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「しつけ」という名の「強者の卑劣」

しつけを騙って、親が子どもを死なせる事件があった。

どの事件と言う必要もない。何度も何度も同じことが起こるから。

その母親が持つ背景を僕が知るべくもなく、痛ましい死に至る前にこの母親がまず救われるべきだったということもあり得るんだろうと思う。


ただ、ここでも使われている「しつけ」という言葉の存在そのものが、はるか昔からこういう痛ましい事件が無限に起こり続けるのを助長してきたのではないか?という問いを、誰か否定できるだろうか。

僕は「しつけ」という言葉から、妥当性や正当性がはく奪されるべきだと思っている。「しつけ」なるものは非道徳的なものとして、社会から葬られるべき言葉、概念だと思ってる。

「しつけ」は、高い塀や薄暗い繁み、街路灯のない夜道のように、自己中心的な欺瞞の格好な隠れ場所になる。

「しつけ」なければ人も動物も育てられないというならば、すでにそこに欺瞞や逃げ、理解やコミュニケーションの怠慢が入り込んでいると思った方がいい。

ちゃんと相手に向き合い、見つめ、理解することが出来ない人ほど、そして自分の価値観の根拠を実はよく考えたこともない人ほど、しつけを振りかざす。立場の強さにあかせて一方的に振り下ろせる「しつけ」という鉄槌のほかに、相手の行動を変える方法を持っていないから。


しつけとは、宿命的に一方通行だ。
しつけとは、問答無用、お前の言い分は聞かないということだ。
しつけとは、ディスコミュニケーションの別名だ。
しつけとは、相手を制圧し支配するということだ。

しつけは、強者から弱者へしか通用しない。
しつけは、それゆえ絶対的な序列、立場の優劣の落差を前提にしている。卑怯だ。
しつけは、しばしば自分の正当性さえきちんと説明できない人間の隠れ蓑になる。
しつけは、弱者に対する暴力を特例として正当化する効力がある。強者が弱者にふるう暴力を正当化する根拠など、あってたまるか。


もし本当にその子のためを思って、その子の行動を変えたいなら。本当にその意思が、その子への愛にもとづいたものであるなら。


心を込めて、一生懸命、

教える。伝える。


それで十分なはずだ。


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