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再び東京へ一人旅してきた話

 東京天王洲にあるWHATというミュージアムで、古代から現代までの木構造に関する展示会があるというので、行ってきた。

 この展示会をどうしても観覧したい、という理由より、「漂泊の思いやまず」という気持ちのほうがなぜか強い。たいした理由もなく旅をしたくなるのはなんでだろう。日常から逃げ出すためかもしれない。気恥ずかしいが、自分を見つめ直すためかもしれない。
 というか、一人旅だと、どうしても自分を見つめ直すことになる。誰とも喋らないから、心の中に生じる様々な妄想の相手を自分でしなければならない。

 今回は飛行機を選択した。広島空港を朝七時半に出発するANA便である。東広島市(西条)からクルマで三十分ほどで空港に着く。アクセスは広島市内よりずいぶん楽である。
 お盆休暇の初日でもあるせいか、空港はたいへん混雑していた。でも外国人観光客は新幹線ほど多くない。
 座席はF。両隣が女性で緊張する。右の若い女性のサラサラの長い髪が、ときおり私の半袖の腕に触れるのがこそばゆい。
 全席の正面にタブレットが設置してある。最後に飛行機に乗ったのは五年くらい前だが、その時にはこんなものはなかった。操作方法がどこにも書いてない。とりあえずタッチしてみればよかったのかもしれないが、別に『クレヨンしんちゃん』を観たいわけでもなかったし、操作を間違えてあわあわするのを見られたら恥ずかしいし、放っておくことにした。触らぬタブレットに祟りなし。

 そうこうしているうちに羽田に到着。都心部に出るためいつもなら京急に乗るところ、展覧会場が天王洲なのでモノレールの切符売場に向かう。時間にかなり余裕があるので、途中でどこかカフェとか入ってもいいかな、などと思いつつ。
 路線案内アプリを参照しながら、ホームで待つこと数分。すぐにやってきた来たモノレールに乗車。モノレールには高架の軌道が海の上を走るような個所がちょっとだけある。見晴らしもよい。
 最近買ったワイヤレスイヤホンでご機嫌な曲を聴いていたら、いつの間にか天王洲アイル駅をすっとばして浜松町駅に着いた。空港快速だったのだ。アプリの指示より1本早いモノレールに乗ってしまったらしい。
 降車ホームから出口へ向かう乗客の群からすうっと離れ、素知らぬ顔で乗車ホームへ向かう。うむ完璧にごまかすことができた。

 天王洲アイル駅に着いたとき、十時を少し回っていた。展覧会の入場予約時間の十一時にはまだ少し時間がある。だが、田舎者でも気軽に入れそうなカフェどころかコンビニさえも見当たらない。すでに日は高く、じっとしていても汗が出る。
 歩いて行くと、会場の建物手前に樹木が生い茂った公園があり、木陰に何台かベンチが置いてある。二人の女性が座って話に花を咲かせている。居心地が良さそうだ。
 私も、お二人の邪魔をしないよう、端に近いベンチに腰掛け、ペットボトルの水を一口飲んだ。時間が来るまで聞こえてくる話に耳をそばだてていてもよいのだが、まあそれはさすがに失礼だと思い、カバンから文庫本を取り出した。女性たちの話は否応なく聞こえてくるのだけど。
 公園は高いビルに取り囲まれていて、いわゆるビル風のせいかけっこう風が吹き抜けていく。木陰にいるので日差しも気にならない。都会の中のオアシス、といったら大げさだけど、都市化が進めば進むほどこういう空間の重要性は増してくると思う。

 時間になったので意気揚々と会場へ向かった。
 入り口周りには誰もいない。まあどちらかと言えばマニアックな展覧会だからそれはしょうがない。自動ドアを入るとカウンターがあり、そこにいた受付の女性に入場のQRコードを見せた。が、なんだか様子が変だ。
「建築構造の展覧会に来たんですけど」と、恐る恐る告げてみた。そしたらなんと、
「こちらはミュージアムショップですよ」という返事。
「えっ」
「…」
「…(汗)」
「…あのね。ここから向こうへ歩いて行って、小さい横断歩道を渡ったら会場の建物がありますから」
 お礼を言って逃げるようにショップを出た。
 意気揚々する前にちゃんともう一度確認すべきだった。大きなポスターが掲示されていたから、てっきりここだとばかり。思い込みの激しさは昔からだ。ちょっとボケ老人あつかいだったのが悔しかった。

