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桜に薬指


建設会社にアルバイトとして働いている画家敬之。バイト先の会社の責任者である有田課長は、協力会社の内藤とアルバイトの田中のチームワークを心配し、近くの繁華街に飲みに行く。そこで不気味な男と出会い、その男は内藤に「戻ってきたのか」と聞く。独身寮、桜町を舞台にした人情小説。




              1

 桜の花びらくらいの小さいリボンのついた純白パンティが、僅かに膨らんだ恥丘を覆い隠すように目の前にたたずんでいた。敬之は屈んだ体勢のまま、腰骨に引っかかっている紐の部分を指先で軽く摘むと、左右同時に静かに引きずり下ろした。透明感のある乳白色の肌にほど良いくびれのおへそ周り、上向きに引き締まった尻からすらりと伸びた足、非の打ちどころのないバランスのとれた体だ。
 10センチくらい下ろしたところでパンティの裏生地がめくれて見え、同時に恥丘が顔を出しこちらを覗いていた。成熟した体形とは裏腹に恥毛らしきものがまったくない。サラッとした肌つや、剃毛した跡も見当たらない。そこには恍惚さえ思わせる美丘と、少し奥には無臭にして恥ずかしそうにたたずんでいる花園が見え隠れしていた。
「何やってんのよ!」
 裕子の声がした。
「あっいや」
「この変態! お店の人に見つかったらどうすんのもう」
 敬之の横に立ち、呆れた顔でこちらを見ている。
「冗談、冗談」
 目の前のマネキン女が、敬之のことを無表情で笑っていた。
 二宮敬之。長く付き合っている裕子のところに居候中の自称画家。日曜日に近くのデパートへのショッピングに付き合っているところだ。女性が好んでショッピングするような所には、アートやデザインに関係したものが比較的に多い気がする。
 オリンピック三ノ輪店からしばらく歩いたところにある裕子の住んでいるアパート。色々なお店が立ち並ぶ屋根つきショッピングモールをぶらぶらすることが好きな彼女らしい選択だった。何となくほっとさせてくれる雰囲気をかもし出すこの街は、田舎の自然のような安らぎを与えてくれる、自然な人々が多く住むところだ。
 ずり下ろしたショーツを元に戻さずに、その場を立ち去ろうとした敬之に向かって、
「戻しなさいよ!」
「わかったよ、もう」
 しぶしぶと答えながら、もう一度マネキンの前に座り込む敬之だった。
「股下2センチくらいかな? 多少ねじれてるくらいがもっとエロいんだけど、それはそれで、アートっぽさが掻き消されちゃうか」
「難しいんだなぁ、エロスとアートのバランスって」
 もたついている敬之に裕子は、
 ゴンッ。
 敬之の頭上からゲンコツを振り下ろした。
「痛ってぇ、何すんだよっ」
「何ぶつくさ言ってんのよ!」
 顔を真っ赤にした裕子がいた。

              2

「じゃ、行ってくるから」
「気をつけてね」
 口紅を塗りながら裕子が、玄関口から出て行く敬之を見送っていた。すっぴんで自宅にいるときにはあまり見ることのない化粧をビシッと決めた裕子の顔は、男から見てもかっこいいと思うくらいキャリアウーマンっぽかった。
 敬之はというと、バイト先の制服である工事用の作業着を着ており、さらに先っぽが重い安全靴を履いている。この格好のまま二人がそろって街中を歩くと、すれ違うたいがいの通行人は、その異様いや時間帯によっては考えられるような関係を疑われた。そのため敬之がこのバイトを始めてからというもの、裕子はあえて時間をずらして会社に出勤するようにしている。
 荒川区からバイト先の会社のある土浦まで電車で一時間以上はかかる。それでも交通費の全額支給、さらに他のバイトよりも比較的に時給が良いことから、このアルバイトを選んだ。週に半分、月・火・水のみのバイトではあるが、週5日でコンビニのレジ打ちをするよりもその給料は高い。
 早朝の上野から土浦駅へと向かう下りの常磐線には、通勤ラッシュにもみくちゃにされる上りの電車に比べるとその乗客数はあまり多くない。だからという訳ではないが、このアルバイトに行くときには、作業着と安全靴のまま裕子のアパートを出ることが常となっている。
 上野発の常磐線には、こういった土木関係の作業着もしくは関連の制服のまま電車に乗り合わせる人を見かけることがある。そしてそのような見た目の人々を比較的に違和感を感じさせず乗せて走ってくれる。
「おはようございまーす」
 「ご安全に」と書かれたポスターの貼られた管理室の出入り口を開けた。
 薄暗い25メートルプールぐらいの広さの工場、そしてその工場の一角に存在する管理室。一世代くらい前のパソコンやプリンタがそこら辺に転がっており、隣にはヘルメットとかび臭くなった作業着が、段ボール箱の中に揉みくちゃになっている。
 会社のオフィスなんかでは早朝、おばちゃんらによるゴミ捨てやら清掃が行われることが多い。毎日何十人もの人間が使用する割に、トイレットペーパーが無くならないのは、そういった派遣されてくる人々のおかげだ。だけれどもここではそういう人達を見かけることはない。同じ敷地内にある事務所には毎日来てくれるみたいだが、別棟の工場までは来てくれないようだ。そのため工場内の清掃、特にこの管理室の清掃は、アルバイトと協力会社の社員で、自主的に行うことにしている。それでも掃除嫌いのメンバーが揃っているだけに、部屋が相当に散らかっていてもいつの間にかそれも気にならなくなっていた。
「うーす」
 先に来ていた内藤がそう言いながらタバコをふかしていた。
 内藤は敬之がアルバイトとして入っている会社の協力会社の社員である。協力会社と言うと聞こえはいいが、実態は下請け会社のことだ。会社といっても社員数は少なく、そしてほとんどの社員が発注元の会社に派遣されているため、社員同士が顔を合わせることはあまり多くないという。
 どうしてかは知らないが、自分の会社の社長のことを内藤は「おやじ」と呼ぶ。おやじ、おやじと、最初は父親と話しているのかと思ったら会社の社長のことらしいのだ。
「おはよう」
 パイプ椅子に座っている敬之の背中の方から声がした。
 胸ポケットに会社ロゴの入った作業着を着ている人物。現在、実施されている一連の実験の責任者でもある有田課長だ。
 仕事に関して優秀ではあるが、現場責任者としはやや威厳、そして迫力がないという印象がある。ただ、その人柄は良く、昔は荒くれ者だったという人間の多いこの業界の現場責任者として、若いころ各地の現場で鍛え上げられたのか、ここぞと言うときの仕切り方は、課長という肩書きも飾りものではないなと思わせるほどだった。中年ぐらいの年齢にさしかかっているもののいまだ独身である。
「内藤さん、今日もよろしく」
 有田課長が部屋の一番隅っこに座っている内藤に向かって言った。現場のオサだけが座れる椅子、パイプ椅子よりも少しばかり偉そうな雰囲気をかもし出しているディレクター椅子っぽいものだ。この会社のこの工場では、現場のまとめ役といえる人間の座る椅子として定着しており、最近では内藤の定椅子となっていた。
「わかりぁした」
 内藤はいつものようにそう答えた。実際にここの現場は内藤が仕切っているといってもいいだろう。会社の正社員である有田課長は、その日の最初と最後にぶらっと見に来る程度で、一日中現場を見ているのは協力会社の内藤なのだ。
 この会社では3ヶ月以上の業務を下請けに発注する場合には、同時に居住できる場所つまり独身寮も提供することになっている。独身寮といっても、木造二階建てトイレと風呂は共同、部屋は一人ずつあてがわれるものの、鍵は内側からしか付いておらずプライバシーはほとんどないといってもいい。ただ朝晩の食事が付いているということは独身男性にとっては有難い。
 夜になるといつの間にか、食堂で宴会が始まったり、誰かの部屋でジャラジャラという音が聞こえたりする。社外で上司との付き合いを嫌うことが多くなった若い社員は、このような共同生活を避けどこか別のアパートを借りることもある。当然ながらそういう場合のアパートの家賃は、会社からある程度までは補助というものが出るんだけれど、それ以外の家賃は自分の給料から支払わなくてはならないし、朝食と夕食は自分で作るかもしくは外食するしかない。
 金銭的そして健康的な面から見ると、独身者にとっては寮生活のほうが助かるような気もするし、こういった古い体質の独身寮は、上司や下請さん達とコミュニケーションをとる格好の場となり得るのだ。
 有田課長にそれなりに信用されている内藤は、ここに入寮して一年以上経っているらしい。決して独身ではないみたいなのだが、寮で毎晩のように騒ぐのが日課となってしまった内藤は、自宅にわざわざ帰るよりも泊まったほうが安くつくということもあり、いつの間にか独身寮の一員となっていた。
 有田課長と内藤の関係は既に、元請けと下請け会社の社員という関係を超えている。それは、一定の期間とはいえ、一緒の釜の飯を食べ同じ湯船につかり背中を流し合った仲であるということも少なからずあるのだろうか。
「有田課長、昨日の負け分いつでもいいっすから」
 内藤は部屋の奥からでかい声で有田課長に向かって言った。
「内藤さん、いっつも汚い麻雀すんだから」
 有田課長の顔には、昨日の麻雀の疲れが少しばかり残っているような気がした。
「へへへ、勝っとけるときぁ勝っとかないとねぇ」
 内藤が灰皿の縁でタバコの火を消しながら言った。
「寮で麻雀なんてやるんですね」
 敬之は有田課長に聞いた。
「おーそうだね。まぁやることないし、面子はいくらでもいるからなあ。二宮君も一緒にどう?」
 有田課長はそう言って敬之を誘ってきた。
 内藤の場合、接待麻雀をするどころかこの会社の社員相手に思いっきり勝ちにくるのだ。手加減なしというのは初めからの決まりごとであるので、それにのっとったものではある。たださすがに全国各地の現場を転々としてきただけあって、イカサマをやらないのが不思議なくらいの腕前だ。
「麻雀はコンピュータゲームでしかやったことないし」
 あんまり気の乗らない敬之。
「そう……、なら無理には誘えないなあ」
 有田課長は残念そうに溜息をついた。
「じゃあ、花札は?」
 どうしても敬之を独身寮のイベントに引っ張りこみたいらしい。よくある社交辞令のようなお誘いではなさそうだ。
「花札?」
 敬之は一瞬、反応した。
「花札って、あの猪(いの)鹿(しか)蝶(ちょう)とかって絵柄を合わせるやつですよね?」
「おっおう、そうだけど」
 有田課長は敬之のその反応に驚いた。麻雀もコンピュータゲームでしかやったことないと言っていた敬之が、花札の役名をサクッと口にしたからだろうか。
「それだったらある程度は出来ますけど……」
「おっ、やったことあるんだ」
 さっきよりも明るい顔をしている有田課長がいた。
「ええ、親父らとよくやってましたから、やり方ぐらいなら知ってますよ」
 へーっという感じで聞いている有田課長に敬之はそう答えた。
「そうなんだ。いまどきめずらしいお父さんがいるもんだなぁ」
 課長の顔が、何かうれしそうな顔に変化した。
 比較的に多そうな建設業界ですら最近ではなかなかやる人間がいなくて面子が足りないというのに、という感じの顔だった。
「じゃあ、やろうっか」
 ここの独身寮では麻雀やら花札やら、どんな会社なんだと敬之は思っていた。ほとんどの建設会社の独身寮がこんな感じなんだろうかと想像もしたし、どこに行っても男の遊びなんて似たようなもんなんだろうなあ、と妙に納得もしていた。それに入寮者に女性がいないということも決して悪いことではない。まあ女性がここに入寮することがそもそも禁止されているのかもしれないが。
 一人で絵を描くこと以外は何の気晴らしもない敬之にとって、みんなでワイワイとやる花札はやはり楽しそうに思われた。実際、敬之の小さいころ、正月に家族みんなで楽しむのが花札だったのだ。
「二宮っちゃん、カぁモかもよぅ」
 内藤がそう言いながら、吸っていない一本のタバコを手の平で転がして遊んでいた。
「えー、そんなことないですよー、たぶん」
 敬之がそう言うと、
「大丈夫、大丈夫。給料の順でウマつけるからさぁ」
 内藤は手の平にタバコを上に向けて立てていた。
「内藤さん、ウマなんてつけないでしょう? いつもは」
 有田課長が、苦笑いしながらそう言った。
「かっちょー、二宮っちゃん用の特別ルールっしょ」
 ディレクター椅子から半立ちながら言い訳していた。
「内藤さん、調子いいからなぁ」
「へへへ……」
 頭をポリポリとタバコで掻きながら、にやにやしている内藤。
 普段はこのようにヘラヘラしている内藤という男。昔、そうとうならしていたらしく、飲んだ席でその話になると、内藤自身の武勇伝を延々と聞かされる。今でも十分そういったやんちゃな一面を見せる中年おやじではあるが、家族をもってからかなり大人しくなったらしい。
 飲んだ拍子にたまに過去の突っ込んだ話をし始め、そりゃマズイだろうといった話を自慢げに話したこともあった。ただ根は真面目で、例えば仁義という言葉がよく似合う人間だと思った。
「じゃ二宮ちゃん、やりましょか」
 内藤は敬之のことを「二宮ちゃん」と呼ぶ。特に子供扱いされているというわけではないが、内藤がだれかを呼び捨てにすることのほうが珍しいのだ。せいぜい有田課長のことを「さん」付けで呼ぶくらいだ。
「そうですね」
 さてっといった感じで敬之はそれまで座っていたパイプ椅子から腰を上げた。少しばかり涼しい感じのする朝方に、ある程度の作業をやっておかないと、日差しの当たる工場の午後は身体にこたえるからだ。
 これまでいろいろなバイトをしてきてはいるが、建設関係のそれほど肉体的な労働はない。それでも精神的につらいと思ったことがないのは、仕事を終えたときのビールが格別にうまいということもある。
 現場は日が暮れると閉じてしまうことが多いため、それ以降は協力会社の人たちやアルバイト仲間と飲みに行くことも少なくはない。友人のあまり多くない敬之にとって、仕事仲間と飲みに行くことは少ない楽しみのうちの一つとなっている。
 女性のまったくいない職場であるため、かえって気を使う必要もなく、そして飲みに行ったときの二次会もたいがいはソウいうところだ。
「田中っちゃん、おっせーなぁ」
 内藤が怪訝そうに言った。
 「田中」とは、もう一人のアルバイトのことで、敬之よりも後に入ってきた新人だ。年も敬之よりも若いと思う。
 高校を卒業してぶらぶらした後、このバイトに申し込んできたらしく、始めのころは何かと理由をつけてサボったりしていたが、一度だけ内藤が本気で怒ったところ、それ以来しゅんと静かになり、必要なこと以外はほとんどしゃべることがなくなってしまった。一応、アルバイトの後輩として敬之も何かと面倒を見ているつもりだ。
 アルバイトは、言われたことをキチッとはするもののそれ以上はやりたがらない者、言われた通りはしないが興味のあることは進んでする者、適当にやっておいてあとは気分次第、そして、何でも積極的にやってくれて、そこのオサを任せられるくらいの働きをしてくれる者、などいろいろな人間が存在する。
 建設現場はその実働部隊のほとんどが協力会社とかアルバイトの寄せ集めだったりする。正社員はそのうちの数えるほどしかいないことが普通だった。
 協力会社の社員も現場の中では建設会社の社員としているため、同じような扱いを受けることになる。そしてとりあえず会社の看板を抱えており、ある程度の責任ある立場を任されるため、仕事もきちんとすることが多い。
 時間給で働いているということもある、そしてまったく経験のない仕事、そのほとんどが肉体作業であるということから、こなす仕事量に対する何かしらの要求も多かった。
 現場を任されている内藤は、見た目どおり昔かたぎの人間であるため、田中のような新人類を扱うのに何かと慣れていないような様子だった。そのため年齢的にも近い敬之が、田中の面倒を見ているという関係になっている。立場的にも同じであることから、自然にそうなってしまったということも言える。
「すっすいません」
 朝方の少しばかりひんやりとした薄暗い工場に、田中が入ってきた。始業時間から一時間半ぐらい経過した頃だった。
 こういったチームワークでは、一人の遅刻が作業全体を遅らせることに繋がる。
 とりわけ現場経験の多い内藤にとって「遅刻」はご法度とも言えるくらい現場をなめてる奴のすることだという独自の理念がある。たとえ、その一人がいなくとも探せばいくらでもやらなくてはならない仕事は存在するのだが、一人のルーズさを許してしまうと、全体のたるみにつながるという理由もあった。
「田中っつぁん、たぁのむよ~」
 内藤が苦笑しながら声が少しだけ大きくなった。その目は僅かばかり腹が立っているときのものだ。
 直接的に田中の面倒を見ている敬之にとって、敬之のしっかりした指導不足によるものという感じも否めない。アルバイトとしてこの業務に入っているのは敬之と田中だけだ。同じチームとして、立場上そして年齢的にも話し易いのは敬之くらいだろう。
 こういうことに対して内藤のように強く言えないのは、自分の性格なんだろうかと思うこともあった。
「……」
 田中は内藤のほうを向かずにそのまま着替え室に入って行った。
 内藤のことを明らかに毛嫌いしそして避けている田中。内藤のよく言えば人懐っこい、悪く言えば口の悪さは初めからのもので、本人はいたって普通に話しているつもりらしい。
「やつは、いつかシメんと」
 冗談っぽく聞こえたとはいえ、内藤みたいな風貌の人間がそういったことを言うと、ちょっと心配になる。
 実際に、内藤の左手の「薬指」はない。
 以前、飲んだ勢いでソレについて聞いてみたところ「戦争でぇ失くしちまった」という答えだった。じゃ内藤は今、何歳なんだろうと疑ったが、あまり答えたくない事情というものが存在したのだろう、そのときはそれ以上、詮索せずにいた。
「すいません」
 作業着に着替え終わった田中が敬之の近くまで歩いてきた。内藤の立っている反対側である。
「田中っつぁん。おれらよう、おめーのこと待ってたんだよぉ。作業遅れるべよぅ。はぁ?」
 頭を斜めに傾けながら、下から突き上げるように田中のことを睨みつける内藤がいた。テレビなんかでチンピラが相手にいちゃもんつける時にする姿勢とよく似ている。それなりに年を取っている内藤がこの格好をすると、怖いんだかおかしいんだか、何か変な感じがした。
「なっ内藤さんっ」
 敬之は内藤に向かって言った。
「こいつぁ、なめてんっすよ、ここの仕事をぉ」
 田中を睨みつけたまま、そう言い張る内藤だった。
「……」
 下を向いたまま何も言わない田中。ただそれは、怖くて何もできないといった感じではない。どちらかというと、仕方がないなあこいつは、という逆に内藤のことをなめてるような顔つきだ。
 ここのバイトに入った当初は、田中は十分に生意気な若者だった。そしてここのオサがこの内藤である、ぶち当たることは予想がついた。案の定、初めの何日間かはほとんど仕事にならないくらいのものだった。
 遅刻常習犯であった田中相手に、内藤が本気で怒ってからはシュンとなった。ただ最近では何となく、また異なる内藤への気持ちの変化があるような感じがする。
「田中さん、確かに遅刻は作業が遅れるから迷惑かかるしさ、できれば時間どおりに来てくれないと――」
 敬之はそう言った。
「すっすいません、気をつけます」
 田中は少しばかり頭を下げながら作業を始めていた。
「チッ」
 田中の態度が気に入らない様子の内藤だった。

