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Etude (23)「三つ子の魂百までとは」

[執筆日: 令和3年4月1日]

 今日は、4月1日、新しい年度(会計)の始まりでございます。隠居老人には、新年度もないとも言えるし、あるとも言えるのは、行きつけの茶店のコーヒーの値段が一挙に70円も値上がっていて、なんだこれは、コロナ禍のインフレはひどいなあと。聞くところによれば、持ち帰りの代金も上がるようですし、週刊誌情報では年金額が下がるともいうし、踏んだり蹴ったりの新年度のような感じです。
 まあ、そうはいっても、かつて、新入生として大学、或いは役所に入った時の高揚感を味わった者としては、この時期は、なんでも大目に見るのがいいのでしょう。外務省入省時の茗荷谷にあった由緒ある研修所で同期に初めて会って、揃いの写真を撮り、そしてそこでの4ヶ月に渡る研修期間は、後から振り返ると、神様からのご褒美のような期間でもありました。この3月末で何名かの同期が定年退職し、彼等は彼等なりに、新しい人生が始まる訳で、一年先輩としては、これからの人生が正に本番、真の人間性が試される時期になりますよと、助言いたすところであります。
 さて、昔からエネルギー保存の法則というのが科学の世界ではあるようで、古いエネルギーの変わりに新しいエネルギーが役所、会社、学校に入って、トータルで社会全体のエネルギーは保存されている、ということにもなるのかわかりません(亡くなる人の人数と生まれてくる人の人数にも影響しますが)が、外務省員も、昨今のグローバルな課題、例えば地球規模の気候変動など、科学的知識がないとこれからの外交活動が出来ない時代になりますし、それでなくとも、コロナのパンデミックなども、やはり科学知識がないと、他人依存、そして迷信・俗信頼りになって、生き残ることがままならない訳でございます。
 そんなこともあり、昨日以来、絶対的名著と帯にある中谷宇吉郎さんという北海道大学教授であった(1900-1962 在職中に死亡)方の「科学の方法」(岩波新書 1958年第1刷、2021年第76刷)を読んでおりましたが、流石絶対名著といわれるだけあって、面白いですね。科学的な考え方、科学的なアプローチの仕方、科学が不得意とする分野の話等、数学、物理が多少不案内でもなんとかポイントだけは理解できたような気がしております。しかしですね、帯を作成したご担当者は中谷さんの本を読んでいないかもしれませんな、中谷さんは、今の科学では自然に関しての絶対的真理はまだ得られていない、世の中に「絶対」はないとおっしゃているのですから。これはこれで、また後日ご案内できるかと思っております。
 利他の続きというか、補足になりますが、利他を感じる最初の時のことは、人は殆ど記憶してはいないのだとは思いますが、多分それは、母親からの授乳に始まるのではないかと思うのです。母と子の関係は他人の関係ではないけれども、赤ん坊にすれば、母親は常に側にいて絶対的に頼れる存在であり、自分の命を左右する存在で、授乳やオシメを換えてもらう度に、赤ん坊は、多分、母親に感謝していたのではないかと。つまり、利他というのは、(無償的行為に対して)感謝の気持ちを抱くような行為ではないかと思ったのです。まさに慈母という言葉があるように、仏様の、あるいはマリア様の存在を意識する瞬間(法悦を感じるということですね)が利他を感じる始まりではないかと。「三つ子の魂百まで」と言われますが、人は3歳までに受けた利他の経験を死ぬまで持ち続ける存在であって、それ故に、私が云う、人生という時間は記憶であるという言葉が、多分正しい認識ではないかと思ったのです。そして、人は、そうした利他を受ける度に、感謝することで、細胞が変わるが如しに、変化し、成長する生き物ではないかと。
 そうした視点から、何が導き出されるかと申しますと、畢竟、人の幸せというものは、その感謝の頻度、あるいは、密度といったことによって大きく左右されるものだということです。社会的な成功を得ても、お金に換算される意味での財産が幾らあっても、その人の人間性というものは、多分、そうした感謝した記憶によってしか表現できないものではないかと。
 賢人が諭すように、日々の生活でお世話になっている人に感謝し、そして、今生かされている(受け身)ことに感謝できる、そう感謝することができるという、心の余裕のようなものが、これも多分ですが、案外幸せを引き寄せる、ないしは向こうからやってくる秘訣なのかもしれませんね。それ故に、利他の人、人に優しい人というのは、過去の感謝の経験があるから出来るのであって、経験のない人は利他的にはなれない、そんな気もしております(お!、早速、嬉しい電話が)。

 これが前半のお話ですが、後半は、かなり込み入った話というか、頭の体操であり、しかし、多いに考えてみる必要のあることではないかと思っております。それは、以前ご案内したフェルナンド・サバテールの「物語作家の戯評」にある物語を語る人、ストーリテラーのお話であります。