 「小さい横断歩道」と教えてもらったにもかかわらず「大きな横断歩道」を渡ったりして(まさにボケ老人だ)、少しだけ迷いながらもやっと会場入り口にたどりついた。何人も案内係がいて、入場客も列をなしている。こんなマニアックな展示なのに。さすが東京。
 受付カウンターで黄色いネックストラップを渡され、お目当ての『感覚する構造 – 法隆寺から宇宙まで –』の展示より先に「建築倉庫」に行けという。たくさんの建築模型を見学できるようにしてある施設だ。

 「建築倉庫」は建物の六階にある。係員に伴われて上がってみると、本当に倉庫である。ずらりと並んだスチール棚に様々な建築模型がたくさん収納してあるが、保存のためらしく室内は暗い。人の目線に近い棚の模型にだけ照明が当たっていて、つぶさに観察できるようにしてある。ただし足下には白線が引いてあり、それを踏み越えて近づくと係員が飛んでくるシステムだ。言うまでもなく撮影禁止である。

 印象に残った展示は二つある。
 一つ目は、隈研吾による富岡倉庫3号倉庫。木造平屋建ての倉庫の骨組を残しつつ、要所に建てた鉄骨柱とカーボンファイバーによって耐震補強をしている。木造の柱や梁をなるべく傷つけず元のまま活かすには、鉄骨の骨組を挿入する形がよい。が、そうすると、この建物は天井がないので、木造の梁と無骨な鉄骨の梁が並んでしまう。その問題を、鉄骨梁の代わりにカーボンファイバーを使用することで解決しているのだ。
 もう一つ目にとまったのは、模型そのものではなく、それをすっぽり覆っている透明な半球型のドームである。そこに、春秋分・夏至・冬至の太陽の軌道が描かれていて、窓の大きさや位置、軒の出の寸法がチェックできるようになっている。もちろんコンピューターでも簡単にシミュレーションできるわけだが、画面上ではなく立体的な模型の上でそれを確認するのは、快適性を実感する意味でもよいことなのではないかと思った。
 建築模型の精度は(もちろん縮尺も)様々である。単なるボリュームスタディのようなものもあれば、プレゼン用に家具や人物まで作り込んだものもある。周辺の町並みを白いスチレンボードで再現したものや、部屋の内部だけを表現したものもあった。

 「建築倉庫」の見学を終えて1階の受付まで戻り、ネックストラップを返却して、いよいよ『感覚する構造 – 法隆寺から宇宙まで –』の会場へ。夏休みなので親子連れが多い。この子らのうちの何人かでも建築の道へ進んでくれると嬉しい。
 まず出迎えてくれるのが法隆寺五重塔の1/10構造模型。高さが3m以上ある。すごい迫力。スマホでアプリをダウンロードすると、アンガールズ田中卓志の声で、塔の耐震構造の解説が流れる。イヤホンを持参しておいてよかった。ちなみに、東大寺大仏殿の構造模型では、「挿肘木」の解説が流れる。
 面白かったのは、厳島神社大鳥居の柱断面やその他の木造建築の柱の断面を、同じ平面に重ねて表示してあるパネル。さてここで問題です。法隆寺五重塔の心柱の断面と厳島神社大鳥居の柱断面はどちらが太いでしょうか(答えは自分で調べてね)。
 投入堂(三徳山三佛寺奥院 )や、松本城天守、白川郷合掌造り民家(旧田島家)の構造模型など、歴史的な建物は個人的に大好物なので、けっこう長い時間をかけて観察した。

