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Etude (26)「高みを目指してー禅は善か」

[執筆日: 令和3年4月6日]

「ある学者は、宗教とは楕円形に似ていると言った。なんとなれば、楕円形はその中に2つの中心点をもっているが、宗教にもいつも2つの中心があるからである。キリスト教風にいえば、神と人間とがそれである。仏教の術語をもっていえば、法と機とがそれである。その2つの中心のうち、いずれかに重きをおいて考えるかは、人それぞれの考え方であって、それがその人の宗教観を定める。」
増谷文雄(水野弥穂子訳「正法眼蔵随聞記」の「解説 道元・その人と思想」から
(注)法は仏法のこと、機とは人間のこと。この2つの中心点があるという考え方は、分別から、論理から生まれた考え方とも言えましょう。

 エチュードというのは、試作という意味もありますが、研究というとやや高尚的で、杢兵衛が求めるものとは少し違うのですが、それでも学ぶというのは、考えたことを現実において検証することがないと、単なる絵に描いた餅でしかありません。学ぶことは、それまでの自分が変わるという意味において、意義があるとも言えます。しかし、検証という科学的な実験が出来る領域のこともあれば、できなさそうな領域もあります。特に、目に見えない領域のことは、検証し難たく、真理に到達するには、経験となりうる体験が必要なわけで、その経験を言語化する作業を通じて、初めて、エチュードになるということなのでしょう。

 山の頂きに到達するには、可能であれば最短ルートを進めばいいのでしょうが、急勾配があったり、途中に踏破できそうもない難所があったりと、素人がその最短ルートを選択するのは無謀である訳です。ゴルフもしかりで、最短ルートを選択して、痛い目を見ることはしばしばあります。幸いにして、登山もそうですし、ゴルフも、また、ある人の思想を理解するためのルートは、その人(主体)のレベルにあったルートが必ずあるはずで、距離が長くなり、時間も多くかかるけれども、いつかは目的地に、目標とした地点に到達することが出来るような気がします。

 とてつもなく大きな思想的な山である鈴木大拙の「禅の思想」を読み解くことの困難さに往生しているわけですが、その困難さの根源的な問題に、宗教的体験、或いは、禅に限れば座禅という体験の無さがあります。西田幾多郎の「善の研究」は、この座禅体験がベースとあった思想書とも言われます。西田幾多郎と鈴木大拙は、禅を仲介として共鳴し合い、それぞれがそれぞれの高みを目指した、一種の共存的依存関係とも言えます。思うに、西田幾多郎が悲しみから禅的なものを背景にして哲学を考え、大拙は大拙で、世の中の不平等、矛盾から禅思想を考えるようになったことは、彼等が求めた禅というのは善ではなかったのかということであります。禅=善でありますが、言葉自体を否定した禅を他者に伝えるために、一旦否定した言語を肯定して、そこから彼等の思想が新たな展開を見せるわけであります。禅は、目の前のものを肯定し、次に否定し、そして最後に肯定するというプロセスを経るもののようですが、禅の思想は宇宙的な巨大なものであって、どうしても、禅一般についての知識を持たないと、彼の思想の本丸には近づけないでしょう。

 幸いにして、鎌田茂雄「禅とは何か」(講談社学術文庫)、枡野俊明「禅が教える人生の答え」(PHP新書)、水上勉「禅とは何か」(中公文庫)、水野弥穂子訳「正法眼蔵随聞記」(ちくま学術文庫)、紀野一義「ある禅者の夜話」(三笠書房)、山田史生「絶望しそうになったら道元を読め」(光文社新書)をこれまで読んだことがありましたので、こうした書を参考にしながら、禅を考えているところであります。先日ご案内した、梅原猛さんの「梅原猛、日本仏教をゆく」で、梅原さんは、日本における禅の思想的流れは、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元を始祖とし、一番隆盛を極めたのは江戸時代であるとして、沢庵(和尚)、白隠、良寛がその代表的禅者であるとしています。また、日本文化を世界に伝播した功績者は、小泉八雲、岡倉天心であると。大拙の「禅と日本文化」(岩波新書)は英文で書かれた文書の和訳でありますし、この本も外国での日本の理解に貢献したことは間違いないでしょう。
 直接仏につかえるお坊さんの禅に対する姿勢と、そうではない思想家、あるいは研究者の禅の理解に違いは当然あるとは思いますが、鎌田さんの本は、西田幾多郎の禅思想にもかなり深く入り込んだ本で、西田哲学を知る上でも参考になると思います。枡野さんは、現職のお坊さんですから、座禅の事なども含めて、苦しみの多い現世の生き方を諭すような、講話的な本です。紀野さんの本は、以前徒然でも御紹介しましたので、記憶にあるかもしれませんが、道元の「正法眼蔵」は難解至極の95巻の大書ですが、侍者であった懐弉(えじょう)が道元の語った言葉を記した「正法眼蔵随聞記」があり、それを基に、紀野さんが講義で語った内容を本にしたのが「ある禅者の夜話」です。名著と思いますし、大分昔の本(初版は昭和46年)ですが、コロナ禍にあって、生きづらい日々をすごさざるを得ない私たちに、清涼感のある風を届けてくれる本ではないかと思います。苔むすような古びたお寺で、湧き上がる青い畳の香りを感じながら、新緑の庭を前にして座禅をしている時に、ふっと爽やかな風が吹いてくる、そんな体験に似ているような気がします(あくまでも想像です)。
 頂は雲に隠れて姿は見えず、これから先、果たして登山を続けることが出来るのかどうなのかと、思案げに、鮮やかなつづじの花の上で蝶も舞う、世は春よのうと、登山で言えば、3合目あたりで一服休憩している、杢兵衛でございます。
 今日のところは、そんなところで、大拙の思想に近づくための、彼の禅への願いが感じられる言葉をご案内して、失礼致します。

「生命を創造するのは愛である。愛なくしては、生命はおのれを保持することができない。今日の憎悪と恐怖の、汚れた、息のつまるような雰囲気は、慈しみと四海同胞の精神の欠如によってもたらされたものと、自分は確信する、この息苦しさは、人間社会というものが複雑遠大この上ない相互依存の網の目である、という事実の無自覚から起きていることは、言をまたない。」
      鈴木大拙「愛と力」(工藤澄子訳「禅」ちくま文庫 1987年)

(了)

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