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モンターニュのつぶやき「アマチュアではありますが」 [令和3年5月1日]

[執筆日 : 令和3年5月1日]

「人が自分でできることを、神にたのんだとて、無駄である。哲学しているように見せてはならず、実際に哲学をしなければならない。なぜなら、必要なのは、健康らしい外見ではなく、健康自身だからだ。むなしいのは、人間の苦しみをなおすことのできない哲学者の言葉である。なぜなら身体から病気を追い出すことのできない医学にはなんのとりえもないように、精神の苦しみを追い出すことのない哲学にはなんのとりえもない」        エピクロス(紀元前341-270)(桑原武夫「一日一言」から)

 エピクロスという哲学者は時に、快楽主義者というレッテルを貼られたりもしますが、彼の生き方は、享楽家とは真逆の、禁欲に基づいた快楽の養生法を説いていて、後のパスカルも信奉したジャンセニスムのように、快楽主義とはかけ離れた思想にも見られるようです。エピクロスは、「質素な食事でも、それがもたらす快楽の量は、ぜいたくな食事と同じである」とか、「死はわれわれにとってなんでもない」と述べておりますが、「幸福に生きるためには、不死である必要はない、むしろ不死でありたいという願いを捨てることが必要なのだ、すべては感覚とともに始まり、感覚とともに終わるのだから、生はすべての始まりと終わりなのである、こうした限界のうちに自己をおしとどめ、死のような存在しないものをしりぞけなければならない、未来のようなまだ存在しないものは、われわれの力の及びうる範囲内にはあるが、まだわれわれのもとにないことを理解しなければならない」と説いております。
 また、パスカルは「死はわれわれにまったく関係のないものではなく、死の恐怖はむしろわれわれの存在のあり方を決定づけるものであり、生を営むことは、われわれが死に向かいつつあることを忘れるための戦略にすぎない」と述べております(以上、ロランス・ドヴィレール著・久保田剛史訳「思想家たちの100の名言」(クセジュ文庫)。

 ゴールデン・ウイークともなれば、普段は味わえない、特別の非日常的な快楽を求めて、人は外を出歩くのがコロナ禍前の日本人でありましたが、コロナ禍は、快楽を追い求めることがどうも正しい生き方ではなかったことを自省させる機会にもなっております。エピクロスのように、哲学者が人の精神的苦痛を追い払うことは、これまでの哲学の歴史をつらつら眺めますと、どこか無力感が漂うわけでございます。しかしながら、神でもなく、また、仏陀でもない人間である哲学者が、人を救うことなど、最初から無理でありましょう。むしろ、哲学者の使命は、何故に人が救われないのかを解き明かすことにあるように思います。
 コロナ禍、仕事を持つ身の、仕事を持たざるを得ない身にも、あるいは、頼まれて仕事を持つ身の人にとっては当然に、また仕事をもたない、私のような年金生活者的隠居者にとっても、未経験であったコロナ禍をやり過ごすかは、最終的には、心の問題に帰結するように思うのです。哲学者の言葉とは違いますが、案外、文学者や、役者さんの言葉というのは、心を鼓舞してくれる場合があります。
 金森誠也監修「世界の名言100選 ソクラテスからビル・ゲイツまで」(PHP文庫)にある、お!と思うような言葉も含めて、幾つかご案内します。
「少なくとも一度は人に笑われるようなアイディアでなければ、独創的な発想とは言えない」ビル・ゲイツ
「人生は短いのではない。我々が短くしているのだ」ルキウス・セネカ
「「自分は今幸福だろうか?」と自分の胸に聞いた瞬間、幸福でなくなってしまう」ジョン・スチュアート・ミル
「他人に接して苛つくことの全ては、自分自身の理解に役立つ」カール・ユング
「年寄りになったからって、賢くなるもんじゃありませんよ。用心深くなるだけですな」アーネスト・ヘミングウェイ
「人間には不幸か、貧乏か、勇気が必要だ。さもないとすぐに思いあがる」イワン・ツルゲーネフ
「リーダーシップは水泳に似ている。本から学ぶことはできないのだ」ヘンリー・ミンツバーグ
 と、色々とありますが、私が一番好きな言葉は、チャップリンの「人生で大切なことは、愛と勇気といくらかのお金だ」ですね。働くこともそうですが、身内の人のためであれ、あるいは、広く、匿名的な人々のためであれ、愛する対象があってこそ、働く意味があるのでしょうし、また、誘惑の多い、令和の時代でもありますし、誘惑に打ち勝つための勇気も必要です。ミッシュランの3星付きのレストランで食事をしたり、会員券が数千万円もするゴルフクラブのメンバーになって、一回のラウンドが福沢諭吉が1枚では足りないようなゴルフをすることなどは叶わなくても、三度三度の健康的な食事が出来て、そして、身の丈にあったゴルフ場で楽しくゴルフが出来れば、エピクロスが言うように、得られる快楽には変わりはないと思います(というか、そうだと思いたい)。

 名言を本当に味わうには、名言を語る人のことを深く学ぶことが実は重要なことだと思っておりますが、色々なことに関心が向いて、集中して学べないのが凡人であります。私も凡人であり、何事もアマチュア的ではありますが、今読んでいる名著とされる林達夫(1896-1984、京大卒、思想家・評論家)さんの「思想の運命」(中公文庫、初版は昭和54年)に、「アマチュアの領域」と題するエッセイが収録されておりまして、これは、園芸に関してのエッセイなのですが、私のような道楽的物書きには大変に参考になる言葉がありました。なお、「林達夫評論集」(岩波文庫)も素晴らしいです。
「アマチュアが物を書く場合は、専門家の一般的、抽象的、概括的、平面的なのに対して、殊別的、具体的、個性的、立体的であるのがその特徴にならねばならぬであろう。私の言っているのは、記事の書き方の問題ではあるが、アマチュアは専門家とは違った角度から色々の切実な問題に当面するものだ。(中略)その興味ある経験は、たとい如何に狭く且つ特異なものであるにしても、確かに傾聴に値するものである」
 モンターニュのつぶやきもそうでないといけないことを悟らせてくる至言的な言葉ではないでしょうか。そういえば、昨日のゴルフの練習で、ひとつひらめいたことがありました。それは、スイングの極意は、お腹にあるのではないかということです。上半身と下半身のシンクロナイズされたスイングは勿論ですが、そうしたスイングを生み出すのがお腹ということでありますが、まあ、何のことだか分からないかもしれませんが、ゴルフの上手な人はおしなべてお腹がぽっこり出ているということからの発見であります。このお腹を上手く使って舞うのが極意かなあと。

 今日の最後のつぶやきですが、政治の世界、色々な考えがあるのでしょうが、英国にハロルド・ラスキ(1893-1950)というユダヤ系の政治学者がいたようですが、多元的国家論を唱えた学者で、カナダのマギル大学でも教鞭を取っていた人ですが、理想がなくなってきている令和の時代、政治は理想を追うもの、夢を実現するものでありましょう。

「少数者がきわめて富み、多数者がきわめて貧しいために、人々の心がたえず自分の富、もしくは貧困を考えざるをえないような社会は、じつは戦争状態にある社会である。その戦争が公然と行われているか、もしくはひそかに行われているかは問題にならない。・・・・こうした社会は、その内部におけるさまざまの緊張状態のために安定をうばいさられることとなるから、自由な社会ではありえない。したがって、こうした社会は恐怖にみち、理性をもって事に処する力が保証されるような雰囲気がなくなってしまう。」ラスキ「現代革命の考察」(桑原武夫「一日一言」から)

(了)


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