 最近のものでは、旧峯山海軍航空基地格納庫(アーチ型木造トラス構造)と、熊本県のエバーフィールド木材加工場、それから三分一博志の手がけた The Naoshima Plan 「住」(平間柱貫工法)、小豆島 The GATE LOUNGEに興味を惹かれた。
 近年では木材に細工をして接合する、いわゆる「木組み」が好まれず、特に大架構の場合など、鋼材で製作したジョイントを使うことが多いが、上記に挙げた建物は特別なジョイントを用いず、古来の木組みや一般的なボルト接合でユニークな架構を組んでいる。

 木造以外で面白かったのが「膜テンセグリティ」という構造。
 膜の面の中にところどころ棒状の部材を置くことで、うまくやれば空間を覆うことができる。折り紙に似ている。じっさい、立体形状を平面展開する際に用いる手法は、まったく折り紙そのものである。
 最後の展示室では、月面に建てるベースキャンプの考案も展示されていて、最先端では宇宙への挑戦も既に始まってるんだなあと感心した。折り畳んだ形からモジュールを展開して、空間を覆う構造を構成していく様子が動画で表現されていた。同じパターンの動きを自動的に繰り返して架構を展開していく様子を見て、少ない労力でどのように作るか(施工性)が、月面基地建設の一番の課題だということがよくわかった。

 出口でスマホを見たら、気づかぬうちに正午を過ぎていた。屋外に出ると熱波が襲ってくる。さて次はどこへ行こうか。帰りの飛行機まで、時間はまだたっぷりある。
 とりあえず品川駅まで行くことにして、京急の新馬場駅まで歩くことに決めた。どこか途中で腹ごしらえできそうな店があればそこで昼食だ。
 しかし歩いても歩いてもランチメニューの店がない。後で知ったのだが、北馬場参道通り沿いには多少店があったようだ。大通り(国道375号)を歩いたのが間違いだった。
 一五分ぐらい歩いて大汗をかきながら新馬場駅に着いた。階段を上って切符を買い、ホームへ出てベンチに座って一息ついた。熱中症になったらいけないのでペットボトルの水を飲む。

 やってきた電車に乗り、3分ほどで品川駅へ。
 電車を降りたとき、やはり旧岩崎邸に行きたいと思った。こんどまたいつ東京へ来られるかわからない。調べたら、JR京浜東北線で御徒町駅まで行けばいいらしい。
 品川駅で京急からJRへ乗り換えるのは、初めての田舎者には至難の業だと思う。迷う人が多いらしく、乗り換え口には「ここは出口ではありません」という掲示がでかでかと何個所も。ちなみに私も以前駅から出られなくなって、駅員に苦笑いされながらゲートを開けてもらったことがある。いわば経験済みなので今回は迷うことなく「切符売場」と表示のある窓口に向かい、そこで京急の切符を渡し、御徒町までの切符を買った。

 列車はあまり混んでおらず、東京駅でも乗り込む人は少なかった。土曜日だからか、はたまた京浜東北線だからか。それにしても腹が減った。
 御徒町駅から旧岩崎邸までは徒歩十分ほど。駅前には居酒屋が建ち並んでいる。「御徒」とは江戸時代の下級武士のことなので、ここらあたりは安酒を飲ませる店が昔からあったのかも知れない。天神下交差点あたりからの上り坂がなかなかキツい。汗だくになってサービスセンター(チケット売場)にたどり着いた。
「大人一枚」と売場の眼鏡をかけたおじさんに声をかけたら、
「四百円です」と言ったあと、私の顔を見て「六五歳以上でしたら二百円ですが」と付け加えた。
「じゃあ二百円で」と、百円硬貨を二枚置いたら、
「生まれは昭和何年か教えていただけますか」と疑り深そうな目で見る。やましいところはないので正直に答えた。

