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子育て後悔・挑戦アンラーニング。

度々ツイッターに登場しますが、私には高校2年生の息子がいます。


自分で起業家育成プログラム(東京都主催・無料)を見つけてきて応募し、書類選考や二度の面談を経て見事メンバーに選ばれ、この度無事プログラムを終了。

プログラム中にメンターと一緒にデザインしたアプリを形にし、何とか在学中に起業しようと試行錯誤しています。

帰国子女で英語は堪能。読書やボードゲームが大好きで、イングランドプレミアリーグのチェルシーの大ファンでもあり、サッカー部では良い友人にも恵まれているよう。

母には内緒だそうですが、この夏に彼女もできたと報告がありました。


親バカフィルターを差し引いても、なかなかハイスペックな息子に育ったなと思っています。将来が楽しみで仕方ありません。

『どうやってそんな風に育ったんや。』

そんな疑問が聞こえて来そうですが、実は私にも良く分からない。
もちろん子育てにこれが正解というのは無いでしょう。
とっくに喉元を過ぎて、私自身、子どもが幼少期の頃のツライ体験を忘れている事も多々あると思います。

だから、もし今あなたが子育てに悩み苦しんでいたとして、このnoteにはとてもその悩みに答える事はできない。

ただ、まがりなりにも私も16年間真剣に子育てに向き合って来ました。
まだ子供だけれど、いずれ大人になる一人の人間との接し方に迷っている方がいて、もしこの文章が何かのヒントになれば幸いです。



後悔していること

順風満帆に進んできたように見える子育てでも、
実は大変後悔している事があります。
それは、『もっと甘やかせば良かった』ということです。

どういう事でしょう。

男の子のお父さんなら、誰しもこんな事を考えるのではないでしょうか。
「強くたくましくなれ」
「スポーツや学問を修めて尊敬される人間になれ」

まだ2歳や3歳程度のお子さんでしたら特に、
「この子の可能性は無限大だ」
「何でも好きな事に挑戦させよう」
「夢を応援しよう」

などと、無限の可能性を秘めた純粋無垢な真っ白いキャンパスに
自分の理想的な子ども像を掲げ、
知育おもちゃや子供用のサッカーボール、野球のバットを買い与える。

スポーツクラブに通うようになれば練習の見学に出向き、
自分でやったことも無いスポーツのアドバイスにいそしむ。
家での自主練を促し、何とかそれを習慣化しようと工夫をこらす。

親は無意識に、自分の成功体験を子どもにトレースさせようとしたり
自分の子どもが他人に誇れるような「優しく、賢く、礼儀正しい」子どもになるよう(時に厳しさを伴い)躾ける。

私は完全にこの思考でした。
子の幸せを願う親としては、ごく自然にたどり着くマインドだと思います。そして、私はそれを否定しません。

願わくば、誰よりも幸せな人生を送って欲しい。
だから、愛してやまない息子にも時には厳しく接する。当然です。

ここで、私の後悔である『もっと甘やかせば良かった』を少し掘り下げたいと思います。具体的には、

『抱っこを禁止した』
『好き嫌いをトマトしか認めなかった』
のニつが、私の子育て史における最も愚劣で後悔しかない育児決定でした。

歩けるようになった頃から、
親に甘えない、足腰の強い子どもになって欲しいという願いを込めて、
妻にもできるだけ抱っこをしないようお願いしました。
足が速くて運動の得意な子どもになって欲しかった。

好き嫌いは甘え。何でも食べる事が正義だと錯覚していました。
トマトだけは嗚咽が出るほどだったので妥協しましたが、
嫌いな食材を残す事は許容しなかった。
偏食が一切無い私にはそれが当たり前だった。

今考えれば、どちらも私自身のくだらない見栄と思い込みです。
それらを禁止した事で失ったものの方が実は遥かに大きい。
そう、失ったんです。


息子が10歳になった頃、会話の流れで「抱っこしてあげようか?」と聞いた事がありました。既に息子も小学校高学年で、
「今更そんな年でも無いよ(笑)」という展開を予想していたのですが、

「え!!本当にいいの!?やったー!!」
と満面の笑みで私の腕に飛び込んできたのです。もう5年生にもなって。
ところが、抱っこしてあげたのもつかの間、
「もういいよ。」と、
期待とは違ったような顔をしながら腕から離れていった息子を、それから抱き上げる事はニ度とありませんでした。
きっと幼かった頃の息子の記憶にあった、
父の大きな腕、身長の2倍以上高くなるワクワクする目線、
それは、もう私の腕の中には無かった。

