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組織から離れたかったわけ

どんな個人でも組織でも、行動するためには目的・目標があります
私は40年間企業人として組織の中にいて、最初は我慢できていたことがだんだん許容できなくなってきたのがこの組織の持つ目的・目標です

昨年企業という組織から離れ個人として生きることを決めた意味を、遅まきながら年明け最初の投稿で改めて語りたいと思います

日本人の本質を表す言葉の一つに「本音と建前」というのがあります
本音とは「自身の欲」、建前は言ってみれば「社会性」と考えれば良いでしょう

少なくとも私が若い頃までは、「本音は我儘な我欲」なので隠すのが当然で晒すのは恥、「建前はプライドで生き様」と解釈して意地でも建前を押し通すという先輩方が大勢いましたし、当然私もそういう先輩方の生き方はカッコいいと思っていました

ですが今の世の中、「本音は本心で自分の欲求」なのであるのが当たり前、「建前は社会で本音をカモフラージュするための方便」と解釈する方が多いようです

少なくとも私が見知っている人々は、本音(欲)がいつも見え隠れしています
つまりそれだけ建前よりも本音で生きているのです

例えば昨今の政治状況にも言えることですが、一見社会の発展や社会正義だと思わせるようにも感じますが、そこには必ず自分の欲求と一致していることが前提条件のように感じます
そして社会の発展よりも自己の欲求が一致しない場合は自己欲求を優先しているという矛盾が垣間見えており、本音は隠しようもありません

まぁこれが特別力もない一般の個人ならいざしらず、それが社会的な力を持つ個人や組織とか、社会全体がこのような風潮だと、道徳や信義という言葉は限りなく希薄化されて人心は当然荒れますよね

こんな建前よりも本音を重視する価値観は、村社会であった日本には元々あったわけではなく、当然ながら個人主義の欧米からもたらされたと思います

発端は戦後のGHQの政策だったように思いますが、目に見えて変化したのはオイルショック以降でしょうか

ただそんな価値観の変化そのものが直接人心を荒れさせる原因となったわけではありません

洋の東西を問わず、権利には義務がつきものです
つまり、より大きな権利(権益)には当然大きな義務も課せられるのです

しかし、前述の価値観の変化に日本の制度や教育はついていけませんでした

元々日本には厳密な意味での階級制度はありませんでした
明治では、一部の公家と一部の下級武士により政治が行われてきたことによって、華族や貴族という特権階級は生まれました

しかし彼らは権益を独占はしたものの元々が地侍であり、権利には義務が伴うという大名ならば理解できた理屈を理解できなかったためか、それを階級制度として社会に浸透させることはしませんでした

では元々日本にこんな福祉的な概念はなかったのか?というと、厳格な階級制度に基づくものはありませんでしたが、前述したように武家社会を中心に「徳」とか「礼」とかという言葉で表されるような教育がありました

武家以外でも例えば近江商人は「売り手よし、買い手よし、世間よし」という、いわゆる三方よしの精神で暴利を貪ることを戒めました

また、仏教に「布施」の教えがありますし、経営の神様である松下幸之助は「企業は社会の公器たれ」と言い、「社会の足らざるところを補い、これを潤沢に作りだすことで、世の貧困を失わせるものでなければならない」と言っています
私が若い頃に見聞きした「建前」はこれらを補完する価値観だったのかもしれません

一方、王族・貴族・市民・農奴などの階級制度が厳格になされてきた欧米には、ノブレスオブリージュという概念があります

これは、 身分の高い者はそれに応じて社会的に果たすべき責任と義務が重いという道徳感で、実は身分制度の正当性を担保するある種の言い訳だとも考えられるのですが、ただ実際欧米ではこの考え方に基づいて、大学の講堂や学舎を建てたり貧困層への炊き出しなど富裕者が率先して行っていますし、イギリスでは王族が率先して戦争従軍して困難に向かい責任感を示すという建前文化が息づいています

つまり、欧米では富める者はその一部を富まざる者へ分配することがボランティアである一方、日本では庶民の相互扶助がボランティアでありそこに富める者は存在しないのです

それが証拠に、CAF World Giving Index 2021によると資産100万ドル(1.1億円)以上を持つ人がアメリカに次いで日本が世界で2番目に多いにも関わらず、寄付額のGDP比はアメリカが1.55%、イギリスが0.47%に対し、日本は0.23%にとどまっており、寄付額・ボランティア参加・支援活動の3つの項目から測った日本の社会貢献指数は114カ国中最下位だったそうです

ややざっくりとした話になりましたが、要するに今の日本の企業や経営者には、富める者として社会に対する責任感や義務感、心意気を感じられずただ権利権益を享受するのみだと思うのです

もちろん今でもCSR(Corporate Social Responsibility)という言葉はありますし企業もアピールしていますが、具体的な実績は殆ど無くせいぜい自社の従業員や所在地の地域に対するものぐらいで、しかもコストも掛からないものばかりです

一部は美術館や博物館なども作られていますが、これはあからさまに企業イメージを良くしようという下心しか見えてきません

もっともこんなことを論じる私も、現役の頃は生活もあり家族を養う責任もあり、昔から違和感はあったもののそこまで忌避感を感じることはありませんでしたし、「そんな事するならもっと従業員に還元しろよ」という側でした

しかし、定年を過ぎて嘱託社員になり、改めて企業の「あまりにもあからさまな自己利益の追求」にしか目が向かないことに幻滅し、自分の勤め先を含めて今まで当たり前に感じていた企業として一般的な考え方が、品性下劣に思えてしまったということです

なので昨年から自分の道徳観と倫理観を遵守するため、フリーのキャリアコンサルタント&産業カウンセラーという立場で活動しています

そこで、皆さんへの提案です

前述のように強者や組織の本音が前面に立つ社会において、一個人が抱く義理や人情、倫理感を相手に要求しても無駄なことです
かつての建前が重要とされていた時代とは違い、個人が持つ道徳観や倫理観は限りなく希薄になっています

あなたが抱く義理や人情、倫理感はあくまでも自分自身の観念や価値観であり、他者と共有できるものではない、と強く認識することです

その上で会社であれグループであれ自身の持つ価値観とできるだけ共感できる団体を選ぶことはもちろん、合わないと思ったら所属から離れることを躊躇わないことです

「紹介してもらった恩義が」とか、「せっかく勤めているのだから」などという倫理感情は、相手に響かないと脇におき、まずは自分の生活と心の平穏を守るように動くべきです

現実的な行動としては、

  • 自分にとって宜しく無い業務内容や職場環境を洗い出し、何が問題なのかを抽出する

  • 問題解決、改善案を自分なりに検討し案としてまとめる

  • 検討案が会社にとってもメリットが有るように肉付けする

  • 許されれば素案を誰かに相談してブラッシュアップし企画まで昇華する

  • 企画に基づき業務環境や業務改善を進言する

  • 上記に並行して、計画的に有給休暇を取って転職準備や起業準備を行う

と、これくらいして丁度よいと思ってもらえれば、実際に離職や転職しなくても心理的には対等になれると思います

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