 実は旧岩崎邸には以前にも来たことがある。二〇一六年の夏だったと思う。そのときは別用があって、そのついでに寄ったのであまり時間がなかったように記憶している。
 アプローチの緩くて長い坂を上って前庭に出る。そこで左を向くと英国風の偉容を誇る洋館がそびえている。設計はお雇い外国人のジョサイア・コンドル。施主は、岩崎弥太郎から数えて三代目の岩崎久彌である。敷地には、もともと大名屋敷があった。建築は明治二九年(一八九六年)。ちょうど日本経済は成長期(企業勃興期)を迎えていた時期である。
 正面玄関で渡される袋に脱いだ靴を入れ、それをぶら下げて中に入る。順路には赤い毛氈が敷かれている。館内の写真撮影は不可。他にも見物客がちらほらいる。なぜかアベックが数組。
 玄関ホールは木材彫刻によるアーチが連続した意匠になっている。天井が高く、彫刻はいずれも繊細。1階の見どころは婦人客室天井の刺繍布張りだ。サンルームの開放感も気持ちがよい。
 2階に上がると集会室の南にあるベランダに出られるようになっている。気候の良い季節には、ここに椅子などを持ち出してくつろいだのかも知れない。2階客室の金唐革紙は、おそらく修復されたものだろうが、とても状態が良い。呉市にある旧呉鎮守府司令長官官舎の金唐革紙とよく似ている気がする。
 再び1階へ降りて、和館へ向かう。渡り廊下の左右の柱を繋ぐ虹梁が凝っている。中央部分に、岩崎家の家紋「三階菱」に擬えたような意匠を加工している。材の使い方としては非常に贅沢だ。それだけでなく、和館は本当に贅を尽くしている。部材のひとつひとつに、現在では手に入れにくい木材が使われている(とパンフレットに書いてある)。
 床の間の障壁画や襖絵などのほとんどを手がけたのが、当時、日本画の大家であった橋本雅邦。大工棟梁は大河喜十郎だと言われているが、おそらく雅邦が全体のコンセプトを描いたのではないだろうか。そんな気がしてならない。
 和館の建坪は完成当時五五〇坪もあったという。現在ではその一部だけが残されているだけだが、もしかるすと文化財的な価値はコンドルの洋館よりもあったのではないかという声もあるそうだ。もしそうなら、すでに壊されてしまった部分が残念でならない。

 和館の座敷の一部(次之間と三之間)が茶席(カフェ)になっている。考えてみれば昼食を食べていない。これ幸いとアイスコーヒーとチーズケーキを注文した。八百五十円。係の女性がとてもにこやかで気持ちのよい応対であった。売店も併設していたので、何か記念に買えばよかったかなあと、いまちょっと後悔している。
 座敷のテーブルに座った。冷房はなく扇風機だけだったが、開け放たれた建具の向こうから、中庭の木陰を通った風が吹いてきて、これもまた気持ちがよい。
 しばらく休憩した後、広間の出口から庭園に出た。いきなり太陽光線の直射を浴びる。暑い。
 庭園から見る洋館は、北側(主玄関側)の偉容とは違って、コロニアル風だ。一階と二階のベランダの列柱が、厳格でありながら開放的な雰囲気。
 左に頭を巡らすと、洋館に連続して和館が建っている。だが接続部の手前に大木が植わっているので違和感はない。和館の周りには濡れ縁があって、軒庇の出は九尺(約二メートル七〇センチ)ほどもありそうだ。必然的に軒高(屋根を支える桁材の地面からの高さ)も高くなっており、桁から下はなんとなく寺院建築のような感じをまとっている。

 庭から建物全体を眺めた後、撞球室に立ち寄る。山小屋風の意匠。破風板の下端に波打つような加工がしてあるのがお洒落。ベランダの床タイルの色むらが素敵。広島の知られざる建築家に今中敏幸という人がいるのだけど、ちょっとその人の作風を彷彿とさせる。
 庭園はほとんど芝生なので木陰がなく、暑くて長くいられない。撞球室から洋館の東側を回り、再び主玄関の前庭に出た。そしたら、浴衣姿の若い女性が数人たむろしているのが見えた。色とりどりで華やかだ。年かさの黒い浴衣の人が皆を集めている。後ろで撮影機材を担いだ男性が位置取りをしている。何かの撮影会かイベントだろうか。なんにせよ、若さにはそれだけで社会的アドバンテージがある。それを決して忘れてほしくない、と、彼女たちを眩しそうな目で見つめるおっさんであった。

