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Etude (17)「他人を理解することよりも、自分を理解することが遥かに難しい」

[執筆日 : 令和3年3月25日]

「他人を理解するには、豊かな想像力がいるのに、今の日本には、そんな教育はない」
       イーデス・ハンソン(1988年8月31日朝日新聞「天声人語」)

 
 呉兢の「貞観政要」の続きと申しますか、最後でございます。先に、人物鑑定法なることを書きましたが、側近№1の魏徴が太宗から乱世の後の泰平の時代に、賢人の人材登用をはかる上で、自己推薦制を採用しようと思うが、如何と問われて、答えたのが次の言葉です。

「人を知る者はせいぜい智者の水準であるが、自分を知る者は真に明智の人である、と古人も語っております。人を知ること自体容易なことではありません。まして、自分を知るということは至難の業であります。世間の暗愚な者たちは、とかく自分の能力を鼻にかけ、過大な自己評価に陥っているものです。売り込み競争だけが活発になりましょう。自己推薦制はおやめになった方が賢明かと心得ます」

 なかなか、意味深と申しますか、真実をついた言葉だと思います。外務省においても、ある時期から、公募制を取り出したり、専門官制度を設けたりして、広い意味での自己推薦制による人事政策を採用しておりました。人事評価において、どこかの民間等での人事評価を参考にしたのでしょうが、一定の期間での自らが課した業務計画に対する達成度や、能力向上の有無等を表明させ、それを上の者が評価認定する形のものになりました(少なくとも私の現役時代は)。大学での入学者の一つの枠としても、こうした自己推薦制が取り入れられておりますし、考えようによっては、就職活動自体も自己推薦に基づいたようなものとも言えます。
 しかしながら、差別のない、平等な、つまり民主的なペーパーテスト、そして面接といった技術的な制度は、政治的にはよろしいのでしょうが、果たして、本当に優秀な人材を得るためのものであるかという点で、私的には疑問符がつくのです。ペーパー試験、面接等で候補者の能力は測ることは出来たとしても、人間性という、肝心な部分はよほどの目利きでない限りはできないと思うからであります。つまり、現状に満足している人(評価する人とは、その組織内で認められた人であり、現状の組織が認めただけの人でもあります)が評価する限りにおいて、評価する人の評価に合わない人や、あるいは、評価する人以上に優秀な人は見つからないということであります。また、面接は、自己主張型の人間が得をする傾向がありますし、所謂高い下駄を履いている場合、その下駄が偽物であるかどうか、なかなか分からないものだと思います。日本では昔から謙虚さ、謙遜さというものが尊ばれてきましたので、そういう人は、自己推薦制自体に馴染まない訳です。とすれば、所謂公募制も、自己推薦制も、必ずしも、最適な人材を確保するものではないように思えます。
 能力があって、かつ人格(意志も含めて)にも優れている人を採用するのが一般的でしょうが、両方を兼ね備える人は、そうそういるものではありませんから、どちらを優先するかと言えば、普通は能力でしょう。しかし、魏徴が言うように、能力の劣る人よりも、人格に問題のある悪人を採用する方が、弊害は大きいと述べるように、不祥事を起こしている多くの人には、多分、そうした人格、乃至は性格的破綻があるように思えます。それを見つけるのは、心理学者や精神科医でしょうが、そういう人は面接官にならないでしょう。
 そこで、では、何か上手い、妙案はないかと考えるのですが、房玄齢という人は、太宗を補佐した、名宰相と謂われる人で、大変な親孝行の人であったようです。「貞観政要」を校訂した戈直という人は、これに対して「未だ親に仕えて孝にして、而も君に仕えて不忠なる者あらず。身を修むるを思わば、もって親に仕えざるべからず。いまだ修身まらずしてもって国を治め天下を平らかにすべき者あらず」と評語を付しているそうです。守屋洋さんは、この親孝行に関して、もはや現代では死語になってしまったか感があるが、相手の人物を判断する場合に、親にどんな態度をとったかを知るのも、一つの目安になるのではないか、と述べております。
 ご案内のように、豊臣秀吉は母親に対して親孝行の見本のような人でしたし、人物評価の際に、親とどういう話をして、どんな思い出を持っているかを質問することも、案外妙案の一つではないかと思います。人を知るには、その人が如何なる対人対応をしているかというう面からも分かる事はあるともいます。
 「貞観政要」は為政者、トップに立つ者への指南書的な本ですから、最後に、では、指導的な立場に立つ上で、必要な条件は他に何かあるかと申しますと、守屋洋さんも挙げておりますが、勉強することであります。孤独の時間を持つこととも言えます。ジョゼフ・バージルという人が「人間回復の経営学」という本の中で、指導者に不可欠な条件として、職業的技術力、革新的創造力、そして、学問教養を挙げているようで、それぞれ25%、25%、50%となっています。日本でも、高く評価される政界、経済界、その他の分野において活躍した人は、学問教養度が高かったのではないかと思います。

 令和の時代、コロナ禍という前代未聞のような個々人の自由が制限され、人との接触もままならない時代にあって、今から30年以上も前に、イーデス・ハンソンさんが述べた、他人を理解するための豊かな想像力を身につける教育がその後もなされないままであったとすれば、その後の日本の低迷も分かる気がします。日本の低迷の原因は何も、相互の無理解だけにあるとは言えませんが、日本人同士の理解は元より、他国人との理解は総ての始まりでもありましょうし、政治、経済が上手く回るための基本とも言えます。結局のところ、日本が衰退しているとすれば、その原因は、こうした基礎的な、土台的な部分をないがしろにして、表面だけを繕ってきた、金メッキ的な富の作り方に問題があったと思わざるを得ません。
 詩人の大岡信は以前「つまり日本という国は、せっせと溜めたり吸い上げたりした巨額の富がどこかに隠れちまっているのかまったく分からない変ちくりんの文化国家なんですね」とも述べていますし。
 スマホによってのコミュニケーションで、本当の相互理解が得られるのか、そして深まるのか、そしてスマホなくしては生きていけない若い世代をどのようにして人物評価するのか、解答できない課題ではありますが、知識の差だけでもって、人を評価するのだけは避けた方が良いと、私の直観は申しております。学習の仕方、教育の仕方、働き方が変わるとしたら、どういう意味でそうなるのか、何を一番の価値としてそうなるのかを、しっかりと考えた上での結果としての新たな生活にならないと、相変わらず、相互間の無理解、無関心は相互の不信感となって、コロナウイルスのように、日本社会を次第に次第に、それも音もたてずに、静かに蝕んでいく、そんな気がします。そして、何よりも肝心なことは、我々日本人は同胞である日本人、そして日本のことを正しく理解することは、異国人や異国といった他者を理解するよりも遥かに難しいことを忘れてはならないということであります。読書は、その人生で一番難しい、自己を知るための一助と成り得るものであり、かつ、一冊、一冊には、私の好きな言葉「一匙一杯の幸せ」が隠されているような気がしております。ですから、今日は、アガサ・クリスティの「さあ、あなたの暮らしぶりを話して」とフェルナンド・サバテールの「物語作家の技法」を大枚はたいて購入したのでした。では、今日のところはこれにて、失礼致します。(了)

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