楽しい家族旅行の時に立ち寄った海外のホテルのレストラン。
何気に頼んだグリーンサラダには、日本人には馴染みのない柑橘類(はっさくのようなもの)が入っていました。
私でもこれは美味しくないな、と思いながら食べたのですが、この時、どうしても息子はこのサラダを食べる事が出来なかった。
「無理して食べなくてもいいよ」と妻は言うのですが、それが私には甘やかしに見えてしまった。

「好き嫌いはトマトしかだめだよ。それ以外は頑張って食べる。」
と頑なに食べる事を強要し、息子は涙を浮かべながら目の前のミカン入りサラダを食べるのですが、やはりどうにも無理らしい。
楽しいはずだった旅行先での食事の時間は、息子にとっては体が受け付けないものを無理に食べさせられる地獄になり、
私にとってはふがいない息子に憤りを感じる時間になり、
今でも負の感情と強く結びついたその情景が忘れられません。

いずれ私よりも大きくなる息子。
抱き上げる事のできる時間なんて本当に限られている。
どうして、私はそんな二度と帰って来ないダイヤモンドのような時期を投げ捨ててしまったのか。

いろんなレストランでたくさん楽しい時間を過ごして来たはずなのに、
よりによって、悲しそうな表情で涙を浮かべながらサラダを食べようとする息子の顔が、海外旅行の一番の記憶になってしまっている。
その旅先がどの国で、他にどんな料理を食べたのか、どんなホテルに泊まったのか、何一つ覚えていないのに。

こんな悲しい事はありません。

今でこそ高校生になった息子に当時の思い出を語って謝るけれど、
そんなんじゃ私の全く気は晴れません。
当時の息子をもっともっと抱き上げて、大好きだよって頬ずりしたい。
食べれない料理はパパが食べてあげるから、好きなフレンチフライをたくさん食べるといいよって言ってあげたい。


厳しく躾ける事。
それは否定しません。
集団生活を生きる上で、他人の気持ちを想像し、思いやり、協力していく事は生きていく上で不可欠です。
それは絶対に獲得すべき能力でしょう。

健康な体、規則正しい生活、我慢強くやりきる精神。
どれも大変素晴らしい素養です。
それを子どもに求めるのは当然でしょう。
だって親は子どもに幸せな人生を送って欲しいから。

それでも、今となっては思うんです。
そんな事よりも、子どもの頃の君をもっと抱っこしてあげれば良かった。
楽しい食事の時間を過ごせば良かった。


何でもかんでも子どもの我儘を許していれば、
野放図で手に負えない問題児になってしまうんじゃないか。
好き嫌いばかりで太るんじゃないか、病弱になるんじゃないか。
そんな不安を口にする声も聞こえてきそうです。
正直その答えは私には分かりません。

ただし。
子どもはこうあるべきという親のエゴによって
なんと多くの幸せな時間を手放してしまったのだろうという後悔。
それは確実に私の胸にあるのです。


子育てにおける挑戦

上段の後悔に至ったのは息子が10歳になった頃です。
この後悔は、私をある結論に導きました。
それは、

息子には息子の人生がある。
私の理想とする子ども像に息子を当てはめる事は今後絶対にやめよう。

というものでした。

言い換えるなら、エゴで凝り固まった理想の子育てをアンラーニングする作業です。めちゃめちゃ難しい。

今でもこの手の葛藤は起こります。私の理想に息子をはめようとする。
その度に、上述の結論を反芻し、アンラーニングに挑戦するのです。

一体どういった挑戦があったのか。
私なりの子育てのヒントのようなモノは実はここにありそうです。


最初の挑戦は、子どもの好きな事を絶対に否定しない事でした。

デュエルマスターズというトレーディングカードが大好きだった息子。
一緒になって遊びました。
大人の財力でカードを箱買いし、子どもと開封を楽しみながら、自分で自分のデッキを組んで息子に挑戦します。
コロコロに連載されていた同名の漫画はしっかり読み込み、アニメも一緒に見る徹底ぶり。

始めは、
こんなカードにお金をかけてもいずれ捨てる事になるだろうな、とか
カードゲームなら、トランプのような買い切りの玩具で遊んでくれたらまだいいのにな、とか
適当に息子をあしらって違う趣味に誘導する事もできたと思います。

しかし。
息子がはまっていたデュエルマスターズに徹底的にのっかろうと決めた。
敢えて、時間とお金を割いて、息子と同じ趣味にコミットしようと決めた。
一緒に楽しもうと決めたのです。

「パパ、デュエマしよう?」と誘ってくる息子を、
できる限り受け止めました。

やがて息子はいろんなものにハマっていきます。
スマホのゲームアプリ(クラロワ・ブロスタ等)や、ポケモンや、ラノベやアニメ etc.

