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夢の扉をひらいた日②

 前回大勢の方が読みに来てくださったようで恐縮しています。
 
 1994年。
 34歳の私は代々木上原にあった音楽事務所でシンガーソングライターとしてのデビューに向け準備に明け暮れていました。で、結論から言うとデビューはできなかった。

 以下は私の略歴。当時の経緯にも少しだけふれています:

マキタカシ
1959年、大分県生まれ。
8歳の時、家にあったオルガンで独自に作曲を始める。
大学在学中、演劇部でブレヒトやシェークスピアなどの劇中歌を数多く手がけ、卒業後は都内の広告代理店に勤務しながら英米文学の詩をモチーフにした作曲を続ける。
1989年、スペイン北部のサンティアゴ・デ・コンポステラで開催された夏期プログラム Música en Compostela に参加。各国から集まった若き音楽家と交流し、歌を創作する喜びを新たにする。帰国後はPR会社などに勤務しながら日本語による作詞作曲を本格的に開始。
1993年、レコーディングエンジニアの益本憲之氏と出会い、氏の音楽事務所でシンガーソングライターとしての道を模索するも、事務所の解散に伴いデビューを断念。1995年以降は広告デザイン業のかたわら創作を継続。現在までに100曲を越える。
2019年、Spotifyなどで自作の曲の配信をゆるやかにスタート。

 というわけで、音楽事務所がなくなってしまったんです。

 事務所でデビューを目指したのは2年弱。
 プロの編曲家の方々にデモテープのオケを作り直してもらい、いろいろな歌手のアルバム企画に作詞作曲家としてプレゼンさせてもらったり、レコード会社の関係者に生歌を披露するためのライブハウスへ下見に出かけたり。

 楽しく刺激的な日々でした。

 その一方で事務所内では何か問題が起きていたようで、社長とスタッフの間に微妙な空気が流れていました。ある日社長はアメリカへ帰り、残されたスタッフは事業を縮小してどこかへ移転。代々木上原のビルを訪ねると、そこはもう空室になっていました。益本さんとは何度か国際電話で話しましたが、日本へ戻るつもりはないようでした。

 ごく近しい友人にも話したことがなかった、これが25年前のデビュー未遂の顛末です。

 デモテープのおかげで一度だけ、ささやかな仕事が舞いこんできたことがあります。梓みちよが前衛的なクラブミュージックを歌う『AZZUSA』というアルバム。私は作詞を2曲依頼されました。

「エニグマみたいな世界観の詞を日本語で書いてほしい」

 ディレクターの女性に言われ、二つ返事でお受けしましたが完成したアルバムは……うーん、エニグマとはちょっとちがうかなぁ。長い曲の一部をYouTubeに上げたので、よかったらお聴きください。


 AZZUSAは売れず、廃盤になったと思います。

 その後もしばらくは自力でデモテープを各社に送り続け、会ってくれたディレクターもいましたが、話を先へ進めることができなかった。私の力不足でしょう。

 ソングライターになるのが私の夢でした。

 待てよ。夢って何だろう。

 夢には2つの側面があるように思います。

 歌づくりは楽しい。
 死ぬまで続けたい。
 だったらその夢はライフワークです。

 商業的な成功をめざすなら、夢は「起業」でもありますね。実現までのビジネスプランも夢に含まれるのでしょう。

 夢がふりだしに戻った時、ライフワークとビジネスプランのはざまで私は少々混乱していました。
 会社勤めをやめて創作に専念していたのであわや路頭に迷うところでしたが、たまたま友人に誘われて一緒に立ち上げた広告デザイン事務所が波に乗り、食うに困ることはなくなりました。仕事が忙しくなるほどに創作の時間は激減し、マイクも機材も埃をかぶったままになったんです。胸の奥が痛んでも、気づかぬふりをしていたような気がします。このままフェードアウトしてしまうのか……。

 1999年。
 そんな竜頭蛇尾な私に心境の変化が訪れました。音楽とは無関係のある人たちとの出会いが、私の目からウロコをはがしてくれたんです。

 きっかけは11月のある朝、道端に落ちていた一羽のカラスの亡骸でした。

(つづく)

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