「じゃ、おつかれ~」
 午後五時二十分。定刻どおりに終わった。
 夕暮れにはまだ早いものの、この時間ともなると工場内もだいぶ涼しくなっていた。
「あっあの」
 つれない顔の田中が敬之のそばに立っている。
「はっ何?」
 敬之は横を向きながらそう答えた。
「二宮さん、ちょっと」
 仕事の後の一服をふかしている内藤を横目に、避けるように工場の管理室の隅っこに追いやった。内藤はまったく気にしていないようなフリをしている。
「あっあの」
「このバイト実は……、辞めようと思ってるんですけど」
 田中はうつむき加減に呟いた。僅かばかり動揺している感じがした。
「せっかく仕事覚えてきたのに?」
「――まぁ、構わないけど。何か問題でも?」
 敬之は、内藤とは合わない、という理由を引き出そうと思っていた。
「えっ、ええ」
 田中はその場所では話したくないらしく、内藤をちらちらっと見ながら、敬之に無言の言い訳をしていた。
「仕事がどうのってことじゃないんだ?」
「ええまあ。作業は特にどうってことはないんですけど」
 そう言う田中。内藤はロッカーの上のヘルメットが入っている段ボール箱のあたりを見ながら、ふかしたタバコの煙で遊んでいる。
「せめて今やってる実験だけでもさぁ、会社だって次のバイト探すのも時間かかるし……」
 実際に田中が抜けてしまっては、自分と内藤の仕事量が増えるのは目に見えていたし、工期が決まっているため、途中から人員が減ったからといってそれを簡単に伸ばすことはできない。
「とりあえず有田課長んところに相談したほうがいいんじゃないかな」
「ええ、じゃ明日にでも相談してみます」
 田中は沈んだ顔のままその場を去っていった。
 しばらくして、敬之も帰る支度を終え、管理室を出ようとしたとき、
「あいつぁ、やめるって?」
 内藤はいつのまにか敬之の近くまで歩み寄っていた。
「ええ、なんかそんなことを」
「けっ、せっかく世話ぁしてやってんのによお」
 実際、世話してるのは敬之だったが、ここのオサとして自覚していた内藤はそう言い張った。田中にしてみれば、あなたに世話してもらっているから辞めたい、という思いなのだろうに。
「まぁ、彼の性格ですから」
 何にしても穏便に済ませようという典型的な日本人である敬之は、そう言って内藤をなだめた。
「奴はくれぇんだよなぁ」
 内藤は吐き出すように言った。
「誰が暗いって?」
 いつの間にか有田課長が管理室の入り口の近くにいた。敬之の後ろ側に位置するため、敬之はびっくりして後ろの方を振り返った。
「あっ、有田課長」
 敬之はそう言うと、作業台の上に置いてあった作業日誌をすぐさま手渡した。
「で、何が暗いんだ?」
 有田課長がもう一度、敬之の方を向いて聞き返した。
「今、田中さんのことを話してたんですよ」
 敬之が答えた。
「彼が暗いって?」
 眉をひそめ、首を傾げる有田課長がいた。
「いや、あの……彼、最近あまり元気がないんで」
 一応、自分の後輩にあたる田中のことをかばった敬之であったが、
「奴ぁ、ここが嫌なんだとさ」
 内藤が何となくまどろっこしいことを言っている敬之を、押さえ込むように言った。
「なっ、内藤さん」
「さっきそう言ってたろ? あいつぁ」
 地獄耳なのか、さっきのやりとりは聞こえていたらしい。 
「そう……」
 有田課長は一瞬考え込んだが、すぐに、
「辞めるのは構わないけど。まぁ本人から直接聞いてみないとなあ」
 そう言いながら作業日誌を開いて見ていた。
 しばらくして内藤がこう言い出した。
「いや、俺が嫌れぇみてぇでさ、奴ぁ」
 敬之は内藤の顔を見た。
 有田課長は一瞬、苦笑いをすると、すぐさま、
「彼若いんですし、少しは手加減してくださいよ、内藤さん……」
 苦言した有田課長に、内藤も頭を掻きながら、
「へぇまあ」
 答えながら頭をヒョコヒョコと何度か下げていた。敬之よりも内藤とのつきあいが長い有田課長である。過去にもこういったことがあったのだろうか。
 敬之にとってもこの内藤という男は初めの頃は確かに苦手だった。若い世代の人間にはとっつきにくいところがある。昔かたぎというか、映画に出てきそうなキャラクターというか、昔小さい頃に近所にいたガキ大将がそのまま大人になったという感じだろうか。
 いろいろ話すうちに、面白くて頼りになるおっちゃんであるということが分かった。ただ、自由奔放好きの多い若者にしてみると、あまりにもしつこい性格という感じも否めない。
「とにかく後で、本人に聞いてみますよ。できればこのメンバーでこの業務はやってもらいたいので、私は引き止めますけが、いいですかね?」
 有田課長にとっては、もう一人バイトを探して、さらに教育しなおさなくてはならないという時間がもったいないのだ。
「課長がそうおっしゃるんならぁ、俺ぇあ構いませんけんど」
 内藤が苦笑いしながらそう言っていた。実際に内藤にとってはどっちでも良いのだろう。
「私も、出来れば彼に続けてもらいたいんで」
 敬之も賛同した。
 しばらくして、有田課長は管理室を出て行った。
「じゃ明日、よろしく」
「じゃおっつかれー」
「お疲れ様です」
 敬之と内藤も帰っていった。

「ふ~」
 外仕事ではないとはいえ、絵を描くよりも肉体的には疲れる仕事を終えた敬之は、湯船につかりながらほっと一息ついていた。何より自宅の風呂が一番リラックスできた。
 独身の頃に比べると結婚しているかのような同棲生活となっている現状では、その安心できる度数は高い。
「ねー着替え、ここに置いとくわよ」
 裕子の帰りも今日は早かった。敬之が定時に帰れるとわかっているときには、なるべく早く帰れるように仕事をコントロールするらしい。そのあたりは若いコンピュータ関係の会社だからだろうか。
 そもそも敬之がアルバイトとして働いていた裕子の勤めるコンピュータ関係の会社は、現在バイトとして入っている建設会社に比べると、かなり清潔でいかにもオフィスという表現の似合う会社だ。
 それでも今のバイトを始めるようになったのは、時給という面から考えると今のバイトよりもだいぶ条件が悪かったということもある。さらに作業の内容はというと、データ入力とかがほとんどで、さすがにそういう作業を毎日続けているとうんざりすることもあった。それが必要な仕事として存在するのだからしょうがないと言ってしまえばそうなんだが、少しばかり体と頭を動かす仕事をしたかったというのが本音だった。
「あー、いい風呂だった」
 敬之は裸のままで裕子のいる部屋で体を拭いていた。
「ちょっとぉ、脱衣所で拭いてよもぉ」
 半分は笑いながら敬之に対して苦言した。それでも一応見るところはちゃんと見ているような目線の置き方。
「はいはいっ」
 そう言われることを期待していたかのような返事をする敬之。
「ビールって冷蔵庫に入ってたっけ?」
 敬之は大きい声で聞いた。裕子は冷蔵庫の扉を開けると、
「えーっとね、缶なら一つ入ってるわよ」
 その缶ビールを冷蔵庫の中から取り出した。
 パンツ一丁で四角いテーブルの前で、裕子の右隣にあぐらをかいて座っている敬之は、手前に置かれた缶ビールを開けた。
 プシュッ。
 裕子もそれをじっと見ている。
 ゴクッゴクッ……。
 敬之の喉仏が波打った。
「ぷはぁー。しあわせ、しあわせ」
 敬之は、うす目をしながら斜め天井を仰いだ。
「私にもちょーだい」
 手元にあったグラスに入っていた残り水を飲み干すと、そう言いながら敬之の目の前にそのグラスを差し出した。
「入れてよぉ」
 裕子は催促した。
「じゃ、半分ねっ」
 敬之は仕方ないなぁといった顔をしながら、コップの半分だけビールを注いであげた。
「これだけっ?」
「自分で買ってくればいいじゃん」
 残りのビールを缶のまま急いで飲む敬之。
 裕子はと言うと文句を言いながらも、一気にそれを飲み干した。
「ふー」
 それでもあまり満足してない裕子の顔があった。
「ねぇ敬之、今のバイトって結構大変?」
 不満足そうな顔をしたまま、裕子は話題を変えた。
「うーんまぁね。疲れるけどいい運動だと思えばたいしたことないよ。普段あんまり体動かすことないし」
 実際に、絵を描いてもたいして疲れないし、誰かと一緒に体を動かして作業する、ということ自体が新鮮だった。
「時給もいいしね」
 裕子がそう言った。
「まぁ、特殊な仕事だから」
「ふーん。パソコンだって使うんでしょう?」
 コンピュータ関係の会社に勤めている裕子だけに、彼女の興味の矛先はそれくらいなんだろう。
「そうだね、データ記録用に使ってる。まぁ今入ってるプログラムを使わせてもらってるけど、PCがいまいち古いんだよなぁ」
 現場らしくデータの記録用に使っているパソコンは、事務のお古かと思わせるような貧弱なものだ。コンクリートの破片やら埃といったパソコンに悪影響を及ぼしそうなものの隣で作業しているのだ、会社が古いPCをそこに与えるのも無理はない。
 とはいえ、その程度の性能のもので十分間に合うため、それはそれで合理的なことでもある。
「毎日パソコン相手に一人寂しく仕事してると、たまにそっちみたいな仕事したくなるのよねぇ」
 裕子は、毎日のように繰り返されるデスクワークに嫌気がさしているようだ。ただ、実際の建設現場なんて体験したこともないはずなので、テレビかなんかで見たイメージだけで言っているんだろうと敬之は思っていた。
「じゃあヘルメットかぶって、明日から来る?」
 だとしたらと思い、敬之はそう切り出してみた。
「一人辞めそうなんだよ。急だしさぁ、一人どうしても必要ってなったら、本気で考えてみてよ、ねっ」
 真面目な顔をして聞いてきた敬之に対して、裕子は、
「冗談、冗談。本気にしないで」
 あわてて訂正していた。
「なーんだ、気心知れた人間ならやりやすいと思ったのに」
「まぁ、本当に辞めるかどうかわかんないけどねぇ」
 敬之はそう呟きながら、缶ビールを全部、飲み干した。
「あっ」
 裕子はぽかんと口を空けたままそれを見ていた。

