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Etude (4)「予定として意識することは、本当に起こることではない」

[執筆日 : 令和3年3月12日]

「人は社会のなかで、お金を追い、名誉を求め、権力を得ようとする。それはそれで結構だ。しかし・・・・・たまには人間の自然を考えなさい」
                       養老孟司「考えるヒト」

 人間を知るには、文学が一番であると述べながら、そう言えば哲学もあるなあと。では、東の横綱が文学で、西の横綱は哲学かなと思ったのですが、そもそもそういう学問が生まれるには、言語が不可欠で、では、言語はどうやって生まれたのかと思考を深めて行くと、行き着くのは、そう、脳でした。この人間に特有の脳の構造と機能というものを基本的に知らないで、文学だ、哲学だと知ったかぶりで語るのは、あまりにも僭越なことでした。
 日本の男性、女性を語る前に、人間とは脳であるを学ばないといけないわけですが、脳の事は、名著と言われる時実利彦の「脳の話」「人間であること」を読んで、多少分かったつもりでしたが、でも、やっぱり解らない。どこか解らないのかさえも解らない程度で、そして、養老孟司が、

「われわれの脳は、知覚系と運動系とを、世界像の形成に動員するらしい。ここに哲学の目的論の系譜が生じる」

なんて言うと、もうなんだか。
 というように、脳の学問は、科学というか、哲学というか、高等な数学というか、脳についての本を読むのは脳が疲れる、そんな気がしております。しかし、エチュードですから。
 なお、前もってお断りをすると、養老さんが言うように、脳のかけらもない大腸菌すら人工的に作れない人間の科学力で、130億の細胞を持つ自らの脳を解明するのは、至難のことで、まさに、神の領域の話。そういう難しい領域に足を踏み入れるのは果たして正解なのか、それとも辞めた方がいいのかはわかりませんが、布施英利さんが「養老孟司入門」で、養老孟司さんから言われて記憶に強く残っている言葉は
「自分も将来に、進むことのできる道が2つあって、一方は「先が見える」、そしてもう一方は「先が見えない」。その時は「先が見えない」方を選べ」だったそうです。
なぜわざわざ先の見えない方を選ぶのが良いかと言うと、それは可能性があるからだということです。プラス、マイナスどちらかが起こるか、その両方の可能性がある。しかし、「生きる」とは、そもそもそういうことで、生命はそういう道を歩みながら、進化の歴史を綴ってきたと、布施さんは語っています。どこか、パスカルが神の存在を信じることに賭けたことに通するような、そんな話ですが、私には経験的によく解ります。
 でありますから、自分で解らないこと、知りたいと思ったことを、先はよくは見えないけれども、考えてみるのも決して無駄ではないと思っています。 
 ちなみに、養老孟司さんによれば、私が物を見たり、考えたり、そして今こうして徒然していることが「主観的」なことであると思っていましたが、実は何も主観的ではなくて、むしろ、凡てのヒトが共通に持っている脳という「客観的」な器官を使っているだけのことのようです。
 なお、私が養老孟司さんの本を読みだしたのは、あの400万部も売れたという「ばかの壁」以降で、それ以前の本は後から読んだのですが、専門である解剖学から導き出された脳の研究についての説明では、(1)人間の進化に関連する系統分析、(2)脳の機能と構造に関わる分析、(3)情報の入力と出力から生み出される心・意識・言語の発生の分析、そして(4)脳が構築する社会・現実と脳が忌み嫌う敵対する自然との関係、(5)意識と無意識の分析等がポイントになります。個人的に強く惹かれるひかれるのは、脳と言語の関係、そして意識と無意識の関係がありますが、今日は触り的なお話を。

