ。まるで幼い頃の自分を見ているようで。いや、感情をぶつけられる機会がないだけで、今でも父親の前ではこうなのかもしれない。

 このメイドは十八になった日に、父親からあてがわれた女だ。どこぞの奴隷商から買ってきたか。父親のそんな下卑た一面が、全身に虫酸が走るくらい嫌いだった。そして馬鹿で無関心な母親も、奴隷根性が染み付いているこの女も、なにもかもが気に入らない。

 そこにきてあのガキだ。メイドが加勢を呼び、叱りつけられながらも、ウィルソンが壊した椅子と箪笥を片付けているのを横目に窓の外を見る。父親が見えた。この時間に屋敷に戻るのは珍しかった。

 いつもは貴族の嗜みと称して、どこぞの高級店で意味のない政治話をしているか、女のところに行っているか。

 初老のベテラン執事が、開け放たれたドアをコツコツとノックした。なんだ、と素っ気なく返す。

『旦那様がお帰りです。なにやら火急の話があるようで。至急、ウィルソン様を呼ぶようにと』

 チッ、と舌打ちをして、ウィルソンは執事と共に父の元へ向かった。

 驚くことに、執事は居間ではなく、直接、父の書斎へ案内した。まだ十にも満たない時、勝手に入って父の逆鱗に触れて以来、近寄りもしなかった。甦った記憶にウィルソンは口に苦いものを感じた。

 執事がドアをノックすると、中から重く響く声で、入れと短い言葉が聞こえた。キキィと開ける時に軋んだ音がするのは、昔から変わらない。あの時、この音のせいで見付かったのだ。未だ修理していないのは、きっと防犯も兼ねているんだろうと、ウィルソンは推察した。

『坊っちゃんをお連れしました』

 うむ、と頷き、追い払うように手をひらひらとさせた。執事は心得たとばかりにそそくさと部屋を出ていった。執事が出ていくのを見送り、父が口を開く。

『久しぶりだな、お前とゆっくり話すのも。まあ、掛けなさい』

 父の出す重低音がいやに耳につく。良い報せではないだろうと容易に想像出来る。

『火急の用とは?』

 椅子に座らずにいるウィルソンに、父はもう一度、椅子を勧める。

『掛けなさい。急ぎだが、私たちが焦ってもどうにもならない話だ』

 ウィルソンは諦めて、椅子に腰掛ける。

『失礼します』

 父は満足げに頷いた。ひとつ大きな溜め息を吐いて、父は話し始めた。

『今日の午後、女神様が拐われた』

『それは、また大事ですね。行方は?』

『分からん。今、城下一帯を探しているところだ。大々的に探すわけにはいかん。城内で拐(かどわ)かしなど、オッチデントの沽券に関わる。もはや、城下のご婦人方の間では噂になってるようだがね』

 なるほど、と深刻そうな顔を作ってはみたものの、ウィルソンは一向に興味が湧かない。民衆が神だと崇め奉っている少女は、前王が連れてきた娘だ。どんなカラクリか知らないが、連れてきてから五年も経っているのに、一向に成長する気配がない。軍学校を卒業した先輩から、毎週、研究室で怪しい液体の中に入って、それを何時間も警護しなきゃならんと愚痴っていた。おそらくその液体がカラクリの正体なんだろう。だからウィルソンは女神など全く信じていないのだ。

『しかし、なぜ私にこんな話を』

『お前も来年には軍学校を卒業する。配属先は分からんが、内情をよく知り、嘆願を出しなさい』

 ああ、そうか。とウィルソンは得心がいった。そういえば、そろそろ嘆願の時期。この人はこの先、トラブルの予想される部署に配属されないようにと、念押しにきたのか。なんとも抜け目のないことだ。

『話は分かりました。では、これで』

『うむ、お前は頭だけは良いのだ。よく行く末を考えて一日一日考えて行動しなさい。それと、その服装も。もう少し貴族らしくしなさい』

 気を付けます、と言って頭を下げる。部屋を後にしようとする時、キキィと障りのあるドアの音と共に、父の大きな独り言が耳に入った。

『警護部も大変だ。下働きのガキが女神を拐かしたなど』

ーーー下働きのガキ。

『お父様、その下働きとは男ですか?』

『なんだ、興味があるのか。 確かに男だが。功を焦って捕まえようとするもんじゃないぞ。学生時代の栄光などなんの得にもならん』

 下働きのガキと見た目が十五、六の女。ウィルソンはピンと来た。昼間のガキ共。あいつらが下働きと女神に違いない。女の方はよく顔を覚えちゃいないが、男の方はしっかりこの目に焼き付いてる。