              3

「おはようございまーす」
 工場の出入り口から入ったが誰の返事もない。コンクリート塊が置かれているところに、内藤が一人待っているだけだ。
「内藤さんだけかな?」
 工場の中を見渡していると、後ろのほうから有田課長の声がした。
「二宮君、ちょっと」
 定時どおりに来ていた田中と、一緒に工場に入ってきた有田課長がいた。
 今まで田中のアルバイトのことについて、工場の外で二人話していたのだろう。気のせいかさっぱりとした顔の田中がいた。
 有田課長はというと、敬之の顔を見るやいなや、こっちこっちというような手招きをしている。
「はっ、はい」
 敬之はすれ違う田中に挨拶もせずに、有田課長のところまで急いだ。
「何ですか?」
 田中のことだろうと思いながらも、とりあえずそう聞いた。
「今晩、ちょっといいかな?」
 右手でビールを飲むしぐさをする有田課長。何かと思えば飲むお誘いだ。敬之は、
「ええ、別にいいですけど」
 ちょっと意外だったというような顔をした。
「じゃ、たまにはみんなで」
 なんとなく気分のよい有田課長がいた。
「田中さん、辞めるって言ってました?」
 敬之は田中が、何日か前に話していたことについて、有田課長とちゃんと話し合ったのではないかと期待していた。
「いや、続けるそうだ」
 有田課長の機嫌の良さは、田中がアルバイトを続けるということから起きたものだろう。現在のメンバーの親睦を兼ねてかどうか知らないが、とにかくひと安心だ。
「そうですか。まぁ良かったですよ」
 敬之は、コンクリート塊の並んでいる場所にゆっくりと歩いていく田中を眺めながら呟いた。
 有田課長かどのようにして説得したかどうかは知らないが、ここで一人抜けるとなる課長本人にとっても痛いのだろう。
「ただ、内藤さんのこと……、あんまり良くは思ってないというか、気にしすぎと言うかなぁ」
 全てが解決した訳ではなさそうだ。
「そうですか、まぁ二人とも子供じゃないんだし、大丈夫ですよ」
 敬之はそうは言ってみたものの、子供のケンカほどのものであればいいんだけどと内心は考えていた。
「じゃ、頼んだよ」
 有田課長は工場の入り口から出て行った。

 いつものように定時で作業を終えた。
 管理室の入り口には、建設会社のサラリーマンらしく下にワイシャツを着てその上に会社のロゴの入った作業着を身につけた有田課長が立っていた。平べったくなった皮色のカバンを手元にぶら下げている。
 課長という肩書きがついているだけあって、現場の作業は協力会社の内藤そしてアルバイトの敬之らに任せていた。そのせいか有田課長の作業着には汚れらしい汚れはほとんどついていない。自分でアイロンをかけているのか、それともクリーニングに出しているのか、襟なんかは毎日きちんと折り目がついている。建設会社の顔といってもおかしくない作業着だけに、社員に支給されるものはきちっとした生地で、デザインも凝っていることが多いのではなかろうか。
 敬之の作業着の襟はきちんと折り目がついていない。それはアイロンをかけているとかクリーニングに出しているうんぬんという問題ではなく、もともと安い夏物の作業着を着ているからだと思う。
 敬之らアルバイトの作業着はというと、初めに会社から支給されるというわけではない。管理室のダンボール箱に捨てられているような作業着を着てくれ、と言われることがほとんどだ。以前、誰が着たかもしれない、そしていつ最後に洗濯したかもわからないようなものを着なくてはならない。それが特に嫌だという訳ではなかったが、やはり自分のものが欲しかったので、休みの日に自分用の作業着を買いに行った。
 そういった作業着を売っている店には、その他にもさまざまな工事用グッズが置いてある。何となくその戦車のような硬さに惚れ込んでしまった敬之は、安全靴も買ってしまった。今となってはそれが必需品だと思っている。
 コンクリートを扱うバイトだけに、それが足元に倒れてくることがある。そのときに足の指を防護してくれるのがこの安全靴で、満員電車なんかでカンッカンッという音を奏でるような高いハイヒールに踏まれても痛くも痒くもないだろう、それくらい頑丈だ。
 欠点はというと、それを履くとあまり早く走れないということぐらいで、足の指付近の筋力増強にも役立つ。慣れると普通の靴を履いたときに、その重さが恋しくなるくらいの、どうってことない重さだ。
「みなさん、そろそろ行きましょうか」
 有田課長が、遠足に同行する学校の先生のような掛け声をした。
「おっ課長、ちょっと待っておくんなせぇ」
 内藤が少し冗談っぽく言った。
「はははっ、内藤さん、時代劇ですか」
 敬之がそう言って笑った。
 田中も少しだけ笑っていた。
 敬之は最後に管理室を出ると、部屋を出てすぐ横にある電気のスイッチをオフにした。工場内のライトがバババッと消えた。
 最後に、工場の入り口のドアを閉め鍵をし、有田課長にその鍵を手渡した。