 養老さんは、冒頭にあるように、たまには「人間の自然」を考えなさいと諭すのですが、人間にとっての自然とはさて、何でしょうか?
 それは、人は必ず死ぬということです。脳という器官は、自分を生かしている主人、つまり私や皆さんですが、いつか必ず死ぬという宿命=自然を極力意識しないように、脳は私たちを「操る」(もしくは騙す)ということです。ですから、彼はこんな風に述べます。
「意識という手帳は、そこに書かれていない予定を無視する。いかに無視しようと、しかし、来るべきものは来る。意識はそれできるだけ「意識しない」ために、意識でないもの、具体的には自然を徹底排除する。・・・日常の世界では、そういうものは「見ない」ことになる。こうして世界はますます「ああすれば、こうなる」ものであるように「見える」ようになる。その世界では、意識がすべてとなり、時間はすべて現在化する。」
「われわれが無意識を持たなければ別だが、もし無意識が真に存在するとすれば、世界が意識万能に近づくほど、無意識の反乱には、より適した世界となるはずである。したがって、すべての都市社会に出現しているように見える、さまざまな病理的な兆候、犯罪の多発、麻薬の蔓延、性や暴力に関わる事件の連続は、無意識の反乱とも見ることができる。もしそうなら、それを促進しているのは、じつはある種の「危機管理」型の思想だということになる。危機管理とは、どこまでいっても意識を優先しようというものだからである。」

「日常的に使われる「ただいま現在」の意味はなにか。それはすなわち「予定された未来」を指すのである。・・・・・それなら未来とはなにか。本来の未来とは、なにが起こるかわからない、「ああすれば、こうなる」で拘束されていない時間である。」
                        「考えるヒト」1996年

 養老さんは、20年以上前に、コロナを予言していたんですかね。そして、コロナ禍対策が上手くいかないことまでも。脳が意識すればするほど、意識を働かせればするほど、つまり、「危機管理」を強くすればするほど、よくない結果が生まれることを。いやあ、凄いヒトです。こういう発見というか、視点を見出したのは、彼が、解剖学という、死体を扱っていたことにあるようですが、だからこそ、こんな言葉を語る訳です。

「死体があるからこそ、ヒトは素朴に、身体と魂の分離を信じたのであろう。これを生物学の文脈で言えば、構造と機能の分離ということになる。」
「社会とは、すなわち脳の産物である」
「個人としてのヒトは死すべきものであり、それを知るものは脳である。だからこそ脳は、統御可能性を集約して社会を作り出す。個人は滅びても、脳化=社会は滅びないですむからである。」
                   「解剖学教室へようこそ」1993年

 文学も哲学も、脳あってのもので、文学は脳が心で構築する世界、哲学は意識で構築する世界とでも申せましょうか。人が如何にして言語を獲得したかについての分析が私的には一番興味深いのですが、今日は簡単に記しておきます。簡単と言ってもそう簡単ではないのですが、要するに、人が外からの情報を入手するのは、一般に、視覚(視覚は瞬間的で、空間の中にある)と聴覚(音は時間に流れの中にある)を通してですが、他の動物とは異なり、人間の脳はその視覚と聴覚からの情報を交換できる(一体化とも言えるか)機能を持っているということです。そして、情報をインプットするだけではなく、それをアウトプットするための「運動系」による表出という作用が言語となり、また、意識・心になるということです。そこには、脳自身が自分の脳を見る、監視する(自慰的行為)ことができて、身体を作動させる運動野を持っているからということでもあります。

 ちなみに、脳がアウトプットするのは凡て筋肉を介してですが、筋肉には、横紋筋と平滑筋しかないようで、横紋筋は、意識的に動かすことが出来る筋(運動を司る筋)ですが、内蔵の肉は平滑筋なので意識的には動かすことは出来ません。しかし、肺だけは横紋筋で、意識的に動かすことが出来るようです。それは肺は、人間の場合、地上での生活をし始めた頃に、機能的(目的的に)に獲得された器官だからということです。
 なお、脳は(解剖すれば)見えるけれど、心は見えませんし、肺は見えるけれども、呼吸は見えません。そのように、私たちの生きる世界は、見える世界と見えない世界があることは忘れてはいけませんよね。私たちに日常的に分かり得ることの多くは、目に見えること、或は聞こえること、更には匂いを通じての情報からですが、日本人と西洋人を比較した場合、聴覚の違いは指摘されていますが、臭覚の点でも、違いがあるかもしれません。それが言語的にどんな差異を生んでいるのか、興味あるテーマでありますが。なお、人が死ぬというのはどういう状態かというと、それは身体から、つまりは脳から心が無くなる状態であります。これが一番辛いところでしょうか。今日はこのくらいで失礼を、頭が疲れましたので。(了)

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