 ここで父に話したところで、ただ父の手柄となるだけで、復讐も果たせない。自分で見つけ出し、溜飲が下がるまで痛め付けた後、女神共々、城に突き出してやる。ウィルソンはにやりと暗い笑みを浮かべた。

 ウィルソンが因縁の相手を見付けたのは、次の日の朝だった。

 急がなければ、王都から出てしまうか、他の兵士に見付かってしまう。父から話を聞き、ウィルソンはすぐにいつもつるんでいる三人を呼び出した。もう夜も更けてきている時分に呼び出しを受けるのは、それなりの家の息子にとっては非常に迷惑な話だったが、なにしろウィルソンの父親が自分達の父親の上司なものだから逆らえもしない。渋々、集まった四人。

 ウィルソンだけは鼻息荒く、これから昼間の二人組を探すという。そこまで頭にきているのはウィルソンだけだ。三人は顔を見合わせるが誰も異議を唱えることが出来ないまま、捜索が始まった。

 手当たり次第に潜んでいそうなところを探した。なにしろ路地裏をビジネスの拠点としているのだ。逃亡者が隠れそうなところには自信があった。が、一向に見付かる気配はなく、とうとう朝日を拝むことになってしまった。

 自分はまだしも、さすがに他の三人は親が心配しているかもしれない。なにしろお堅い家の箱入り息子達だ。頭が悪くても、自分よりは大事にされていることだろう。自分も一緒に謝りに行ってやろう。そう、諦めて帰ろうした矢先、宿の裏口から出てくる二人を見付けたのだった。

 一夜通しの眠気など吹っ飛んだ。叫びながら走り出したいところだが、宿でたっぷり休息を取ったであろう二人を相手に、大捕物を演じる体力も自信もなかった。

 こっそりと二人の後をつける。それが精一杯。こちらが一晩中探している時にのんきに宿で寝ていたのだと思うと、余計に憎々しく感じてきた。しかし、頭もなかなか回らない。これからどうしたものか、アイディアのひとつも浮かばない。

 二人は止まっている馬車の荷台に隠れようとしていた。これはチャンス、とウィルソンは拳を握りしめた。このまま二人を捕らえるのもいいが、万が一逃げられる可能性もある。

 門だ。荷は必ず門を通る。ここからだと北門に違いない。確かに平和ボケした門兵は杜撰で荷の確認もほとんどしない。が、女神が誘拐されているとなれば、必ず門で改めを受けるはずだ。ウィルソンは門に先回りし、馬車を待つことにした。数分後、ゆっくりと馬車が門に近づいてくる。手ぐすねを引いて待ち構えていたウィルソン。ついに馬車が門に到着した。

ーーー来た! ついに来た! 復讐の瞬間。奴らの絶望にうちひしがれる顔が目に浮かぶ。

 荷馬車が門兵の指示でゆっくりと停まる。門兵が御者に近寄り二、三言葉を交わした後、手を進行方向に上げた。

『行ってよーし』

 ウィルソンの狙いとは裏腹に、いつもの杜撰な対応だった。

『待て待て待て待て、待てーーー!』

 隠れていた物陰から飛び出し、兵士に駆け寄る。びっくりした馬車の御者も慌てて綱をひく。嘶きながら、馬車は止まった。

ーーー危ねぇ。もう少しで逃げられるところだ。

『おいおい、役務の邪魔は困る』

『邪魔とはなんだ!』

 一晩寝てないせいか血走った眼で、兵士を叱り返す。

『俺は見てたぞ! あんた、中身も確認せずに行かせようとしたろ』

『知らん。とにかくこの馬車は既に改めたのだ。さあ、早く行きなさい』

 御者は頭を下げて馬車を動かす。

『待て! その中に女神がいるんだ』

 兵士は溜め息を吐き、応援を呼ぶ。二人の男が脇にある休憩所から顔を出した。未だ暴れる青年に、手こずりながらようやく抑え込むことに成功する。

『俺は、ウィリアム・デルタ・ヘンドリクセンの息子だぞ!』

 聞いた兵士が、絡めた手をパッと離す。

『ヘンドリクセン様のご子息か』

 ウィルソンの息は荒い。まだそう遠くに行っていない馬車の荷台を指差し叫ぶ。

『分かったら早くあの馬車を止めろ!』

『ダメなのです』

『なぜだ? 意味が分からん。ちゃんと職務を果たせ!』

 兵士達は顔を見合わせる。

『他でもない、ヘンドリクセン様からのお達しです。あの馬車は改める必要なしと』

 驚きのあまり、声が詰まるウィルソン。

『このことはお父様には申しません。ですので、私たちのこともどうかご容赦を』

 小さくなっていく馬車。荷台にかけられた白色の幌(ほろ)が風になびく。隙間から憎らしい、あの少年の顔がのぞいた気がして、ウィルソンは唇を噛んだ。

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