「あんまり変わんねーな、桜町って」
 内藤があたりをきょろきょろしている。
「内藤さん、このあたりに住んでたんですか?」
 敬之が聞いた。
「おうっ、だいぶ前だけどな」
 昔を懐かしむような横顔を見せていた。
「で、課長さんよぅ、今日はどこに連れてってくれるんだい?」
 内藤は冗談っぽく有田課長に聞いた。
「そーだなあ、とりあえず居酒屋で――」
「今日は有田課長のおごりだってぇよぅ」
「内藤さん、そんなこと言うと、仕事まわしませんよ」
「おう課長。堪忍してーな」
 いつもどこかの方言のような言葉でおどける内藤。
「内藤さん、飲む前から酔っ払ってるよ」
 敬之が冗談っぽく言っていた。
 田中は、敬之の後ろを静かに歩いていた。いつの間にか顔がほころんでいる。
「ちわー」
「いらっしゃいー」
 店員のかけ声がした。
「四名です」
 敬之が答えた。
「こちらへどうぞー」
 店内の一番奥へと案内された。
「ふー」
 敬之は、手前に置いてあったおしぼりで、顔を思いっきり拭いた。
「じゃあ、生4つ」
 有田課長が席につくなり、近くの店員にそうオーダーした。
「かんぱーい」
「うぉーす」
 カン、カンッと、ビアジョッキの絡む音がした。
「くぅあー」
 みんな合わせるように感嘆を上げている。
「じゃあ、おつまみはと……」
 敬之がメニューをテーブルの上に広げた。
「田中さん、好きなもん頼んでいいよ、一番若いんだしさ」
 有田課長が気を利かせた。
「あっはあ……」
 田中の少しばかり緊張の取れた顔があった。
「田中っちゃん、好きなもん選べぇやぁ」
 ちらっと内藤の顔を見ると、伏目がちにメニューを見る田中。敬之は、なぜ田中がそこまで内藤のことを避けているのか分からなかった。確かに以前、遅刻したり休みがちな田中は内藤から怒られたこともあったが、それ以降は静かに粛々と仕事をこなしていた。ここ最近だった、田中の内藤に対する態度に変化があったのは。そして、急に辞めると言い出した。
「今日は私のおごりだから」
 有田課長が田中に言った。本当におごってくれるらしい。
「じゃあ……」
 遠慮しがちにメニューを指差す田中がいた。
「でーそのアマがよぉー」
 いつものように内藤のおしゃべりが始まった。今日はいつもよりペースが速い。本当かどうかは分からないが、そのほとんどが女がらみの話題だ。
 キャバクラのママとホテルにしけこんだら、そこに顔に傷、全身刺青をした男が待っていただとか、パブのカウンターでひっかけたねーちゃんを誘ってみたら、下に何かがついていただとか、そりゃ本当かい? と疑いたくなるような話ばかりだった。それでも、この内藤のいる酒の場が、盛り上がらないということはない。
「でさぁ、田中っつぁんよお」
「おめぇー、ここ辞めるってのは本当なのか?」
 内藤が田中のほうをふらふらと見ながら聞いた。
「内藤さ……」
 敬之が遮るようにして言ったが、すぐさま田中が、
「ああ、もう辞めませんから」
 睨み付けるようにして内藤を見ている。
「俺のこと、嫌いなのかよぉ、はっきりいぇよ」
「いえ、そんなことはないですよ、内藤さん」
 田中も、酒が入り気が張っているのかそう答えた。気のせいか、有田課長もいつもより真面目な顔をしている。
「ただ――」
 田中は何か言おうとして、有田課長のほうをちらっと見た気がした。ただその後は言葉を濁した。
「ただ、なんだよぉ」
「まぁまあ、内藤さんも、今日は酔いが早いなあ」
 有田課長は何かを隠している、そんな気がした。
「課長? なんですか」
 敬之が聞いた。
「いや、別になんでもないから……」
 トイレに立った有田課長。田中は、敬之のほうを少しばかり見た後、ジョッキに入っていたビールを飲み干した。
 トイレから帰ってくると有田課長は、
「そろそろ出ようか」
 有田課長はイスの後ろに掛けてあった伝票ボードを店員に持っていき、支払いを済ませているようだった。
 敬之らは先に店を出た。のれんの前で3人は有田課長を待っていた。
 外は気持ちいいような涼しいひんやりとした風が吹いている。
 しばらくすると、会計を終えた有田課長が、そののれんをくぐって道路に出てきた。
「じゃあ、次ー行こうっかぁ」
 内藤が、にやにやしながらそう言った。
「どっか知ってる店とかってあります?」
 敬之が内藤に聞いた。内藤はよくぞ聞いてくれたとばかりに、
「へへっ、いい店あるよぅ、二宮っちぁん」
 そう言いながら敬之の肩に手を乗せてきた。まるでテレビとかでよく見る、飲んで絡んでくるサラリーマンそのものだ。今日はいつもより内藤の酔いのペースが早いような気がする。
「内藤さんの知ってる店ってだいぶ前のことじゃないの?」
 有田課長が口を挟んだ。
「大丈夫っすよ課長。あそくぉのママとは知り合いだからさぁ」
 ウインクを有田課長に飛ばしたあと、げらげらと笑いながら狭い路地の真ん中を歩いていく内藤。
「大丈夫かなぁ」
 敬之は心配そうに内藤についていった。その後を有田課長と田中がついてきた。
 しばらく内藤の背中を見ながら歩いていると、その背中が前方で急に立ち止まったことに気づいた。今まで調子よくふらふらと歩いていた内藤だったが、ソレを見た直後には完全に動きが止まっていた。
 目の前にもう一人の自分でも見てしまったかのような顔をした内藤がいる。
「なっ、内藤さん?」
 敬之は、どうしたんだろうと、背中から話しかけた。
「……」
 細く、威嚇している獣のような鋭い目つきをしている内藤。
 手足も完全に止まったまま動こうとはしない。
「どっどうし……」
 内藤の肩に手を手をかけようとした瞬間、
「くっ」
 内藤が前方の暗闇に向かって何かしら声を発した。
「……」
 内藤の前方にいる影が一瞬とまった。
 その影は黙ったままである。
「チッ」
 内藤が僅かに舌打ちした。
 内藤は、すぐ後ろにいた敬之のほうに手をむけて下がれという仕草をした。敬之はつられて半歩くらい後退した。訳を聞くような雰囲気でないことだけは何となく分かった。
「内藤か?」
 影の主がそうつぶやいた。かなり低い、そしてドスの聞いた声だった。
「ああ」
 内藤が、今までの酔いがまったくの嘘だったというような声のトーンで答えた。続けて、
「おまえ」
 それまで一度も聞いたこともない、低いそして真剣みを帯びた内藤の本当の姿を見てしまった、というくらい怖い声だった。
「――さしぶりだな」
 暗い影から聞こえる声は、喉のどこかを怪我でもしてるんじゃないかと思わせるような奇妙な声だ。
「こんなところに、まだ……」
 内藤がその影に聞いた。
「おまえこそ、戻ってきてるじゃねえか」
 少しばかり笑ったその影、内藤よりも比較的に横に太い体をしている。
「へっ、もうかたぎだがな」
 内藤の声がした。
「だろうなっ、ペッ」
 影が道路に唾を吐いた。
 睨みを利かせると同時に、ポケットに入れていた手をスッと出した。
 周りの空気が、一瞬にして静止した気がした。
 二人とも自分の足場を確認しているようだ。
 ジリ、ジリ――。
 目線を外さないように間合いをとっている二人。
 敬之らは、やばそうな雰囲気を十分に感じとっていた。
「……」
――何秒間か過ぎた。
「ありがとうございましたー」
 しばらくして、二、三人のサラリーマンがのれんから出てきた。
 影は、フッと体の緊張を解いた。
 それにつられて内藤のほうも構えていた足もとを崩した。
「……」
 内藤の口元は少しばかり歪んでいた。
「ふんっ」
 影は鼻で笑うと、
「じゃ、ご安全に、か?」
 笑いながら、内藤にしっかりと目線を置き、一定の距離を保ったまま通り過ぎていった。
 居酒屋の赤いちょうちんからのライトに照らされたその顔。年老いた50後半ぐらいの、片目だけ大きく開き、もう片方は、鋭く冷たい視線が印象的だ。
 有田課長と田中は、その男となるべく目を合わさないように、二人なにやら話すようなフリをしている。
 男がその場所から見えなくなると、内藤が、
「すいやせんっ、手間とらせやした」
 そういう口調で、敬之らのほうを振り向いた。いつもの内藤のへらへらとした顔に、どことなく悲痛じみた哀愁を漂わせていた。
「内藤さんっ、今の男……」
 敬之がそう聞こうとしたとき、有田課長が、
「じゃあ、次はその美人ママのいるキャバクラにでも行こうか」
 敬之の言葉を遮った。
「そぅすっね」
 内藤の顔にいつもの屈託のない笑みがこぼれた。
 田中は少しばかりうつむいたまま、有田課長と内藤の後ろをついていった。敬之は、背中に不気味な気配を感じながら、3人の後を静かに歩き始めた。
 内藤のさっきの男に対する目つきは尋常ではなかった。今となりで明るく振舞っている内藤とはまったく別人の、実は本当の内藤ではないかと思った。そして影の男も、昔の内藤のことを良く知っているようだ。
 そして影の男は「戻ってきてるじゃねえか」と内藤に言っていた。それはあの男がこの近くに住んでおり、内藤の過去を知っている奴ということになる。それも内藤本人の話によるとだいぶ前のことらしいのだ。
「おうっここ、ここ」
 内藤がなじみの店だと言っていたキャバクラがあった。名前もまだ同じらしい。このご時世に昔から続いている店はなかなか無いものだが……。
 チリ、チリン。
 入り口の重くて黒いドアを開けた。
 中は暗く、僅かな明かりがキャバクラ特有の形をしたソファーを照らしていた。客はあまり入っていないみたいだ。
「いっしゃいませ――」
 店の奥から白めの和服を着た女性が出てきた。
 四十歳ぐらいだろうか、いかにもママというような、テレビで見る演歌歌手のような趣がある。そのすり足のような足の運びも、若さに引けをとらないくらいの飾り気のない自然な色気のあるものだ。夜の桜町の雰囲気にしては、かなり和風でソフトな感じのする女性だった。
「えーっと」
 そのママらしき女性は、先頭に入ってきた内藤の顔を見ながら、なじみの客かどうか判別しているような素振りをしている。
「おうっ昔よう、和歌子ってママいたろう?」
 内藤がその女に無造作に聞いた。
「和歌子ママ?」
 ママらしき女はそう言うと、しばらく思い出すような感じの顔をしていた。ちゃんと考えました、というくらいの間をとるとそのママらしき女性は、
「ちょっと、うちには――」
 どうやら知らないらしい。
 そもそも自分以外のママのことについて聞かれて、たとえ知っていたとしても「知らない」と答えようと思っていた、そんな顔をしていた。
「だいぶ前だかんなぁ」
 笑いながらどうしようかと考える内藤がいた。
 最初からそのママがいるということなど期待していなかったような感じにもとれた。
「じゃまあいいやぁ、4人だけどよぅ」
 それを聞いたママらしき女性は「ささっとうぞっ」と言いながら、内藤らを店内へと導いた。
「はいりゃしょうや」
 内藤はそう言うと、後ろにいた有田課長に入るように合図をした。
 有田課長、田中、そして敬之の順番に入り口のドアを片手で押しながら入っていった。
「はいっ、どうぞ」
 席に着くなり真っ白いオシボリを渡された敬之。
「美奈代です」
 敬之と田中に挟まれたところに押し入るように座った。
 彼女の太ももからお尻の部分にかけて敬之の足に触れたため、自然とそこにあるスカートと太ももの境目に視線が行ってしまった。そして裕子よりも若そうだなぁと自分の彼女と美奈代の肌の張り具合やらを、首筋のあたりを見ながらいつのまにか比較してしまっていた。
「よろしくね」
 ちょっと、ぼーっと見とれていた敬之に、なるべく若さを強調した感じの挨拶をしてきた。慌てて、
「あっどうもっ」
 敬之は軽くお辞儀をしてしまった。
 近くに会社の人間がいるせいか、こういう場所にしては窮屈そうにしている敬之。
「ルミです」
 さらにもう一人、美奈代よりも比較的に年をとってそうな女が、そう言いながら軽くお辞儀をし、内藤と有田課長の間のスペースに座った。
 見た目的に若い敬之と田中の間に美奈代、ちょっとおじさんである内藤と有田課長の間にルミが座ったことになる。
 敬之は渡されたオシボリで手を拭いた。異様に白、いや青白く光ったそのオシボリ。ライトか何かのせいだろう。身のまわりの白いものが光って見える。
「ほぅー」
 敬之は意味もなく関心していた。今のアルバイト仲間とぐらいしか、こういう場所にくる機会がないのだ。
 オシボリで顔も拭こうとしたが、ここでの敬之の手は止まった。目の前に座っている内藤はというと、手、顔、耳の穴まで拭いている。
「ふぅー」
 顔を拭き終わると内藤は一息ついた。そして、
「よぅ、和歌子ママってしんねーか?」
 内藤はそのことをしつこく聞いていた。内藤の隣に座っていたルミは、
「和歌子ママ? んー知らない。ここって頻繁にオーナー替わるみたいだし……」
 そう言いながら内藤のグラスに氷を入れている。
「チェッ、せっかく来てやったのによぅ」
 内藤はオシボリをテーブルの上に放り投げた。
「内藤さん、それいつの話ですか?」
 有田課長が聞いた。
「もう、10年、いや20年ッくらい前ですぁ」
 内藤が何かを思い返すように答えた。
「10年と20年じゃえらい違いじゃないですか?」
「本当なんですか? それって」
 有田課長が内藤のことを疑うような目つきで聞いた。
「もうだいぶ前のことでぇ、実はぁ覚えてないんですぁ」
「そりゃあ、いないかも」
「そうっすかねぇ」
「顔の感じとかは覚えてるんっすがぁねぇ」
 何かを懐かしむようなそんな顔をしている内藤、普段の内藤からはちょっと外れた、真面目な顔があった。
「じゃあ、かんぱーい」
 いつの間にか自分たちの水割りも作っていた女の子らは、それぞれのグラスを持ち上げていた。
「じゃ、かんぱーい」
 敬之と田中もつられて、彼女らのグラスに、カンッ、カンッとたて続けに当てた。
「かんぱーい」
 有田課長と内藤も遅れてそう言った。
「水割り、頂いちゃってよかったかしら?」
 作った後に、そう聞いてきた美奈代だった。
「ああ、いいよ、いいよ」
 有田課長が何も考えもせずそう答えた。ここも課長もちなのだろうか、今日は羽振りがいい。
「それにボトルも開けちゃったけど」
 開けた後に聞いてくる美奈代。
「いいよ、もう」
 有田課長は苦笑いしている。
「ねぇ内藤さん。ここって以前の普通のキャバクラから、ぼったくりのお店に変わったってことないでしょうねぇ?」
 心配そうにひそひそと聞いてくる有田課長に対して、内藤は、
「わかんねぇ」
 それだけ答えた。
 それを聞いていた美奈代は、
「大丈夫よぉもお、桜町(ココ)じゃあそんな店ないわよぅ」
 空いたグラスを手にしていた。続けて、
「こっちでボトルきらしてたから開けただけ。ここは基本的に飲み放題なのよぅ」
 グラスについた霜を拭き取っている美奈代。若いだけにその顔にも可愛げがあった。
「ねぇー、十何年も前からここに来てるの?」
 美奈代が斜め前に座っている内藤に聞いた。
「おうっ、それからだいぶご無沙汰だったけどよぉ」
「ふーん」
 えらく関心している様子の美奈代。まだ十代と思わせるような幼い感じの口元、おそらく化粧のない顔はまだ中高校生ともいえるぐらい童顔ではないかと想像した。
「ご苦労様です」
 カンッ。
 内藤のグラスに自分のグラスを当てる美奈代だった。
「まぁいいけどよぉ、こんだけ可愛い子チャンがいればさぁ」
 何とも調子のいい内藤だったが、どことなくその和歌子ママに何か大切な約束でもしてたのだろうか、ちょっとがっかりしている感じもあった。
「そういえばさぁ――」
 ルミが有田課長のほうをじっと見つめている。さっきから有田課長のほうを何秒間か続けて見たりしていた。ただその視線は、相手を伺うようなそして疑うような目つきだった。
「あっ俺っ?」
 有田課長が自分のほうを指差してきょろきょろしている。何やらちょっとうれしそうな表情だった。
「この前、ここに来てなかったぁ?」
 首を傾げながらルミが聞いた。同時に、少しだけ相手を卑下するような、そんな笑みをこぼしていた。
「えーっと」
 考え込む有田課長だった。あまり真面目な仕草ではないということがすぐにわかるような感じだ。
「そっ、そうだっけ……」
 少し身に覚えがあるような無いような顔に変化した。
「なーんだ、かっちょう。この店よく来るんだぁー」
 内藤が有田課長のほうを指差しながら叫んだ。自分がかつてひいきにしていた店を有田課長が知っていたといううれしさと、課長もやっぱりスケベだったんだと言いたそうなうれしさが混じり合っていた。
「たったまにね。ほら所長とか好きだし」
 言い訳している有田課長がいた。自分もこういうところに来るんだということを自慢しているようにもとれた。
「だよねー、見たことあるもん、私」
 やっぱりという顔をするルミ。
「課長やってるこたぁやってんだぁー」
 内藤が冷やかした。何か満足そうな顔をしている。
「なぁんかさぁ、今日はえっらいサラリーマンって感じよねぇー」
 ルミが有田課長の顔に自分の顔を近づけながらそう言った。
 有田課長は一瞬、ぎょっとした目つきをしたけれど、冗談なのか「チュウ」をするような口の形をした。
 すると、ルミは瞬時に有田課長のおでこに「頭突き」をした。
 ゴンッ!
 二つ席の離れた敬之までその音が聞こえるくらいの頭突きだった。
「痛ぁー」
 有田課長はそう言うと、反対側の隣に座っている田中のほうに倒れこむようにした。かなり痛そうな音だったし有田課長のしかめた表情から、それは大げさなものではなさそうだった。
「かっ、課長!」
 田中は有田課長の体をゆすった。
「あっうー」
 すぐさま体を起こすと、有田課長はおでこのあたりを押さえていた。
「すっ、すいません」
 本気で謝っているルミがちょっと心配そうな顔をしている。反射的にやってしまったのか、それとも冗談でやってしまったのか。後で素直に謝っているしぐさから考えると、動物的な防御本能でやってしまったようだ。
 有田課長は、氷水を垂らしたオシボリでルミにおでこを冷やしてもらっていた。二人の距離はかなり近い。有田課長の頬はすでにルミの肩に乗っかっている状態だ。
 ルミは見た目的には若い美奈代のような新鮮さや清々しさはないが、それなりに年月を重ねた女という感じで、テレビの向こう側ではしゃぐ元グラビアアイドルのような顔立ちをしている。
「おぅおぅ、ルミちゃぁんに介抱してもらってるよぅ、課っ長う」
 冷やかす内藤。
「はぁー」
 あながちそれも悪くなさそうに、痛そうに笑っている有田課長。
「有田課長ぅ、でれーってしすぎですよ」
 その風景を尻目に何やら話をしている敬之と美奈代。
 田中は相変わらず静かだった。
 その後、ルミにおでこを冷やしてもらっている有田課長の姿をつまみに、内藤、敬之、美奈代、そして田中の四人でぺちゃくちゃとしゃべって飲んだ。
 どこか他の客がカラオケをしていたせいか店内は騒がしかったが、酔いが回ってからは別に気にならなかった。そして美奈代とルミはそのテーブルから離れることはなかった。
 美奈代は内藤のことを気に入った様子だった。そして田中とて男である。年齢的にも若く、もともとシャイな一面のある彼は、少しばかりうさん臭い感じの年を取った内藤とは対照的に、美奈代から可愛いがられるように話しかけられていた。それにつられて、それまでの田中の暗さが少しばかり改善し、その場にいた内藤に対しても普通に接するようになった。
 田中と内藤は、二人で仲良くしゃべっていた記憶がある。それは有田課長の当初の思惑通りになったのだと思った。以前まで仲の悪かった田中と内藤がどういう話をしていたのか興味があったが、敬之が聞き取れるようなバカ話をしている様子はなく、あながち楽しそうに話をする昔の友人のような雰囲気だった。敬之はあえてそこに分け入ろうとは思わなかった。
 田中は土地の人間であり、若いころこの辺に住んでいたという内藤と、地元話で盛り上がっていた。田中も初めからそのことを知っていたはずであるが、何故だろうか、仕事中はそのことについてあまり触れなかった。
 有田課長のおでこにはちょっとしたこぶのようなものが出来ていた。明日、会社の人間に聞かれたらどう説明しようかと考えているようだった。
「かっちょう、しゃあない、しゃあない」
 笑いを抑えるかのように内藤は有田課長をなだめていた。
「あっしらがぁ、しょーにんですぁ」
 自分のことを指差しながら、わざとそういうことを言い出す内藤。
「ちょっとぉー、このことは内緒ですよぉー」
 そう言いながらおどける有田課長、少しばかり足元がふらついていた。
 会社では内藤のボスとして配属されているからだろうか、一見するとかなり堅物のような印象を受けがちな有田課長だが、こういうお店に来ると一気に弾けてしまうという一面も持ち合わせている。それが狙ってやっているという訳ではない、どちらかというと天然ボケといった感じで、女性から見るとそれがお茶目に映るということもあるのだろうか、それともそういうお店だからだろうか、有田課長は意外にモテていた。
 もうそろそろ結婚していてもおかしくない年齢のはずなんだけれど、そういった話はあまり聞かなかった。それでも週末になるとおしゃれをして独身寮から出て行くところを内藤は目撃したことがあるらしい。女性と一緒だったというわけではなかったが、内藤いわく「ありゃあ、女だな」だという。
 有田課長の私生活のことは詳しくは知らないが、敬之がこの会社にアルバイトとして入ったときからのつきあいだ。見た目からするともう40近い年齢だと思うのだが、独身寮に未だに入っていることから家族はいないと思う。
 さすがに独身寮という名がついているだけあって、会社の正社員のなかで既婚者にもかかわらず独身寮にお世話になっている人間はいないみたいだ。他の地方から短期もしくは長期出張で、この事務所に一時的に異動した人間の宿泊先としては使われることはあるらしい。いわゆる単身赴任というやつなんだろう。
 有田課長と内藤は長い付き合いらしく、有田課長の仕事では内藤をオサとして使うことが多い。どちらかと言うと肉体労働をあまり好まないような印象を受ける有田課長が、内藤を重宝するのも十分わかる気がした。
「じゃそろそろ――」
 ルミからの介抱を終えた有田課長は、それが今日のメインイベントだったかのように、そう切り出した。
「へいっ」
 兄貴にへつらう子分のような口調で、内藤が返事した。
「で、支払いは――」
 それが暗黙の了解のように有田課長が席を立ち、清算をしていた。
 それだけの稼ぎかあるのかどうか知らないが、少なくとも有田課長くらいの歳で独身のサラリーマンであれば、それくらいの余裕があるんだろうなぁと、敬之は勝手に想像していた。
「じゃあ、またよろしく」
 家が近くだという田中を見送る有田課長、そして内藤と敬之だった。
 敬之はというと土浦から上野駅までの終電がまだ残っていたため、その日はそれに乗って家路につくことにした。
 この時間帯に、常磐線の上りで東京に向かう人間は比較的に少なかった。寂しげな車両の中に一人だけポツンと座っている敬之。いつの間にか寝てしまっていた。
 週に2、3回は、何会だのかんだのと言って、宴会を開こうとするここの人たち。この業界の人間にとってはそれも仕事の一環らしい。
 確かに現場を統括する人間にとってチームワークを大切にすることは最も大切な仕事だろう。いや仕事のほとんどをソレが握っていると言ってもいいのかもしれない。中間管理職の有田課長を見ていると、サラリーマン経験のまったくない敬之であっても、その苦労が何となく理解できた。

