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Etude (8)「言語なくして、人と人との交歓はない」

[執筆日 : 令和3年3月16日]

「言語都市・パリ 1862-1945」は、読む前には、フランス人が如何に言語を大切していて、フランス語を世界で最も美しい言語だと誇りにしていて、そして、パリが如何に素晴らしい国際的な都市であって、その華の都に憧れた日本人たちがそれぞれの夢を叶え、日仏の間には、アンドレ・マルローが思い描いた「西欧と東洋の融合」的出逢いがあって、前途洋々なる関係を築いた先人たちを称える物語がある、そんな本かと思っていたのですが、そういう面も無いわけではないけれども、フランス人と日本人の思い込みに誤解というか、大きなギャップがあったことを例示的に証明する本であった気がします。
 そうしたギャップの最大の原因は、日本人とフランス人の間での対話が出来ていなかった、つまり、日本人はフランス語が下手で、フランス人は日本語には関心がない、それ故に、知的で、そして情を交わすようなお付き合いが殆ど出来ていなかったということです。大学の先生も含め、日本を代表する、知的水準の極めて高い人がフランスに「学ぶ」ために留学しているのですが、フランス語が達者なはずのあの辰野隆さんにしても、勉強するために来たのか、遊んでいるのかよくわからない。その中で、木下杢太郎はかなりフランス人社会に入り込んで、それもあって、1941年にはフランスからレジオンドヌール勲章を得ていますが、こういう日本人は本当に稀で、大概は日本人同士で寄り添って、時に助けあいながら、ほそぼそと生きていた気がします。藤田嗣治は別ですが。
 異質な人では、芹沢光治良。東大の経済学部を出て、高等文官試験を通り、農務省に入った人で、価値論の研究のためパリ大学で学び、卒業論文をほぼ完成した頃に肺結核となって闘病生活。後に、指導教授の甥のアンドレ・ジッドに会ったりもして、日本に帰国後は中央大学で貨幣論などの講義をしながら、小説家になった(「改造」の懸賞小説に当選))。西欧社会の「質感」を実際に肌で感じた人であり、また、パリ郊外のフォンテンブローでの静養生活体験をも描いた「孤絶」や、「パリの揺籃」、「新しいパリ」といった小説があり、1959年にフランス詩人連盟からフランス友好国際大賞、1974年には、日仏文化交流の功労者としてコマンド賞が授与されているのは、極めて例外的と言えるでしょう。
 なお、秋田県生まれ(土崎)の小牧近江という人の存在も初めてしりましたが、後に法政大学教授にもなっていますが、この人のフランス人との間の旧友記録はありません。

しかしですね、日本女性は昔も今も世界中で人気がありますが、当時は物珍しさもあって、やまとなでしこはパリっ子にはもてたようですが、反面、男はどうもそうでないようで、例えば、次の文章は、日本男子の冴えない姿を物語ります。

「わたしは、ある日の午後、背広の注文で、洋服屋に行った。店の右も左も鏡の壁になっていて明るかったが、わたしが番頭と話をしている向こう端に顔色の悪い淡黄色い、みずぼらしいショボショボした若者がいた。いやなヤツがいるわいと思って、顔をそむけると、その男も黄色い顔をそむけた。が、ふと、気がづくと、なんだ、そのいやな若者は、鏡に映った自分の姿であった。」
         松尾邦之助「青春の反逆」(「言語都市・パリ」から)