その度に、
「それはどうなの」「時間の無駄じゃないの」「俺には全然分からない」
「オタクになったら大丈夫かな。」
などの否定の言葉が浮かんできます。
しかし、自分の価値観で息子を判断しないと決めていますので、
絶対に私の尺度を通したそれらの言葉を口にはしません。
言いたくなる。言いたくなる。でも、それをぎりぎりで食い止める。
自分のエゴや思い込みを抑え込みアンラーニングする事は、本当に挑戦でした。

そんな中でも最大の試練だったのは、
息子が小学生から続けてきたサッカーの「部活を辞める」と切り出してきた時でした。

私は中学校入学から大学卒業までの10年間、
社会人になってからも地元のチームに所属するほど、
ずっとバレーボールを続けてきました。
スポーツを通して培われた数々の友情や人の縁であったり、
サードプレイスとも言うべきコミュニティへの所属が容易であったり、
学生時代に部活に打ち込む事で得られた多くの成功体験から、
「部活を辞めたい」という息子に対し「部活は続けるべき」と言いたい自分と激しく葛藤しました。

部活を続ける事は、我慢強く、崇高な事だ。
大人になってからも絶対に役に立つ。
私はそこに一片の疑いも無い。


でも

私はそれらの言葉を飲み込みました。
親のエゴに挑戦し、勝利した瞬間でもありました。

私の理想を押し付ける事で、息子に負担をかけないと決めた。
息子の人生だから、息子が思うように生きて欲しい。

「そうか。分かったよ。悩みがあるなら聞くからね。」

いろんな言葉を飲み込んで、息子の主張を尊重しました。


息子は今、いきいきと自分の好きな事に打ち込んでいます。
経済行動学の書籍を読み漁り、
高校生のうちに起業する目標に向けて邁進し、
海外の大学を視野に入れて情報を集め、
興味関心のあるセミナーや勉強会に参加し、
デュエルマスターズのカードを売買してお小遣いを稼いだり
バイト(学校では禁止されていたけど社会勉強と言って先生に特別許可をもらった上でw)に行ったり、
それでも、しっかり学校の課題はこなし成績は学年でも上位をキープしているようです。

後々分かった事ですが、部活を辞めたかったのは、やりたい事が多すぎて時間の捻出が難しかったというのが理由でした。
それさえも顧問の先生に直訴し、公式戦には出れないけれど来れる時には練習に来てもいいというマネージャー枠を勝ち取り、しっかりサッカー部の先輩や後輩と良い関係を築いてるから立派なものです。


親はなくとも子は育つという言葉があります。
きっと子供は、たくましく育つのでしょう。

あなたのエゴで、子どもの世界を限定していませんか?
あなたが親から受けた教育や習慣、それは子供を、そして同時にあなた自身を息苦しくしていませんか?

自分が親からしつけられた常識は、無自覚に自分の思考様式を決定しています。それらに逆らい、育児決定をする事は非常に困難です。

だから、挑戦という表現を使いました。
自分の理想やエゴをアンラーニングするという挑戦です。

きっと、あなたも私と同じように、子育てに悩み苦しみ、正解か不正解かも分からずに迷走するでしょう。
それは、親として成長していくには必要な過程だと思います。

子育てに関して、「それが正解だったよ。」なんて誰も教えてはくれない。
結果のようなモノがいつ出るのかも分からない。
それでも今、私は息子との信頼関係を実感しています。

人より足が遅くても、未だに好き嫌いがたくさんあっても、
もう何とも思いません。
笑顔で食卓をかこみ、お互い好きなモノの話をする。

料理のお皿から椎茸をのけようとすれば、私がそれをひょいっと食べ、
ゲームの話を始めれば食いついて一緒に語り合うのです。

そして、息子がいつか人生をかける程の大きな悩みとぶつかった時に、
相談相手として私を頼ってくれたらいい。

親と子供の関係は、それくらいで丁度いいのかも知れません。


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