――田中の家。
「あんた――それ」
 和子は息子の顔を睨み付けた。
 まるで自分の死んだ姿でも目撃してしまったような、そんな目をしていた。
「やっぱ……知ってるのかよ」
 田中は明らかに変化した母親の顔色を見逃さなかった。
「ああ……」
「確かなのかい?」
 念を押すように訊ねる和子。
「うん」
 視線をそらす田中、何かを感じ取った感じだ。
「そうか――」
 息子から視線を外し、近くの一点をぼんやりと見ている和子。
 その顔には何となく昔を懐かしんでるかのような、そして悲痛な面影があった。
「いるのかい……こっちに」
 そう言う和子の顔に、田中はどういう訳かちょっと嫌悪感を覚えた。はっきりとした感覚ではなく、何か嫉妬にも似た感情だった。
「どこに住んでんだっけ、奴って」
 田中は何か思い出そうとするが、もともと知らないことに気付いた。
「わかんないけど――たしかここらへんかな?」
 この前みんなでキャバクラで飲んだときに、たしかそんなことを言ってたような気がしたのだ。
「そうかい――」
 田中は「ここらへん」に住んでいるかもしれないと言われただけで、ある程度の予想がついてしまう母親に違和感を覚えた。
「どういう奴なんだよ」
 思わす聞いてしまったが、そもそもあまりちゃんとした答えを求めない聞き方だった。
「……」
 沈黙している和子。
 母親が息子に言ってはいけないことを知っていることは明らかだった。
「ちっ」
 田中は舌打ちした。
 自分だけのけ者にされ、母親である和子と内藤だけがある秘密を共有していることに対してムカついたのだ。
「あんた――その人に、あんまり近づくんじゃないよ、いいねっ?」
 ぎっとした視線で息子を見る和子。まさに真剣だった。
「ああ、わかったよ」
 どうでもいいやという感じの田中。