 隣の建築資料館は国の施設である。旧岩崎邸とは地続きで、通用門からそのまま入れるようになっている。もしかすると元は旧岩崎邸の和館がこちらに延長していたのかもしれない。
 人気のない一階ロビーにそっと入った。無料らしい。全然知らなかったのだが、建築家・堀口捨己の業績をまとめた特別展示が行われていた。ラッキーである。
 展示会場である二階へ上がると正面に、茶室おこし絵図を原寸大に引き延ばして立体に組み立てた展示物があった。中に入れる。そういえば私も茶室おこし絵図が掲載された本を持っている。原寸大は無理でも、それを使って茶室の模型を作成することはできるかもしれない。帰ったらトライしてみよう。帰るまで覚えていられたら、だが。
 展示室の中は暗かった。図面など紙の資料の劣化を防ぐためであると思われる。
 資料を順に眺めていく中で、紫烟荘という名の建物が目にとまった。一九二六年建築。堀口捨己はモダニズムの人だと思っていたけど、なんと一部に茅葺き屋根を採用している。後で調べたらかなり有名な建築であることがわかった。火事に遭って現存はしていない。堀口は茶室の研究もした人で、若いころから「非都市的」な傾向があったという。
 残されたドローイング(図面)をひとつひとつ見ていく中で、なんとなく懐かしさを感じていた。CADなど影も形もない時代である。美濃紙やトレーシングペーパーに、鉛筆で線を一本一本引くのである。鉛筆がちびる都度に芯を削り、サンドペパーで尖らせる。昔の消しゴムはあまり良くなかったから紙を傷めることがあった。ステッドラーの消しゴムを初めて使ったときは胸が震えた。
 でも、懐かしさの理由は、そういった道具や用具から来るものばかりではなかった。父の引いた図面に雰囲気がずいぶん似ていたのである。私の父は一九二七年生まれだから、堀口からは一世代若い。父は独学で設計を学んだ。そのとき参考書か何かで堀口の図面を見て勉強したのかもしれない。

 その後、旧岩崎邸の裏手にある三菱の史料館に行こうと思った。チケット売場まで戻って道路に出て左に少し歩き、また左に折れて無縁坂を上る。前にも来たことがある。ここを通るのはたぶん三度目くらいである。「母がまだ、若いころ…」と、つい鼻歌が出るのも三度目である。
 私の少し前を若い男女がイチャイチャしながら歩いている。二人ともやたらヒラヒラしたものを着ている。私は寛大なので口には出さないが、昨今の若者の風俗はどうしたものかと日頃ひそかに胸を痛めている。胸を痛めながらも彼らをしっかり観察しながら歩いていたら、彼らは東大の鉄門をひらひらと入っていった。あんなのが東大生なのだろうか。しかも医学部!? 
 そこで初めて道を間違えたことに気がついた。鉄門まで行ってはいけなかった。ヒラヒラに惑わされた。慌てて(でもいいかげんくたびれていたので、傍目には落ち着いて見えたに違いない)三菱史料館の前まで戻った。そしたら土曜は休館日だった。行き当たりばったりだと、こういうことがあるからよくない。よく調べろよ! と自分に怒る。

 暑いのにせっかくだからとまた少し歩いて湯島天神と不忍の池を見物した。国外からの旅行者が本当にたくさんいた。野外ステージで賑やかな音楽が鳴り響いていた。寺田寅彦は確かこのあたりで関東大地震に遭ったのだった。上野精養軒にも行ってみたいところだが、そろそろ空港へ向かわなくては。
 東京メトロ千代田線の湯島駅を見つけたので地下へ下りてみた。路線案内アプリで検索したところ、そこから羽田へ行くにはルート的にかなりめんどくさい。ペットボトルの水を一口飲んで、また階段を上って地上へ出た。くたびれた自分とめんどくさがりの自分が脳内で喧嘩してめんどくさがりが勝ち、やはり御徒町駅まで戻るのがよかろうということになった。駅に行く通りにずらり並ぶ居酒屋の看板がなんとも暑苦しい。