 松尾という人は、東京外国語大学のフランス語を卒業して、あてもなくパリに来たようで、実際来てみたら、彼らが話すフランス語を聞き取れなかったようで、そのため孤独感に苛まれ、神経衰弱に陥った由。言葉の壁、文化的な距離感、人種的な差別(むしろ差別か)、そして貧困を経験し、20年以上も巴里に住んで、巴里を「生涯の恋人」と、「巴里横丁」では呼んでいるけれども、家からの仕送りがなくなってからの生活は厳しかったようです(後に、読売新聞社社員としてパリで勤務)。そうした彼の境遇を救ったのは日本人会であったようで、「巴里週報」などでエッセイや名所案内を執筆して生活をしのいでいたようです。この時期1920年代にも、そして1930年代もそうですが、巴里に住む日本人と巴里人との間には、交換性はなく、フランス人の日本への関心は極めて低く、浮世絵、或は生活様式(服装、民芸品、根付等)、或は俳句への関心はあったようですが。
 なお、春山行夫「フランス俳諧派の俳句論ーポオル・ルイ・クウシュウ」によれば、仏語でhaikuは音の問題、尻culを連想されることから、haikai「俳諧」と呼ばれていた由ですが、パリの人は日本(人)に対しての異国趣味的な関心はあっても、学問というレベルではなかったようです。当時、パリ大学の学生は、片岡直方の「欧米漫談」によると、ソルボンヌで日本の文化を研究する学生は5人程しかいなかったようです。日本への関心は、同時代の日本ではなく、ヨーロッパ近代とは異なる異質なものへの関心(ある意味では民俗学的な、文化人類学のようなものか)であったと。
 ちなみに、1936年にパリを訪れた俳人の高浜虚子は、パリでは和服、草履姿で市内を歩き、その姿をパリっ子は興味深く眺めていたようですが、彼はフランス語を学ぼういう意志はもっていなかったと。毎日、毎日和食を食べ、ルーブル美術館も、エッフェル塔も訪れることなく、たまに公園(リュクサンブール公園)を散歩するのであったようですが、俳句の講演会やフランス俳諧の重鎮のヴォカンスとのお付き合い・対談などもあり、フランスの俳諧と虚子の志向する俳句の違いをまざまざと見せつけられたようです。虚子の好敵手、河東碧梧桐は、季題を無視し、17音の提携を壊した新しい俳句を提唱して、そのようなものがフランスの俳諧で、虚子は、フランスで俳諧を広めた、訪日経験もあったポール・ルイ・クーシュのことを「クーシュ氏は20年前、俳句の2つの重要性質の一つ、而も国語の性質上仏国では比較的軽かるべき17シラブルと云うことを伝えて、より根底的な、より大切な季題ということを伝えなかった」と「渡仏日記」で嘆じています。
 その後、彼はベルリン日本学会の講演で「日本人の心持ちをさういう風に養ひって来たのは日本の風土気候が原因であらうと思ひます。(中略)日本は俳句のエルサレムであります。若しもこのドイツの方が俳句といふものをほんたうに研究したいとお考へになるならば、その聖地エルサレムの日本にお出でになり、親しく日本の風土に接し、春夏秋冬の四季の現象を精しく観察し翫味されて、傍ら日本人の生活状態に親しんでみられる必要があろうと考へられます」(「ホトトギス」1936年8月)。
 当時、虚子の通訳をしていたのは、キク・ヤマタという女性(日本人の父、フランス人の母)で、ポール・ヴァレリーに献じた小説「マサコ」がフランス文壇で好評を博しています。
 俳句のことは芭蕉にお伺いをたてるのがよろしいのでしょうが、厳格に原理主義的に日本の文化を海外で広めようとするのは無理があります。そうは言っても、季題がなく、17音でなくても、俳句と謂われると、日本の文化の根底にある「型」がないものになり、なかなか難しいでしょう。寿司も、ラーメンも元は日本のものでも、国際化するには、柔軟になんでもありと考えるしかないかもしれませんが、譲れないものもあるでしょう。その譲れないものとは何かのか、その辺をフランス人と議論できるようになったのは、第二次世界大戦を経験した後の日本人なのかもしれません。それは、しかし、また別の話(histoire)でありましょう。外務省という国と国との交歓を仕事としていたためでしょうが、個人としてのフランス人と日本人の交歓の歴史には極めて疎かったのですが、よくよく考えると、フランスの良さというのは、この個人と個人のお付き合いが出来るということかもしれません。しかし、そのためには、日本人は果たして個が確立しているのか、そこが永遠の課題でありますが。
 パリに魅せられた人の書き残した言葉は、次回ということで。(了)

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