             4

 工場から歩いて10分もかからないところにある独身寮。
 実際に入居している社員は有田課長も含めて5人もいない。部屋数はと言うと一階に5部屋、二階には8部屋あるのでかなり余裕があるはずだが、その3割くらいの部屋が寮の管理人である渡辺さんの私有物で占められている。
 どうせ住んでる人間がいないんだから、部屋が空いてりゃあ物おき代わりに使ってもいいだろう、というのが渡辺さんの言い分らしい。
「こんばんはー」
 渡辺さんの奥さんだ。渡辺さん一家はこの独身寮に住み込みで働いている。寮の賄いなど一切をこの家族が取り仕切っている。いわゆる大家さんみたいな存在だ。そのほとんどの食事を渡辺さんの奥さんが料理する。渡辺さん本人はというとせいぜい清掃もしくは夜になって宴会さらに麻雀や花札の相手でも、という人だ。
「今日、何かあるのかしら?」
 ぞろぞろと寮に入ってきたメンバーに少し驚いた感じの渡辺さんの奥さんは、今日の夕食の数量の心配をしているようだった。決まった夕食分の材料しか準備していないからだろう。
「あっいや、いいんです。ちょっとコレやろうと思って……」
 有田課長があわてて札を打つ仕草をした。
「あー、ソレね」
 それだけ言うと開いていた冷蔵庫を閉め、台所からさっさと出て行った。ほとんど深夜から朝まで続けられる花札や麻雀のことを毛嫌いしているからだろうか、怪訝な表情をしている。
 台所の冷蔵庫から夜のおつまみ用だろうか勝手に食べ物を取り出されて困っている、という愚痴を聞かされたこともある。
 さらに宴会やらこういったイベントのあった次の日の食堂の散らかりようは、渡辺さんの機嫌をさらに悪くする種となっているようだ。
「さぁて、じゃあどうしようか」
 有田課長が周りにいる人間に聞いた。
 おそらく、花札、風呂、夕食、飲み会、どれをどの順序でやろうか、という相談なのだろう。
「かっちょう、あっしぁーまず風呂ですわ、はい」
 軍隊のように敬礼する内藤。いつものようにどこの方言かわからないような言葉を使う。全国を転々としてごちゃまぜになっているのか、単に冗談っぽく言っているのか――。
「有田課長、とりあえずひとっ風呂浴びましょう」
 とにかく体にまとわりついている汗を流したかったため、敬之も内藤に賛成した。
 田中は黙ったままだ。有田課長は、
「そうだな。じゃあみんなで風呂でも入ってからとしようか」
「りょーかい」
 敬礼を解いた内藤。
 このバイトに入ってから度々あるイベントに、敬之はすでに慣れっこになっていた。他のバイトにはあまりない楽しみのうちの一つだ。
 ことわりの電話を同棲中の裕子にかけるときにちょっと気が引けることもある。この日はいつものように泊まりで飲み会があると言ったところ、「どうせ何処か綺麗なおねえさんのいるところにでも飲みに行くんでしょう」という返事が返ってきた。
 それで今日は、わざわざ食堂のテレビの音量を大きくして会社の独身寮から電話をかけてます、というところを十分に聞かせた。それでもやはり疑われたのだが……。
「有田課長、タオルとかって持ってきてないんですけど」
 敬之が脱衣所で聞いた。
「あー、そのへんのを使っといていいよ、誰のか知んないけどさ」
 着替え室にある洗濯物の塊を指差した。
「えっ、でもいいんですか?」
 ちょっとびっくりしている敬之だった。
「あーいい、いい別に。一ヶ月ぐらいそこにほったらかしだし、いいよ使っても」
 じゃあいいんだろうと思い、手前の少しばかり埃臭いタオルを掴んだ。
「へへっ、かぁーちょう、なぁんか修学旅行みたいっすねぇ」
 内藤はご機嫌だった。普段はあんまり人のいない寮に人間が増えたからだろうか。
「田中君は?」
 きょろきょろとした有田課長。
「あいつぁ……、トイレかな?」
 内藤が言った。
「家に連絡でもしてるんじゃない?」
 脱衣所の外に顔を出して、廊下を一通り見渡した敬之は適当に言った。
「じゃおっさきぃー、ガラガラガラー」
 内藤がそう言いながら、脱衣所と浴室を仕切っているガラス戸を開けた。むわぁーっと、湯気が脱衣所まで入ってきた。
 続いて敬之も浴室に入っていった。
「ふぅー」
 ため息をつきながら、湯で顔を洗う敬之だった。
「二宮っちゃん、彼女ぉは、おるんかい?」
 頭の上にタオルを乗せたまま、内藤がそう聞いてきた。えらいニヤニヤしている。
「えっええ、まあ一応」
「ふぉー、どんな?」
 内藤は、さらにニヤニヤしながら興味ありげに聞いてきた。
「えっええ、どんなって、まあ――」
 裕子の見た目やら、仕事やらを適当に説明した。
「ふぉー、じゃあ、彼女のほぉが稼いでんやぁ」
 驚いてるのか、自分のことを馬鹿にしているのか、目を大きく開いている内藤。
「いーのぉ、二宮っちゃんはよぉ。OLだってよぅ課っちょう」
 内藤は恨めしそうな表情をして敬之を冷やかしていた。
「内藤さんこそ、ご家族はいらっしゃるんでしょう?」
 敬之が何となく聞いたつもりだったが、内藤はその質問に対して一瞬にして顔が暗くなった。同じ土浦市内に家族も住んでいると聞いたことがあった。
 たまに何かの用事で家から電話がかかってきた後に、何か落ち込んだような暗い顔をするときがある。普段うるさいくらいに明るい内藤がそういう顔をしていると、こちらも心配してしまうくらいのものだった。
 内藤は、手の平で自分の顔をジャブジャブと洗うと、
「ふーっと」
 浴場の天井を見上げた。
「……」
 内藤が静かになった。いつになく真面目な表情をして考え込んでいる内藤に、何の声をかける事もなく敬之は湯船を出た。
 コンッ、コォン――。
 裕子のアパートの風呂場に比べると、銭湯の響きのように大きい音が帰ってくる。それは特に、こういった多人数で入れるくらいの大きい湯船だから感じとれるもんなんだなぁと思い、それにほっとさせられている敬之がいた。
 そして小さいころにしか行ったことのない銭湯を思い出していた。
 隣でシャワーを浴びながら髪の毛を洗っている有田課長。
「二宮君、今日は泊まってくんだろう?」
 有田課長が聞いた。
「えっええ、そのつもりですけど。寝るところなんてありますか?」
 敬之は一応聞いてみた。
「えっ? あ、無いけど。ソファーでいいよね?」
 やはり食堂にあるでかいソファーが、今晩のベッド代わりだった。
「酒とかって?」
 一応、もう一つ重要なことを聞いてみた。
「酒とつまみは、腐るほどあるから心配しなくていいよ」 
 髪の毛についたシャンプーを洗い流す有田課長。
「あれっ? そういゃあ、田中君いないなぁ」
 周りを見渡しながら有田課長が言った。
「そうですねぇ」
 敬之も同じように見渡したが、風呂場と脱衣所にもいない。
「あいつぁ、一人で飲んでんじゃあねぇのぉ」
 湯船から内藤がそう叫んだ。
「まっさかぁ」
 有田課長が言った。
「さっきまでいっしょに……」
 そうこうしていると、脱衣所に田中が現れた。大人が3人も入ると満杯になってしまいそうなこの浴槽に気を使ってのことなのか、それとも単に一緒に入るのが嫌だったのか、遅れて脱衣所に入ってきた田中。
「田中っちゃぁん、はよう来いやぁ」
 脱衣所まで届く声で叫んだ。田中はまったく反応せずに作業着を脱いでいる。
「さってと」
 内藤はそう言うと湯船から上がった。
 普段は作業着を着ているため、その肉体を見ることはなかったが、こうやって裸を見るとその辿ってきた道が垣間見えた。内藤の年齢はおそらく40後半ぐらいだと思うのだが、その引き締まった身体はさすがに現場を積んだだけはある。膨らんだ筋肉がついているというだけではなく、使う筋肉がスジ張っているという感じだった。それは細身の空手家の体つきとどことなく似ている。
 右側の鎖骨の下付近に何か大きな怪我でもしたのか、ぽっこりとした穴のようなへこみがある。右腕を動かすたびにそこが異様な変形をしていた。そして体の何箇所かに切り傷やアザが見えた。そのへんで転んだとかの傷ではないということが、すぐに想像できてしまうぐらい大きくそして深そうなものだ。
 ガラガラー。
 田中がガラス戸を開けて入ってきた。そして浴槽の隅の縁に座っている裸体の内藤に一瞬だけ目をやると、そのまま湯船に入った。
「ふぅー」
 小さく感嘆を上げる田中。
「田中っちゃぁん、いい体してんなぁよぅ」
 内藤が田中に言った。
 内藤のそれには遠く及ばないものの、田中のその若くしなやかそうな身体は、少しばかり年老いた内藤にそう言わせるようなものだった。
「そんなことないっすよ」
 田中は謙遜して言った。少しばかり照れくさそうに笑っている。
「何かスポーツでもやってたのかい?」
 髪の毛をタオルで拭いている有田課長が聞いた。
「ええ、まぁ。野球をちょっと」
 田中が謙遜するかのように答えた。
「野っ球かぁー」
 内藤は、何か懐かしむような顔をしながら、あごを少しばかり上げて、ぼーっとしている。
「内藤さん、野球なんてやってたんですか?」
 敬之は目の前の鏡越しに内藤の顔を見た。
「あぁいや、おれぁーしねぇがよぅ」
 目をそらした内藤、いつもの威勢のいい返事はない。
「じゃ私は上がりますので。ガラガラガラー」
 有田課長が脱衣所へと出て行った。
 ジャバッ。
 田中が浴槽から上がるとシャワーの前に座った。
 シャー。
 頭からシャワーを浴びる田中。そしてその背中を静かに傍観している内藤。
 田中の隣で体を拭いていた敬之は、
「田中さん、今日はいいの?」
「えっええ、さっき家に電話したんで」
「そう」
 後ろで内藤が、ガラス戸を開けて脱衣所に出て行く音を聞いた敬之は、
「あのさぁ田中さん。今更なんで聞くのって思うかもしれないけど」
「以前、なんで辞めるなんて言ったの?」
 小さい声で聞いた。
「ああ、あの時は、すいませんでした」
 シャンプーを頭の上にかけている田中。
「こっちとしては別に気にしないんだけどさ、なんでまた」
 何か別の理由があるのではと考えた敬之は、もう一度聞いてみた。
「……」
 一瞬、動きが止まったものの、シャンプーをぐしゃぐしゃと髪の毛につけると、
「とくに理由はないですよ」
 田中は顔を伏せて髪の毛を洗っている。
「そう」
 敬之は何となく腑に落ちない感じがしていた。
 体を拭き終わると、敬之は脱衣所に出ていった。
 有田課長と内藤の姿はすでに無く、隣の食堂からは内藤のでかいしゃべり声が聞こえていた。
「花札って久しぶりですぁー」
 内藤が大きいサイズの缶ビールを開けながらそう言った。おつまみ代わりに夕食の煮魚を細かく切り刻んだものがテーブルの上に置いてある。内藤と有田課長の二人分の煮魚だったのだろう。今日の夕食には酢の物がついていたはずで、それは内藤が二人分をぺろりと食べてしまっていた。
 煮魚以外のご飯やら味噌汁といったものはない。一応それらは大きめの炊飯器の中に入っていて、こういう飲み会の後にはご飯と味噌汁が大量に残ることが多い。次の日の朝には二日酔いに効きそうなちょっとした雑炊を、渡辺さんの奥さんが料理してくれることもある。
 この季節になると、誰のものか分からなくなるくらいの数のビールが冷蔵庫の中に入っていることがほとんどで、それらのビールを勝手に飲んでしまうのが内藤だった。
 「あれっ、俺のビールは?」と自分でキープしておいたビールを勝手に誰かに飲まれて、周りの人間に聞いてみても誰も知らないとしか言わないのは、内藤が勝手に飲んでいるせいである。
 内藤は決してビールを買うお金がないというわけではない。ならばなぜそういうことをするのかと言うと、ただ単に飲みたいときに買いに出かけるのが面倒なんだと言っている。だから週末明けともなると、空っぽになった冷蔵庫の中には、代わりに内藤の買ってきた同じ銘柄のビールがずらーっと並んでいることが多い。
「ぷはぁー、うめぇ」
 生き返ったような顔をした内藤。
「ふー」
 今日はいつになく有田課長の機嫌は良かった。空けた缶ビールを同じように満足そうに飲む有田課長がいた。
 有田課長はこの寮に入寮してからというもの一人で酒を飲むなんて事態はほとんどなくなっていた。たとえここで一人で飲んでいたとしても、ほとんどの場合には誰かが付き合ってくれることが多いらしいのだ。
 有田課長いわく、若い頃はそれがうざったいとか面倒くさいとか思っていたけれど、一人で飲みたいときには部屋に持ち込めばいいことだ、そうだ。そしてそれをしたことは今まで一度もないらしい。それくらいここで飲む酒に慣れてしまったのか、今となってはもうそんなことは気にならなくなってしまったのだろう。
 テーブルの上に「大統領」と書かれた花札の箱が置いてある。だいぶ使い込んでいるせいか、ちょっと薄汚れたベージュ色をしていた。トランプの箱をコンパクトにしてさらにギュウと縮み上げたくらいの、ちょうど鶏の卵を長方形の箱に入れるならこれくらいになるだろうというくらいの大きさだ。
 トランプのカードだと手の平にすっぽりと入れることは難しそうだが、花札だと手の平にすっかり隠れてしまう。それが歴史的にどういう意味があるのかは知らない。それでも何となくいい感じの大きさだなぁと思ってしまうのは、日本人だからというわけでもあるまい。
「飲みながら、やっときましょうか?」
 手持ちぐさだった有田課長がそう言いながら箱の中から花札を取り出した。ざざーっと札が広がりながらバラけた。
 何枚か札のカドがテーブルの上にカラカラッという音を立てて転がった。
 テーブルの上にバラけた札のほとんどは、絵柄の無いほうの茶褐色が上になっていた。札の一枚一枚にけっこう厚みがあり、内部には厚紙か何かが仕込んであるんだろう。
「ははっ、いつ見ても『青松せんべい』みたいだな」
 有田課長は、札の一枚を取り上げると、美味しそうに眺めた。
「青松せんべい?」
 内藤は不思議そうに有田課長の顔を見ながら聞いた。
「ええ、九州に出張に行ったときに食べたんですけどねぇ。これと形と色がそっくりなんですよ」
 有田課長は花札の絵柄のないほうを内藤に見せながらそう言った。
「へぇ~」
 内藤は訳もなく感心していた。それでもこの花札の背中のほうの茶褐色のような色をしたお菓子なんて、どんなんだろうという顔をしていた。
「ちょっと温泉の匂いのする、甘くてパリっとした食感の煎餅っていうんでしょうかねぇ、それ以来、この花札見るとその味と食感を思い出すんですよ」
 思わずヨダレが出そうな表現で説明する有田課長。
「へぇ~、食ってみてぇなぁそのせんべいをぉ」
 その味をいろいろ想像している内藤だった。
「形も大きさもそっくりですよ。最初どちらかが真似したんじゃないかって思いましたもん。関東にも似たような煎餅が、デパ地下なんかにあるんじゃないかなぁ……」
「本当っすかぁ」
 ちょっと期待するような目をした内藤。
「じゃあ、今度いつか九州に出張したら買ってきますよ」
 あと何回くらいか九州地方に出張しなくてはならなかったため、そのほうが早いのではと考えて有田課長はそう言った。
「たのんまっすぁ、課長」
 いつものように調子のいい内藤だった。
「ふ~、いいお湯でした」
 髪の毛をタオルで拭きながら敬之が食堂に入ってきた。ビールから発せられる匂いなのか、ちょっとばかり酔いそうな、むんっ、としたアルコール臭が食堂内に蔓延していた。
「おう、二宮っちゃん。まってたよぅ」
 冷えたビールをテーブルの上に差し出してくれた内藤。いつになく気前がいいことから、何か嫌な予感がしていた。
「さっやろうかっ」
 テーブルの上の札を全部取ると、内藤はトランプの札のように切り始めた。
 全部の札を一気に切るために、トランプのソレと同じようにはいかず、少しばかりノロノロしているように見えた。
「さっ、とりあえず3人でっと」
 有田課長と敬之の顔を見た内藤だった。
「じゃあ、寮ルールでいいね?」
 有田課長が言った。
「寮ルール?」
 敬之が、何だそれっ? という感じで聞いた。
「ここは貧乏人が多いからね。博打よりも楽しむこと優先して……」
 有田課長は言い訳をしながら、近くにあったチラシと黒のボールペンを手に取り、それぞれの名前を書きながら説明した。
「そう言っといて、きっかりと僕から取るんじゃないでしょうねぇ?」
 敬之は怪訝そうに聞いた。
「二宮っちゃぁん、大丈夫だってぇ」
 満面の笑みで言う内藤だったが、かえって不気味に感じた。
 続けて有田課長が、
「3人だから『花合わせ』、通称『バカっ花』だね」
 さっき用意していた紙に全員の名前を書き終えると、続けてその下に線を引き始めた。集計表みたいなものを作っているようだ。
「それでゲームは一応止めるまで続ける。つまり誰かが抜けるまでだね。朝までやってもいいけど……」
 朝までと言っておきながら、深夜になると誰かが眠りに入ってしまうことが多いので、実際にはそれよりもだいぶ前にお開きになることがほとんどらしい。
「あとは……、最初の親以外は、その前のゲームでトップの人が親になる。まあ親って言っても麻雀みたいに連チャンしたり、点数が1・5倍になるわけじゃなくて、ただ単に順番が早いってだけだ」
「内藤さんが以前に言ってたような順位によるウマはなし。『カス』つまり『フケ』はあり、『雨流れ』もありだね」
 有田課長の説明を聞きながら、自分の昔やっていた花札のルールと同じかどうかを確認している敬之。
 実家の親父に花札のやり方を教えてもらったときには、周りくどい説明なしに適当にやりながら覚えた。それはトランプや麻雀とは異なる「絵」札だけに、小さい子供でも何となく覚えられるという利点があるからだろうか。
 絵札に描かれている絵そのものにも興味深いものが多い。桜や梅、月や松など、日本の文化を象徴するような絵柄がほとんどだ。花札の発祥が日本であるにしろ、そうでないにしろ、その独特の文化は敬之の幼いころの目にも魅力的なものとして、しっかりと映っていたことに変わりはない。
「まあ、他のことはやりながらでいいよね?」
 有田課長は敬之の顔を見た。
「えっええ」
 知っている花札とおそらく同じだろうと思ったが、長いことやってなかったため、細かいことを思い出せずにいた。
「あのぅ、役は?」
 続けて有田課長に聞いた敬之だった。
「ああ、普通と同じだよ」
「もうだいぶ前のことなんで忘れちゃって……」
 子供の頃にした花札の記憶しかない敬之は、役を思い出せずにいた。
「えーと、そうだな」
 しょうがないなといった感じで、
「例えば――、四光、梅松桜、松桐坊主、猪鹿蝶、月見て一杯、花見て一杯ってね……。五光なんてもんはめったに出ないからねぇ」
 有田課長は思い出すように説明した。
 言っている横で内藤は、実際の絵札を並べて役を作って見せてくれた。
「へへっ、これがだいたいの役さぁ。いいねぇーこうして見ると」
 自分の並べた札に見とれる内藤だった。
「役の点数はと、まあ高い順番から、200、60、40……って感じかな。大体が20から50点前後だろうね、出ても」
 続けて有田課長が話した。
「札の点数は、五光札なんかは20点、タン札なんかは5点、ここではカスは0点としてるからね」
「ざっとこんなところだ、まぁ大丈夫だろう? 麻雀なんかと比べたら技術よりも運だからさ」
 有田課長は言い終わってから、手元に置いてあった缶ビールを飲み干した。
「ふーっ、さてと」
 ひと呼吸した有田課長は、さあやるぞっ、という感じで上半身を仰け反らせながら、両手を天井のほうに目一杯伸ばしている。
 並べた役の絵札をかき集め終えた内藤、すぐさまそれをトランプのように切ったあと、有田課長の前に差し出した。
「はいよっ」
 すると有田課長は、
「じゃ、はい」
 そう言うと、2センチ厚さぐらいの札だけをテーブルの上に移動させた。
「じゃ、場六の――」
 内藤は六枚の札を一気にテーブル上に絵が見えるようにさらした。すぐさま、
「おっ」
 という有田課長の声がした。場には『坊主』が出ていた。
「手七っと」
 内藤は反時計回りに札を配りだした。各自が七枚の手札を持つようになるまで配ると、静かに残りの札を山札の下に入れた。
「じゃあ、かっちょうからで」
 内藤が左手を差し出してそう言った。
「あっいいの?」
 いつもそうしているのに、なぜか確認していた。
「どうぞどうぞ」
 内藤が言った。
「あっじゃあ、『坊主』もらうよっ」
 有田課長はそう断りながら、場さらされていた『坊主』に、手元から一枚の札を叩きつけた。まるでメンコか何か投げたような気がした。その日の一発目の札だけに、何となく力の入っている有田課長だった。
 赤い空に白い月。
 花札を最初にデザインした人のセンスはすばらしいと思った。現在でもその絵柄は人々を飽きさせることなく、こうして茶の間で活躍している。
「じゃ、二宮っちゃぁん」
 内藤がせかした。
「あっああ、俺?」
 慌てて山札から一枚取ろうとした。
「おおぅ、違う違う。一枚出してから取るぅー、麻雀とはちゃうぜぇよ」
 内藤が変な方言で言った。
「ああ、そうっか」
 そう言うと、手元にあった『萩のカス』を『萩に猪』の上に置いた。
 続けて山札から一枚取った。それは『萩のタン』だった。
「あっ」
 ちょっとだけ損をした気がした。
「すっごいなぁ、二宮っちゃん」
 冷やかし半分で内藤が笑った。有田も、へぇ、と言うようなしぐさをして笑った。
「ではっと」
 内藤が手札の中から『菊に盃』をテーブルの上に叩きつけた。それはまったく美しいといっていいほどの手さばきだった。手首のスナップを利かせ、最低限の動作でパシッという心地よい音を作り出したその手の動きは、誰もが見失うかのようなものだった。
 敬之はちょっとばかりびびっている。
「『一杯』が消えたしよぅもう……」
 そう言いながら有田課長の顔を少しばかり見た。『月見て一杯』のことだろう。内藤の手札だった『菊に盃』と、有田課長の取り札である『坊主』でその役になるはずだった。
 有田課長は無視している。
「ちっ」
 内藤が山札からとった一枚はカスで何もなかった。それでも初めの『菊に盃』はきちっと取り札としている。
 有田課長が少し考えながら、手札から『柳のカス』を出した。どれも合う札がない。場にはカス札が多い。
 親つまり順番が一番初めの有田課長は悩んでいる。
「ふぅ」
 山札をめくると、とても貴重な『桜に幕』だった。
「うわっ」
 落胆した課長の顔があった。それとは対照的に、にやにやし始めた内藤がいた。
「かっちょう、ナイスアシストぉ」
 敬之が終えるのを待っている内藤。敬之が山札からの『牡丹のカス』により『牡丹のタン』を取り終えた。
 内藤は、
「ありがとうっす」
 さっき有田課長が山から出した『桜に幕』を、手持ちの『桜のカス』で回収していた。ニヤニヤしている内藤、『花見て一杯』の役ができた。
「かっちょうは腕がいいわぁ」
 冷やかす内藤。
 さっきの「『一杯』が消えたしよぅもう」という台詞は、内藤の口三味線だった。確かに『月見て一杯』、そしてその他のでかい役は有田課長の「哭き」で消えていたが、手持ちの『桜のカス』で、ひそかに『花見て一杯』を狙っていた。
 空いた左手でその辺にあったおつまみをボリボリッと食べている有田課長。
 結局それ以降、内藤がさらに五光札を集め一人勝ちっぽかった。ほとんど役のつかない札ばかり集めていた敬之と有田課長と比べれば一目瞭然だった。
「出だしは良かったんだけどなぁ」
 有田課長は近くの冷蔵庫からもう一本の缶ビールを持ってきた。
「へへっ、運も実力のうちってねぇ」
 内藤の機嫌は良かった。本当に運だけなら良いのだが……。
 敬之は、ばらばらになった札を手元にかき集めていた。
 いつの間にか同じ食堂内にある大きなソファーでくつろいでいた田中に気づいた敬之は、
「あっ田中さんっ、どうです? 花札でも」
「あっ、いいですよ続けてもらって」
「おっ、田中っちゃぁん、いたぁんや」
「たまにぁー、いっしょにあそぼーぜぇ」
 内藤が田中を誘った。
「まぁ、そうおっしゃるんなら」
 しぶしぶとテーブルにつく田中。気のせいかその顔にはいつもの田中とは異なる黄昏を思わせるような暖かい笑みがこぼれていた。
「じゃあ、私は抜けますよ」
 敬之が田中に席を譲った。
「あっいいんですか?」
 そう聞いてきた田中。
「いいよ、いいよ。田中っちゃん、たまにゃあーよう」
 こういう遊びに付き合うことのなかった田中が入ることがうれしかったのか、内藤の機嫌はいつになく良かった。
「けっ」
 内藤が言った。
「ろくな札がこねーや」
 田中が入ってから、内藤は凹んでいた。
 初めに配られる手札の悪さが、内藤の役作りに影響していた。内藤の今の手札はというと、
『藤に郭公・萩のタン・紅葉のカス・柳に燕・桐のカス・菖蒲のカス・菖蒲に八橋』
 良くもなく、かといって最悪でもない、『フケ』つまり『カス』にすらなりそうもない「どうしようもない」手札だ。
 場には、
『桜に幕・牡丹に蝶・紅葉のタン・桐のカス・芒に月・松のカス』
 場にさらされている札は、内藤以外の二人にとってはかなり魅力的な札ばかりが揃っている。
「チッ」
 内藤は、仕方なく手札から『紅葉のカス』を取り出し、それで『紅葉のタン』を取った。さっきまでの威勢の良いスナップは見られない。
「ケッ」
 山から取った札は『松のカス』、場札とのカス同士だった。
「かーっ」
 イライラしている内藤。
「もらいっ」
 有田課長が、手札の『桜のカス』から『桜に幕』を取った。その後、山札から『萩のカス』が出るとそのまま場に放置した。
「さっきの借りを返さないと」
 内藤にそう言った有田課長。
 その後の、内藤のいつもの冗談じみた返答はない。
「じゃ私ですね」
 田中はそう言うと、手札の『桐に鳳凰』を『桐のカス』の上に叩きつけた。それは内藤の手首のスナップを利かせた打ち方と何となく似ていた。
 一瞬、内藤が、
 ギッ。
 と、田中の指先を睨みつけた。
 それに動じない田中は、山札から『梅のタン』を取ると、静かに場に放置した。
 その後、内藤が『萩のタン』で『萩のカス』を取り、有田課長は山札から『梅のカス』により『梅のタン』を取った。
 田中は、手札の『芒のカス』で『芒に月』を取ると、山札から『梅のカス』をそのまま場にさらした。
 結局、『松桐坊主』を作った田中がトップ、その後に有田課長、ドベが内藤だった。
 内藤は、一番最初に配られた手札と、山札の積まれ方の微妙な相性の悪さが影響していた。悪いときにはそれなりに対処できるはずであるが、そのへんの切り替えを狂わせるような、どっちつかずの札のめぐりだった。
 そして何よりも、田中の見せた手首のスナップを利かせた打ち方。あれに動揺した内藤はゲームどころではなかった。
「……」
 内藤は黙ってテーブルの一点を見つめている。以前、道端で影の男と会ったときの顔と何となく似ていた。
「おうっ、おまえさん」
 内藤はうつむいたままそう言った。
「はっ?」
 田中がそう答えた。
「そう、おめーだよ」
 内藤の声が低くなった。
 同時に、田中も真剣みを帯びた顔つきになった。僅かに顔をこわばらせている。
「おれの見当違いかもしんねーけどよぅ」
 テーブルの一点を見ながらそれ以外の場所もちらちらと見るという、普段の内藤にしてはどうも落ち着きのない視線の置き方だった。
「ありゃあ、間違いねぇ」
 両目を閉じた内藤はしばらくして、
「おめー、どこで習った、あー?」
 上目遣いに田中の顔を睨みつける内藤。聞いてるんだが、脅してるんだか、どちらとも取れるような激しい口調だった。
「……」
 黙っている田中。
「コレをどこで習ったんだって。聞いてるんだろぉ」
 内藤の顔がさらに真剣みを帯びた。
「なっ内藤さん」
 敬之が制止しに入った。
「いやっいいんです、二宮っちゃん。こりゃあーウチらのことっすから」
 そのまま田中のことを睨みつける内藤。
「……」
 焦点を合わせずに横のどこかを向いている田中。決して怖くて黙っているという感じではない、どちらかというと白状したいんだけれども我慢している、何か理由があって言えない、といった感じに見えた。
「あの打ち方するやつぁー、そう多くはいねぇんだよ」
「それに、さっきおめーが札くばっただろうが、あー?」
 確かにこのゲームでは田中が札を切り、それを田中が配っていた。結果的にそれは、内藤にとってはまったく良くない手札そして配札だった。それらの札をこの田中が仕組んだんじゃないのか、と言っているように聞こえた。
「あのなことぉできんのぁー、おいらの知ってる限りじゃ……」
「和歌子ぐらいっしか、いんねぇ」
 内藤は手元に置いてあったタバコに火をつけた。明らかに同様を隠せない内藤、いつもの冗談じみた顔はすっかり消えている。
「ふーっ」
 一息いれると、
「おめーさん、知ってるだろ? あいつのことをよぉ」
 うつむいている田中を上から眺めるようにして見ている内藤。
 なぜ内藤がそこまでそのことにこだわるのか分からなかった。そしてそれは、桜町にあるキャバクラでも捜していた和歌子という女に関係することらしいのだ。
「わっ和歌子って、この前言ってたあのキャバクラのママですか?」
 敬之が内藤に聞いた。
「ええ、そうですぁ。俺の昔のコレですぁ」
 そう言いながら、内藤は右手の小指を立てた。
 田中の顔が僅かにピクッと反応した気がした。
「そうだったん……ですか」
「で、どうなったんですか?」
 敬之は興味ありげに内藤に聞いた。
「どうなったって?」
 内藤が首をかしげた。
「いや、内藤さんと、その和歌子さんっていう女(ひと)」
「そりゃあ――」
 内藤は一息おいてから、
「言えねぇ」
 そう言ったあと、内藤はトイレに立った。
「そうだったんだ」
 あのキャバクラのママだったという和歌子という女性が、内藤の昔の女だった。
「そっかぁ、内藤さんのねぇ」
 敬之は内藤の過去の断片を垣間見ることができたといううれしさと好奇心のせいか、内藤とその和歌子という女ぐらいしか使わなかったというスナップを利かせた札の打ち方を、田中も使ったという事実をすっかり忘れていた。
 内藤が席を立ち、ほっとしているような田中に向かって敬之は、
「で――、田中さん、花札うまいじゃん」
 敬之がなんとなく聞いたところ、田中は、
「ええ、まあ、ウチでもけっこうやってたもんで」
と答えた。
 工場にいるときの顔からは程遠い、ほっとしたようなそしてがっかりもしたような、いつも見せないようなちょっとばかり懐かしい感じのする、別の田中のような顔つきをしている。
「ははっ、ウチと似てんだねぇ」
 敬之は自分の両親と同じように、花札好きの家族がいたことに驚きとうれしさを感じていた。いまどき花札なんてやる家族なんてめったにいないのではと思っていたからだ。
 田中は自分の家族のことを聞かれて照れくさそうにしていた。
「でも、内藤さん相手に花札で勝てるなんて――」
 有田課長は田中のことを褒めた。
 仕事では遅刻ばかりしていた田中のことをあまり良くは思ってないと感じていた。有田課長にしては珍しいと思った。
「そっそうですか」
 照れている田中だった。
 トイレから帰ってきた内藤。
 田中のことを一見すると、その後、大きいソファーに腰掛けた。
「おりぁー、ちょっとココで飲んでますけぇ、やっといておくんなすぇー」
 足元にあった焼酎をそのままラッパ飲みしていた。
「内藤さん、じゃやりたくなったら言ってくださいよ」
 有田課長は札をかき集めていた。
 以前にも内藤がふてくされたことでもあったのだろうか、今日のようになった内藤を扱うのも慣れているような有田課長だった。
「じゃ田中くん、お手柔らかに」
 笑いながら有田課長が札を配り始めた。それ以降に田中が札を配ることがなかったのは、さすがに有田課長の意図するものだろう。そしてさっき内藤の前で見せた、みごとな手首を利かせたスナップも見ることはなかった。
 さっきのは内藤に対する田中の余興だったのだろうかと、敬之と有田課長は思った。田中のことを以前からあまりよく思っていなかった内藤に対するイジワルか何かだったのではないかと。
 その後、3時間ばかり花札を続けた。
 いつものようにおどけるような内藤の喋りが無かったため、3人の札をテーブルに叩きつける音だけが独身寮の食堂に響き渡っていた。
 途中、寮に入っている残りの社員らが食事のために食堂に入ってきたものの、静かにもくもくと花札を打つ3人組と、ソファで寝転がって焼酎をラッパ飲みしている内藤を見ると、誰も話しかけることすらせずに静かに夕食をとってそこから部屋へと帰っていった。
 結局、田中の一人勝ちというわけではないが、残りの二人が程よく負け、それに伴い田中が一人浮いたような結果となった。
 敬之の寝床となるはずだったソファを、内藤が独り占めしてそのまま眠りについたため、敬之は有田課長から余りの布団を借りて食堂のフロアーの上で寝ることにした。田中も同じようにしたみたいだった。
 隣のでかいイビキに悩まされながら、眠りについたのは午前3時ぐらい。
 眠りにつく瞬間まで、札のピシッというテーブルに打たれる音が、敬之の脳みそにこびりついていた。