 べつに山手線でもよかったのだが、来たときと同じ京浜東北線に乗車。意外と込んでいた。進行方向に向かって左側の扉付近に立って外を眺める。汗があとからあとから噴き出してくる。タオルで何度も顔や首筋を拭いた。
 東京駅を過ぎたあたりで乗客が少なくなったので、身体の向きを車内側に変えた。そうしたら、向かいの扉の脇に立っている美人さんの横顔が目に飛び込んできた。
 くっきりとした二重で大きな目は少し垂れ気味。鼻梁は細いがしっかり自分を主張している。口は大きからず小さからず。唇は薄めで顎はほっそりしている。髪は肩の下まであり、少しウェーブがかかっている。年の頃なら二十代後半から三十歳過ぎか。肌はどちらかと言えば浅黒い。チャコールグレーのふわっとしたワンピースを着ている。なによりすっとした立ち姿がよい。
 …と、そこまで観察するのに要した時間は1秒に満たなかったはずだが、彼女の黒目が動く刹那を感じ、私はすぐに視線をそらした。じっと見つめているのがわかってしまってはいけない。「キモい」とか思われたくない。
 しばらくよそ見をした後おそるおそる視線を戻したら、彼女の視線がこちらから窓の外へ動くところが見えた。まずい、さっき見ていたのがバレている可能性が高い。もう見ることはできない。しかし悲しいかな男の性質というのは、気に入った美人さんの方にどうしても視線が向くようにできている。結局何度かチラ見をしてしまったが、彼女はこちらに端正な横顔を見せたまま、電車の揺れに身をまかせていた。
 私がもっと若く背が高くてイケメンで独身だったら。いや、せめて芸能プロダクションのスカウトとか。著名な写真家か画家だったら、「ちょっとよろしいですかお嬢さん。モデルに興味あったりしますか?」なーんて声をかけるのになあ。大久保清か。
 しかしそもそも美人の定義は人それぞれであろうと思う。だからもし私が、いまそこに立っている彼女を皆さんの目の前に連れてきても、半数近くの人は「えーっ」とブーイングするのかもしれない。だが「蓼食う虫も好きずき」と謂うではないか。むろん広瀬すずや新垣結衣や浜辺美波クラスになると話は別だが。それに、つんとすましているときは美人だが泣いたり笑ったりした表情が駄目という例もままある。本当の美人は泣き顔も笑顔も素敵なはずである。また、「美人は三日見れば飽きる、ブスは三日見れば慣れる」ともいう。容貌というのは年と共に変わっていく。いま電車に揺られながら窓の外の景色を眺めている美人さんも、いずれはしわくちゃの婆さんになる。祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。少年老い易く学成り難し。命みじかし、恋せよ乙女。
 やがて列車は浜松町駅に着いた。美人さんが降りる。私はぽかんと口をあけたまま、その背中を見送る。後ろ姿なので遠慮なく視線を送っていたら、彼女が肩越しにくるりと振り向いた。あわわ!

 品川駅で京急に乗り換える。JRの切符を握りしめて京急の切符売場に行くと長い列ができていた。モバイルのICカードでうまく乗り換えできない人がいるらしい。窓口での確認に時間がかかっているようだ。私が紙の切符にこだわる理由はまさにこれだ。乗り継ぎなど時間に追われているとき通信障害やバグに見舞われたら大変だからである。
 羽田空港に到着。今回はお土産は勘弁してもらうことにした。なにしろ昼間はチーズケーキしかお腹に入れていないので、早めの夕食をフードコートのチャイナタウンデリで摂った。海鮮焼きそばが美味しかった。
 すぐに手荷物検査を済ませ、北ピアの57番搭乗口の待合ロビーまで歩き、売店で飲み物を買い込んでベンチにどっかりと座り、オレンジジュースと水をしこたま飲んだ。電車の中であれだけ汗が出たのは、熱中症寸前だったからかもしれない。あの美人さんも熱中症が見せた幻影だったのかも。 
 ヘルスアプリで今日一日の歩数を確認したら、なんと一万七千歩だった。普段の八倍だ。LINEで妻にそのことを知らせたら、「そりゃ筋肉痛が心配だねぇ」と、嘲るような顔マークとともに返信があった。

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