「希望というものは、もし記憶に中に見いだせないのであれば、そもそも存在しないということになる。記憶の中にこそ、勝利、敗北の教訓、不可能と思われたものの克服、神々の好都合な、あるいは、不都合な介在、圧制者の撲滅、そして機知と勇気にあふれる方策の数々が潜んでいる。ストーリーテラーは希望の炎という、とてもありそうにもない炎を燃やし続けなければならず、それゆえに、他の人々が代々引き継いできたメッセージを、気分にまかせて変更してはならないのである。希望のみが気ままな振舞いを許すのであり、希望を気ままに扱ってはならないということである。」
             フェルナンド・サバテール「物語作家の技法」

 フェルナンド・サバテールの「物語作家の技法」(みずず書房)は、骨の折れる本です。彼はストーリテラーの技術を本として、スティーヴンソン「宝島」、ヴェルヌ「地底旅行」「海底2万マイル」、クロンプトン「英雄ウイリアム」、ドリル「失われた世界」「バスカヴィル家の冒険」、サルガリ「海王号の冒険」、ウェルズ「宇宙戦争」、ロンドン「星を駆ける者」、トールキン「指輪物語」、ボルヘス「アレフ」、グレイ「荒野の流れ者」、マイケル・イネス「霧と雪が同時にやってきた」「ハムレット復讐せよ」を挙げています。
 誠にお恥ずかしいのですが、私はどれも読んでいないと思います(今現在)。すぐれたストーリーテラーの技法がどんなものであるかは、この10数冊の本を読めば解るとは思いますが、そうもいきません。「物語作家の技法」は、玄人向けの本を手掛けているみすず書房の本(1992年発行で、価格は2,884円、但し私はアマゾンで購入しましたので、送料込みで400円もしなかったのは申し訳ない位)でありますので、いつもよりは時間をかけて読んでみました。
 なお、サバテールさんは、個々の作品の解説に加えて、「ストーリーテラーの失権」において、物語と小説の違いなどについても書いておりますが、「プロローグ」で「これはあえて独断と偏見を前面に押し出した本である」と公言しておりますので、読み続けるのは大変ではありましたが、とても刺激的な本で、ある意味で、サバテールという人は天才的な学者かもしれません。なお、ストーリーテラーとは「遥かな地から訪れて語る者」ということでありまして、どこか私に似ている人?という感じ、つまり、共感を持って読んだ次第です。いや、面白い本だと思います、本当に。ですから、お値段が安すぎることを強調したいのです。

 彼の言わんとしたことのポイントは幾つかあります。

第一のポイント:この世の中には2種類の読み物が存在すること


「私自身、覚醒しているときと夢想している場合とでは違ってきます。覚醒時は純文学、つまりさまざまな価値が中心的関心事になるような著作に熱中するのです。ところが夢の方は、メロドラマと同じことで、価値とはあまり関係がないんです。喰い付いたり引っ掻いたり、といった次元の事柄がもっぱら興味の的になります。攻撃と逃走、狩猟、罠、出し抜きに類した話題です。いつも、肉体の活動や、ぶつかり合う物質の塊りとその在りようといったものが念頭を離れません。それに、もちろんのことですが、夢につきものの曖昧さとか神秘性とか絶えず感じているんです。」
               マイケル・イネス「ハムレット復讐せよ」

 サバテールさんは、イネスの本にある言葉を引用しながら、役に立ちそうな価値を求める読書と、どこか無秩序的な世界についての読書があるとして、物語というのは、小説とは違って、夢とか希望に繋がるものであると言っております。

第二のポイント:ストーリーテラーとは

 サバテールさんは、ヴァルター・ベンヤミンの「ザ・ストーリーテリング(物語作者)」を参照・引用しながら、「小説は高度に創意的で、革新的行為である、ストーリーテラーは自己の裁量で実質的変更を加えることのできないが、小説家の場合、話題となる事柄を語る場合、彼が有する唯一の権利は、自己の裁量でその話題に変更を加えることで、その姿勢を最後まで守り通すことであり、ストーリテラーは伝承こそしても、発明はしない、伝承するものは肉声によって伝えられる経験である」と述べております。
 なお、ベンヤミンは「真の物語は、表に出すか、秘めるかは別にしても、なにか有益なものを含んでいる。その有益さはある場合には、教訓のこともあり、別の場合には、実際的忠告、またある場合には、ことわざや格言のこともある。いずれにしてもストーリテラーとは読者への助言を用意している人間なのである」と述べていると。
 サバテールさんは、要約的に、ストーリーテラーとは、実際面への関心と賢明な忠告、これが希望を本来的に内包する語り行為の特性の一部であり、ストーリーテラーは、聞き手を将来の主人公として物語そのものの中に組み入れ、耳を傾けるという、そのことだけで聞き手がすでに経験し始めているさまざまな危険に対して警告を与えるのである」人であると述べます。