              5

「ふぅー」
 歩きタバコをしている内藤。
 仕事中でもタバコは吸えるのだが、仕事を終えた後の一本目のタバコの味は、それとはまた異なるものとして感じられる。
「今日の晩飯ゃあ、何だろなぁ……」
 夕暮れ時の橙色の日差しに染まっている穴の開いたアスファルトを、ぼーっと眺めながら歩いている内藤。今日の内藤はというと、今から寮に直帰しようか、それともどこか寄り道しようかと、いつものようにあれこれ考えているようだ。
 ジャリ――。
 内藤の後ろのほうから何やら耳に残る音が聞こえた。
 一瞬ぴたっと歩く動作を止めた内藤。そのままの体勢で、視線だけを少しばかり後方に向けた。同時に顔がわずかに斜め前方を向いていた。
「……んっ」
 なるべく足音を立てないように、そして耳を後方の何かに傾けた。
 あの夜に男と会ってから何となく後ろを気にしてしまうのは、かなり前に忘れてしまっていた自身の癖というだけの理由ではないことを物語っていた。
「へっ……」
 内藤の十メートルくらい後ろでにやにやしている男がいる。
 桜町で会った男。
「よぅ、内藤」
 男はズボンのポケットに両手を突っ込み、道路の真ん中あたりで仁王立ちをしている。喉にイガイガでも詰まってるんじゃないかと思うくらいのしゃがれた声。
「田中か……」
 静かに後ろを振り返りながら内藤は男のことを凝視した。
 この前の夜のような驚きはない。かえってこの事態を待っていたかのような、期待していたかのような、そして憎たらしいような、そんな顔つきの内藤。
「よく覚えてたな、おれを」
「忘れるわきゃあ、ねぇだろう」
「それでおまえ、かたぎになっ――」
 男が聞こうとすると、
「ああ」
 内藤が遮るように言った。
「あそこで働いてんのか?」
 出てきた工場のある会社の門を、遠くからあごで指しながら聞いた。
「……」
「へへっ」
 一瞬だけ足元に目を向けた男は、
「いいもんだぁ」
 すぐさま内藤のほうに目を向けると、
「利根桜会の噂は聞いてるだろう、あぁ?」
 男はそれまでの緊張した顔を少しばかり解き、そう尋ねた。
「利根桜会か――」
 内藤はそんな会があったなぁ、というような感じで、何かを懐かしむようなそしてちょっとばかり小馬鹿にしたような顔をした。
「ああ……、あの桜会さ」
 男はいやらしい目つきで微笑んだ。
「……」
 右手に持っていたタバコを足元に捨てると、内藤は踏みつけてその火を消した。
「それで」
 タバコの火を消し終わると、内藤は男の顔に再び目を向けた。
「和歌子は――」
 そう言おうとした内藤に向かって男は、
「へっ」
 内藤の言葉を遮った。
「何十年も前の女のことを」
 首を傾げながらウンザリだというような動作をした男は、道路脇に唾をぺっと吐いた。
「何だこらぁ」
 その場から一歩二歩と、男の方へと歩み寄る内藤。
「きさまの――」
 それまでの冷静だった内藤が、頭に血が上ったかのように変化した。
 それを遮るように、
「内藤よう」
 男は片方の目だけを大きく開くと、そのまま話し続けた。
「あの女とはとうの昔に切れたんだよなぁ、こっちゃあよう」
 それが内藤のせいだと言わんばかりに男は内藤を睨みつけた。内藤には一瞬、そのことが何のことか分からなかった。
「どういう――」
 相手を伺うように立ち止まった内藤。
「てめぇが消えてからよぉ、和歌子(あいつ)も変わっちまってよぉ」
 男は静かな口調で昔を思い出すように語り始めた。
「てめぇら、出来てたんだろう? はあ」
「……」
「へへっまあいい。和歌子(あいつ)の店は繁盛してたもんなぁ。あの若さであれだけの――」
 男は昔の繁栄を懐かしんでいるようだ。
「お前の店だったろうが」
「店だけじゃねぇよ、和歌子(あいつ)も」
「……」
 黙ったままの内藤。
「――だったはず」
 男はそう付け加えた。
「それで?」
「あぁ」
 クビを斜め前に突き出しながら、片方の目は開き、もう片方の目は細く鋭く変化した。
「……あぁ?」
 男の顔に視線を合わせたまま動かない内藤。
「昔のことだしよぅ、もう」
 ふーっやれやれ、といった感じで目線を外しながら男は答えた。
「そうかもな」
「そうそう」
 何かを思い出したように男が言った。
「……」
 視線をもう一度男に向ける内藤。
「――ガキが出来ちまってよ」
「ガキぃ?」
 その言葉に即座に反応した内藤は、目の色が変わった。
「ああ」
 男は薄ら笑いをしている。
「……」
 神妙な面持ちで黙って聞いている内藤。
「――俺のな」
 それまで薄めていた片方の目を開くと、男は嫌な歯を見せた。
「……」
 一瞬、頬をピクつかせた内藤。しばらくしてから、
「ツっ……」
 顔の向きを変えずに、足元を見ながら唇をわずかに舐めた。
「そのまま別れちまったっきりだな」
「……」
 和歌子とこの男に子供がいたということを聞いた内藤は、少なくともショックを受けたようで、しばらく黙ったままだった。
「和歌子(あいつ)もお前のことを忘れてなかったみたいだがな、あの頃はよう」
「そうか」
 内藤は黙って男の言うことを聞いている。
「こっちとしちゃあ、いい迷惑だよな」
 腹の虫が納まらないといった感じで男は言った。
「てめぇらがぁ――」
 内藤は怒ったような口調で言い返した。
「へへっだがよ、組織にゃあ逆らえんだろう、ああ?」
 それまで仁王立ちだった男は、両足をさらに開きながら言った。
「っかよ……」
 内藤は薬指のない左手を静かに持ち上げた。
「へっ」
 その左手を見ながら男は笑っている。
「身からでた錆だろうよ、利根桜会が消えたのもよぉ」
 内藤が叫んだ。
「なあにぃ?」
 何なんだこいつは? と言いたそうな男の顔に変化した。
「別派閥の女をハラませた挙句に、抗争の落とし前までつけさせるとはよぅ。矛先違いにもほどがあらぁ、なぁ?」
 それまで突っ立っていた内藤は、足元を少しばかり伺うように足を震わせた。
「きさまぁ会をこけおろすきかぁ、ああ?」
 男は片方の目を大き、口元をねじった。
「けっタァナカァ。おまえみたいな奴がいつまでも――」
 ジリッと何センチか体勢を低く構えた内藤。
 同時に周りの様子を横目でちらちらと伺っている。
「組を去ったやつにゃあよぅ」
 何か言いたそうな男だった。
「てめぇが仕向けたんだろうが、ああ?」
 内藤は薄ら笑いをしながら言い返した。
「指一本ごときで終わったと思うなよ」
 男も自身の体を内藤に対して斜めに向けた。
 少しばかり顔を下に向けて、下からガンを飛ばすような目つきになった。
「けっ、おまえこそ」
 内藤は覚悟した目つきになった。
「へへっ」
 男も身構えた。
「今日は、『お仲間』がいなくて良かったなぁ」
「へっ、おめぇにぁその『お仲間』もいねぇだろ」
「『ご安全に』なんてよ、あぁ?」
「てめぇにぁ『ご臨終に』が似合ってらぁ」
「よっぽど俺のことぉ嫌ってんだなぁ、おお?」
「ふっ、ペッ」
 内藤は道路の脇に、唾を吐いた。
「おめぇみたいな奴にぁ向かねぇんだよ、感謝しろぉ俺に」 
 何やら肩をほぐすような不自然なしぐさをしている男。
「へっ、おれのことぉあんなに怖がってたくせによぉ」
「ほざけぇ」
 目じりが少しピクついている男。
「変わってねぇなぁ、タナカァ」
 内藤が叫んだ。
「へっ……」
 男はそれまでの体勢を崩すと、同時にニヤリとした。
「うんっ?」
 内藤は不思議そうに様子を伺っていた。
「ワリィが、あんまり遊んでるひまぁねぇんだ」
 男はそう言うと右手を自分の背中に回した。
「ああ?」
 内藤は何だという顔をしながら男を凝視していた。
「何十年ぶりだなぁ、こうやって――」
 男は長さが30センチくらいの短刀を背中から取り出した。腹のまわりに巻いたサラシか何かに差し込んでおいたのだろうか。
「相変わらずだな、あぁ?」
 内藤は一瞬、ギッという目つきで男を睨みつけたが、その後は呆れるような顔つきで言い放った。
「そんなでけぇ口たたけるのも今のうちだぜぇ」
 短刀の鞘から刀を抜いた。
「くっ」
――男がその動作をし終えたかくらいのタイミングで、内藤は近くのゴミ捨て場に立てか
けてあった、柄の部分が棒になっている一メートルくらいの長さのホウキを手に取った。
そのホウキは、さっき周りを横目で観察した際に見えたものだ。
「そんなもんで……」
 苦笑している男、ジリジリと内藤のほうに近づいている。
「年甲斐もなく刀なんか振り回しやがってぇ」
 低く構えている内藤。ホウキの掃く部分のすぐ上を右手にしっかりと握っている。短刀と比べると貧弱ではあるものの、長さ的にはそれの二倍以上はあるため、どうにか間合いを保つための手段としては上等なものだった。ただ懐に入られたらどう考えても内藤には分が悪い。
「きっちりカタぁつけようぜ」
 短刀の先を内藤の喉に向けて突き出した。軽いフェンシングのように、短刀の延長上の斜め前方に内藤がくるように男は構えている。男の短刀の先端と内藤のホウキの先端の距離は50センチもない。
 状況的には男に分があるようだが、間合いでのせめぎ合いは、なるべく切り合いたくないという内藤の策略の方に分があった。
 そして年齢的にも肉体的にも、内藤の身のこなしのほうが軽く見えた。
「どうした、タナカぁ!」
 以前よりもだいぶ体格的に衰えたように見える男に向かって、内藤はそう叫んだ。
「へっ、おれを甘く見るなよ」
 そう言うと男は、足元にある短刀の鞘を、内藤に向けて思いっきり蹴とばした。
 内藤は一瞬、鞘に気を取られた。そして反射的にソレから自分の足元を防ぐような格好をした。
 無意識的にではあったが、僅かに足もとのバランスを崩した内藤に向かって、瞬時に間合いをつめた男は、そのまま切り上げるように短刀を振り抜いた。
 シッ。
 短刀の先に一瞬だけ目を向けると、男はすぐさま内藤のほうを凝視した。
「くっ」
 短刀の先が、内藤のホウキを持つ右手の腕あたりをかすめていた。
 普通の刀と異なりその半分の長さもないだけに、いったん切り込まれるくらいの間合いに入られてしまうと、そのスピードを跳ね返すような動体視力はいまの内藤にはない。
「つぅぁ……」
 右腕の作業着の上から内藤の血が滲み、しばらくするとアスファルトの上にそれらの血がポタポタと垂れている。
「なかなかの切れ味だなぁ、ああ?」
 男はにやにやしている。
「ふぅ」
 ある程度の余裕のある顔つきから、真剣そのものの内藤の顔つきに変化した。
 ジリ、ジリッ。
 男の足元が、じわりじわりと内藤に圧力をかける。とりあえず一太刀を内藤に浴びせることができた男の顔は、さっきまでの僅かばかりの不安げな顔つきから、どちらかというと自信のあるものに変化している。
「へへっ」
 短刀ということもあってまともに切りあっては分が悪い。
 奴の短刀を阻止した上で一撃を加えるか、もしくは短刀が襲ってくる前に、奴の動きを封じこめられるくらいの一撃を加えられれば。
「どうした、内藤よぅ」
 余裕のある男の顔つき。
「すぅ――」
 額に脂汗を滲ませている内藤。今までのような軽やかなステップもだいぶ鈍くなっている。そしてそれが男との間合いを簡単につめられる原因ともなりそうだ。
 余裕がありそうな感じで男は、
「どうした、おらぁ」
 せかすように内藤のホウキの先端付近を、短刀で遊ぶようにチョンチョンと払っている。男は内藤をあしらうような感じで、その顔色を読んでの行動なのだろう。
 木製で出来ているホウキの柄の部分に対して、男は払うような感じで短刀を当ててきたため、短刀がたまに引っ掛かるようなタイミングがあった。
 カンッ……、カン……クッ。
 次の瞬間、
「むんっ!」
 内藤のホウキの先端が、男の胸元をめがけて突っ込んできた。
 刹那的な直線の動きに対して、男の対応が遅れた。
 ドッ。
 右手一本でただ突いているというのではない、左手をホウキのもう一方の端から添えている。ただそれがホウキだけに、左手を添えた部分が掃く部分にもなっているため、突く威力が半減してしまった。
「ぐぅあ……」
 片目を細め、上目使いに内藤を睨みつけている男は、胸元へのその一撃が、少なくともその呼吸を乱れさせるだけの威力があるものだと証明するものだった。
 たて続けに、
「タァナカァ!」
 そう叫びながら男の頭をめがけてホウキを振り抜いた。男はとっさに短刀でそれを防ごうとしたけれども間に合わず、
 バガッギッ。
 鈍い音とともに、内藤の右手で振り抜いたホウキが、男の首すじ付近を少しばかり埋没させた。
 ただそれは一瞬のことで、軽量なホウキでさらに片手による殴打であったため、男の太い首にはたいしたダメージを与えられなかった。
「ぐふう」
 男はそれを待っていたかのような感じで、瞬時にホウキの棒の部分を、短刀を持つ手とは逆の左手で握り締める。
「むんっ!」
 気合を入れながら左手で握ったホウキを、男は引っこ抜くように手前に引いた。
「くあっ」
 思ってもみなかったという表情をした内藤。それでも何とかしてホウキを手放さないようにと踏ん張った。次の瞬間、
 スッ。
 内藤の腹を刹那の冷風が切り裂いた。
 右手に持っていた男の短刀が、内藤の腹を横一直線に通り過ぎていった。
「……ん」
 一瞬の出来事だっただけに、何が起きたのか内藤にも判らない。
 それでも直後に、上下にパックリと穴の開いた作業着にジワジワと血が滲んでいることから、やっとソノことを自覚できた。
 男の右手に短刀があることを忘れてしまっていた。そして短刀が届くくらいの近い間合いまで踏み込んでいたということも。
「……む」
 ギッと男の顔に目を向けたまま、踏ん張っている内藤だったが、直後に、
「ぐぁうっ」
 気合を込めたかと思うと、男の両肩の線に対してほぼ垂直だったホウキの柄を、なるべく平行になるように向けた。
 そして相手の首の後ろの部分にホウキの中央付近がくるようにし、そのまま左手でホウキのもう一方側をしっかりと握った。
 次の瞬間、
 男の顔面に内藤の右ひざをあてがい、同時に、両腕を思いっきり自分側に引いた。
 バカギッ。
 ホウキの折れた音なのか、男の首の骨の折れた音なのか、どちらともとれるような鈍い音がした。
 さらに男の頭蓋骨を、固いアスファルトに向けて思いっきり打ち込んだ。
 ガゴンッ。
 辺り一面に響いたアスファルトに頭蓋骨がぶち当たる音とともに、男の後頭部から路面の凹凸に垂れ込むように血が入り込んでいった。
 男の首の後ろには、どす黒い紫色をしたホウキの跡が残っており、頭と体をつなぐ機能を果たしていないような首は、ぐらぐらとしたままアスファルトにこすられる後頭部の音を作り出している。
――静寂が戻った。
「つぁ……」
 男の前に崩れる内藤。
 切られた腹の傷口を手のひらで押さえている。
 作業着の色は、どす黒い赤がそのほとんどを支配していた。
「ふぅー」
 いったん呼吸をしなおす内藤。
「うっ……」
 腹から血がどっと溢れ出した。

