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夢の扉をひらいた日③

 1999年11月のある朝。
 よく通る道の脇に流線形の黒い塊が転がっていました。近づいてみると、翼と脚をきちんとたたみ、まぶたを穏やかに閉じたカラスの亡骸でした。厳粛な気持ちになったのを覚えています。

 その数日前、知人から「俳句をやってみないか」と誘われていました。

 ジョン・レノンが「世界一短い詩」と呼んだ俳句に私はそれほど興味がなく、誘いを断るつもりでいましたが、夕方同じ道を通った時カラスの死体がなくなっているのを見て、胸のあたりがざわざわしたんです。

 知人が紹介してくれたのは満田春日さんという、私より少し年上の俳人でした。聡明で教え上手な春日さんのおかげで、私はみるみる俳句が好きになりました。

 本屋や図書館へ通って、先人たちの句も読み漁りました。最初に目にとまったのは山口誓子という俳人のこんな句です。

ボート裏返す最後の一滴まで  誓子
海に出て木枯帰るところなし  誓子

 いいなぁ。こういう句を自分も作ってみたい。そう思いました。

 あれからまもなく20年。7千句以上は詠んだと思います。平均すると毎日1句ずつ作ってきた計算です(それでも私の句友たちにくらべると寡作)。初学の数年間はこんな句を詠んでいました。

真つ白な矢印踏んで春休み
イエズスのサンダルうすし花筏
シスターはグレー眉根のハンカチも
白黴のチーズが青く黴びてゐる
アスファルトソフトクリームレクイエム
秋澄むや胸ごとすぼむ手風琴
息深く露けき沓をそろへけり
小春日や急須かたむければ首も
クリスマス烏の糞に種あまた
灯台を南端に置く冬薊

 当時は角川賞や俳壇賞にも挑戦していました。角川は700人ほどの応募があり、私は最終選考の30人に選ばれるものの、そこから上へは行けなかった。

 カラスがきっかけで俳句を始めた私は、その一年後にはカラスのうんこの句を詠めるまでになって(笑)いました。上記クリスマスの句の「糞」は「まり」と読みます。音読してみてください。黙読だけでは気づきにくい韻律を感じられると思います。一句一句音読して確かめながら作るのも、俳句という文芸の楽しみのひとつかもしれません。

 2006年春。私は満田春日さんが興した俳句結社『はるもにあ』の創設メンバーとなり、同人誌の表紙デザインなども手がけました。

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 風になびく木の図案に見えますか。
 裏表紙を広げると小文字のhと日輪だった、というささやかな仕掛けです。

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 はるもにあ以降の私はこんな句を詠んでいます。

霜の葉のさうでない葉にかぶされる
顎鬚を濡らし四温の何日目
流氷や耳を小さくして眠る
燃えうつるやうな雨音蕨餅
はじめから濡れてゐる草石鹸玉
ひとひらの凹んでゐたるチューリップ
掘つ立ての更衣室より瀧行者
せめてその麦藁帽の冷めるまで
坐らせて運動会を鎮めけり
ともかくも銀杏くさき靴を脱げ
冬帽のロボットが項垂れてゐる

 作風は、どうでしょう、あんまり変わってないですかね。

 こうして、俳人として歩むことが私の心の支えになりました。

 シンガーソングライターへの夢が頓挫した後、部屋の中であてのない作曲活動を続けていた私に、夢とは何か、夢を生きるとは何かを考えさせてくれたのが俳句です。

 20年前、私が俳句を始めた時、ある人にこう言われました。

「小説家を目指せばいいのに」
「俳句なんて金にならないよ」

 おっしゃる通り。
 俳句はお金になりません。俳句雑誌は部数が少ないので原稿料も安いと思います。俳人たちは自腹で吟行に出かけ、自腹で出版した句集を句友たちに無償で配りながら日々研鑽し、作句しつづけるのです。

 お金にならない。裕福を目指さない。
 そういう創作活動があっていいんだ。


 俳句は道楽ともいえるけれど、けっして金持ちの道楽ではありません。貧しくても芸術家でいられるのですから、ある意味究極の道楽かも。

旅に病んで夢は枯野を駆け巡る   芭蕉

 松尾芭蕉が最後に詠んだ句といわれます。
 病床で気弱になって、感傷に浸りながらこの句を詠んだのだ、と若い頃の私は思っていました。
 しかし今はちがう。彼の気持ちがわかる気がします。
 こんな所で寝てはいられない。蒲団をたたんで、冬の野へ出て、草木や水や鳥に向き合い、また新しい句を作らなくちゃ。一句でも多く。一句でも多く。芭蕉の「夢」は未来への期待でも過去への郷愁でもなく、「ただただ今を生きたい」という渇望だったのではないかと。

 感じたことを、今かたちにすればよいのだ。
 私は遅ればせながらやっとそのことに気づきました。そして、いったん肩から力が抜けると、再び私の耳の中で音楽が鳴りはじめました。


(つづく)


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