第三のポイント:小説と物語の違い

 サバテールさんは、ルカーチの次の言葉を用いて、小説と物語の違いを説明しています。

「ルカーチによれば、小説は人生と(人生の)意味との乖離、一時的なものと本質的なものとの乖離の上に築かれているという。この両極の和解、あるいは和解不能な状況への埋没は、両者の特異性をすべて包摂しようとする小説家の試みによってのみ具現されうるのである。つまり、「人生の意味」こそ、小説がその周囲をめぐって模索している事柄の革新なのである。しかし、人生の意味の探求とは、小説の読者が作品に描かれた人生を自ら生きることに気がづいて抱く、当惑の、その最初の表れにほかならない。一方は「人生の意味」、他方は「物語の教訓」なる旗印を掲げ、小説と物語が対峙する。そしてそこから、これら芸術形式のまった別な史的座標が見いだされることになるかもしれない」

ということである。

「語り行為の基盤は最もすぐれた記憶を有する者に徳を授け、すべての不徳を忘却の一形式として、というよりもは、忘却のすべてを不徳として避難することにある。」

 そして、サバテールさんは、結論的に、小説と物語の違い、そしてストーリテラーについて、

「小説は死を指向し、一方、語り行為は生へのオリエンテーションとして役に立つのだと言ってかまわないだろう。生の意味を探し求める者は死の中にのみそれを見出しうるのであり、内的なものと外的なものは、死においてついに揺るぎなき統一として和解にいたるのである。小説家は人生の全行程を踏破して終着点に身を置き、主人公の到来を見守るのであり、物語のすべてを後知恵につきものの短縮描写法で語るのである。人生を終えるまでは誰しも幸福ではないが、だからといってとことん不幸でもない、と小説は教えてくる。」
「伝え聞くところによると、溺れる者の脳裏を最後の瞬間に渾然とよぎるものは、過ぎし日々の思い出の数々であるという。ベンヤミンは、35歳で死ぬ者はその人生にどの時点においても35歳で死ぬ人間だるという、モーリッツ・ハイムの言葉にも触れている。死は時を遡って刻印を打つということなのである。」
「小説最初の2作品は、聖者にしてかつ殉教者というドン・キホーテ、そして隠者ロビンソン・クルーソーの物語を語っている。(中略)死が両者の人生に与える意味は幻滅であるが、これは意義深いことである。結局、死は生の虚像を暴く手段のみを知っているのであり、死によって承認を得ようと欲する者、意味を期待して死に賭ける者は不運を嘆くことになる。だからこそ、希望に満ち、希望を付与するジャンルとしての語り行為とは対照的に、小説は絶望のジャンルなのである。しかし、絶望は小説そのものよりも、その読者を特徴づけている属性である。「読者を小説に引き寄せているものは、そこに描かれている死によって寒々とした己れの人生を暖めたいという希望なのである」というように、小説を読む真の動機となっているのは、じつは、生を希求する読者の意思なのである。」
「ベンヤミンは、「その天禀は己れの人生を語る能力にあり、その卓越性は己れの人生のすべてを語りうる点に存する」と述べ、「ストーリテラーとは、心正しい人間が己れ自身の似姿を見出すような人間像である」という。「ストーリテラーは、自己の存在の一部を私物化したり、隠蔽したりする権利はない。彼の話を支えているあの廉直さを求める気持ちが、完全な論証上の透明性への信念をいっそう固めるからである。ストーリーテラーは虚言を弄しないこと、あるいはさらに重要なのは、己れを欺かないことを命に賭けて誓うのであり、これがまさしく重きを為すこと、大切なことなのである。」
「語り行為は内面性と宗教の領域に属しており、そもそもが純粋な精神の営為、人為の所産として出発している。他方、小説は自然科学の領域で発生し、リアルなものの巧まざる反映、つまり、自然主義を目指しているものである」

と述べています。

第4のポイント:探偵と哲学者の類似性

 サバテールさんがこの本を出すきっかけを作ったのは、「哲学書にはプロットはないの」という弟からの質問でしたが、彼は哲学も語りの一形態であること、そして思索とはあるプロットを展開させていくことであることを強調しています。プロットはドラマで使う意味のみならず、論理的な意味でも用いられるものであるとして、物語も哲学も、一見関連の無いと思われる出来事のはらむ内的論理を明らかにしようとする試みがなされるし、またどちらも探求が主題となっている、一つの演繹が他の演繹へと繋がり、やがて最終的な真実が得られる、という意味で推理小説も哲学体系も似ているものであるとして、

「哲学者も探偵もともに、ある一つの謎の解明を、なぜ?誰が?どのようにして?といういくつかの疑問へと分解して模索していうのである。哲学者の場合、「偉大な神秘」は宇宙に及んでいる。一方、探偵は一見したところ哲学者より謙虚ではあるが、本質的には哲学者に似ているのであって、ある一つの行為を遂行した者の正体を明らかにしようとするのである。(中略)問題の核心は、十分な理由を提示するという原則を厳密に適用するところにある。つまり、すべてに原因があり、根拠があり、意図があるのであって、何事お「取るに足りないような理由」で起こることはしないのである」

と。
 つまり、前回、ご案内した「さあ、あなたの暮らしぶりを話して」の著者、ミステリーの女王、アガサ・クリスティという人は、哲学者でもあったということでしょう。
 どうですか、これで、私が何故、自らを「語り部」と自称しているかも多少は理解が深まったのではないかと思います。(了)

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