              6

「おはようございまーす」
 定時の十分くらい前に、「ご安全に」と書かれた出入り口を開けた。
「……」
 いつもなら、でかい声で返ってくるはずの「何か」がそこにはなかった。
「あれっ?」
 部屋の一番奥にあるディレクター椅子は空っぽだった。
「少し早かったかな?」
 部屋の明かりのスイッチを入れ、部屋の中をうろろうと歩き回った敬之。気のせいか、いつもよりも部屋のダンボール箱の位置がそろっている。テーブルの上のタバコの吸殻もまったく無い。灰皿自体も綺麗に洗われている。ここには掃除をしてくれる人なんていないはずなのに。
「誰だろうな」
 ここのバイトに入ってから初めての経験に、何となく胸騒ぎを覚えた。
「おはようございます」
 それから5分くらいした後に、田中が入ってきた。
「あれっ、内藤さんは?」
 田中がそう言いながら敬之のほうを見た。時間に厳しい内藤が遅れてくるということはあり得なかった。それはここの現場責任者としての責任でもあったし、内藤が口をすっぱくして言っていた「決まり事」だったのだ。
 一時間が経過しても内藤は来なかった。
「おはよう」
 有田課長が工場に入ってきた。朝一番でここの鍵を開けて今日は二度目の来場だろう。しかし、今日のあいさつはほとんど聞こえないくらい元気のないものだった。
「有田課長、内藤さんって今日……」
 真剣な顔つきの有田課長がいた。いつも仕事の話をするときの顔とは、種類が異なるといった感じのものだった。
「……」
 一息おいてから、
「さっき、内藤さんから電話があって」
「ここを辞めると――」
「……」
 敬之は一瞬、何のことか分からなかった。
「何かあったん……」
 敬之が尋ねると、有田課長はその言葉を遮るように、
「どうも、あの男と何かあったらしい」
 有田課長は顔を上げた。
「あの男って?」
「一回、桜町の道端であっただろう、ほら」
 有田課長が思い出させるようにそう言った。
「あっ、あの時の!」
 敬之は以前、桜町の居酒屋の前の路上で、内藤と睨み合ったその男のことを思い返していた。
「その男を……」
 有田課長が静かに語り始めた。
「殺してはいないみたいだが、半殺しって言うのかね」
「今朝、内藤さんから電話で、申し訳ないがここの仕事を続けられなくなったと言ってきた。急なことなんで、何でだろうと理由を尋ねたらそういうことらしい」
「なんでまた」
「内藤さんは、もともとは組の人間だったからね」
 有田課長が申し訳なさそうに言った。
「組、ですか?」
「そう、ここらへん一帯を牛耳っていた利根桜会のことだよ」
 睨み付けるように有田課長が言った。
「えっあっ、あの?」
「だいぶ前に、組から離れたんだが、あの男には個人的に何かしらの因縁があったらしくて、先週ここからの帰りにあの男に待ち伏せされたみたいだ……」
「内藤さんはけっこう年を取っているんだが、現役としてここで働いているせいもあるだろうが肉体的にはさほど衰えてはいない。相手も組の人間らしいんだ、そういう喧嘩なんて日常だったんだろうか。しかしそのときのは少しばかり意味合いが違ったらしく、相手が本気でヤリにきたらしい」
「で、その男を逆に?」
「そうみたいだ。それでも内藤さんもケガは負ったらしいんだけど……」
「ひょっとして、有田課長、知ってたんですか?」
 敬之が怒るような口調で聞いた。
「何を?」
 驚くように目を開いた有田課長がいた。
「内藤さんが、もともと組の人間だったってことを」
「ああ、まぁ一応は」
「そっそうだったんですか……」
「ひょっとして、田中さんも?」
「まぁ、そうだな」
 有田課長は静かに答えた。
「今日中にやっときましょうよ、これ」
 真面目な顔をしながら、コンクリートを錬る田中。
 その目はあの夜、居酒屋の赤ちょうちんに照らされたあの男の、鋭く冷たい視線を何となく思い出させるものだった。
 内藤という人間がここのオサをしていたという事実だけを残して、作業は続けられた。

              7

 内藤が組の人間だったということは有田課長も承知の上だった。そしてそのことは、なるべく社外の人間には言わなかった。別にそのことを心配しているという訳ではなかったが、内藤本人がそのことをあまりよく思っていなかったからだ。
 協力会社の社長から紹介されたのが内藤で、とにかく信用できる現場経験のある人材をということだったらしい。実際に、有田課長の無理な注文も、内藤は何だかんだ言いながらやってくれた。口ではとやかく言うけれど、本当にやって欲しいときにやってくれるのが内藤だった。そのあたりの扱い方も、有田課長としてはだいぶ様になってきていたのだ。
 昔の内藤は、荒くれモノとして土浦周辺では有名だった。若気の至りにしては、多少手荒なこともやらかしていた。そしてその頃には、内藤の左手の薬指はまだ存在した。
 当時の利根桜会は、関東でもかなりの勢力を持った暴力団であり、その頃にある程度の肩書きを持つ組員として活動していた田中勇治という男と、まだ若造だった内藤とは、何かと揉め事を起こす仲だった。そしてそれは組織内の小さな抗争へと発展し、最終的にはある程度の子分を揃えていた田中勇治のグループが内藤のグループを追い詰めた。その時に内藤は、自身の薬指を失った。それが引き金となったのかどうか分からないが、内藤が桜町を離れたのはその頃だった。
 当時、内藤が付き合っていたのが和歌子であり、さらに、ママとして働いていたキャバクラのパトロンとしてついていたのが田中勇治だった。内藤が桜町を離れると同時に、田中勇治と和歌子は結婚したものの、二人は半年足らずで破綻してしまった。それは、和歌子に内藤を惜しむ影が見え隠れしていたということもあった。
 年月が経ち、この地を離れた内藤の噂はいつの間にか消えていた。そして内藤は、最近になってこの土地に帰ってきた。若いころの内藤を知る人間は、あまりいなくなっていた。というのも、時代の流れとともにかつての繁栄を失ってしまった利根桜会は、いつの間にか衰退し、新たな組織が仕切るようになってしまっていたからだった。
 ある日、息子の田中が母親に、バイト先に左手の薬指のない変わった人間がいるということを話したところ、母親の顔色が一瞬にして青ざめたらしい。
 田中の母親はかつて内藤の女、つまり、和歌子だった。本名は和子であり、キャバクラでは和歌子と名乗っていた。田中の父親はいない、自分の生まれる前に、父親は死んだと聞かされていた。
 内藤がもともと組の人間だったということを母親から聞いた田中は、そのことを有田課長に確認した。さらに、ひょっとすると内藤が父親かもしれないと思った田中は、母親にそのことを聞いたらしい。ただ、母親はそのことについて何も答えなかった。
 それから田中は、内藤をあえて避けるようになった。それは嫌っているというのではなく、自分が内藤のかつての女の息子であるということを、何となく悟られたくなかったからだという。ただ、母親にそれ以上は詮索することを止められたため、それを確かめることもできずにいた。
 自分の母親がかつて付き合っていた男。そしてそれが原因で内藤の薬指はなくなったのではないかと考えた。何かしら重大なことが隠されている気がしたのだ。
 アルバイト先であるこの工場では、内藤のことをかつて母親がつきあっていた男として見るようになった。バイトを辞めると言い出したのは、内藤が組の人間だったということが理由ではなく、ひょっとすると自分の父親かもしれないという思いが、その起因とするものだった。
 幼い頃に母親がよく見せてくれた花札のサバキを、内藤の目の前で披露することにより自分の存在を内藤に知らせた。それは内藤が自分の父親であるかどうか、などということとは無関係の親愛の情だったのかもしれないし、内藤という男に対しての愛情表現だったのかもしれない。




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