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『旅行用心集』に学ぶ、江戸時代から変わらない旅の心得とは

 旅慣れた人は、荷物が少ない。

 たとえ自動車や交通機関での旅であっても、多すぎる荷物は煩わしいものだ。山旅のように、歩き中心の旅ならその重量は疲労に直結する。だから出発前には”何を持っていかないか”を吟味することが大切であり、ああでもないこうでもないとパッキングに頭を悩ます時間も、旅の楽しいひとときである。

 荷物は小さく軽く。

 この心得は、実は江戸庶民の旅の時代から変わらないのである。

 徳川家康が1603年に江戸幕府を開き、戦乱の世に終止符を打った。その後、約260年にわたる平和な世が訪れた。仕事があり、家族みなが安心して暮らせるようになると、渇望していた平穏な暮らしに刺激を求めたくなる。

 平たく言えば、日常に飽きてしまうのだ。

 そうして変化を求め危険を犯し、旅に出るのは今も昔も人のさがと言えるだろう。

 幕政により街道が全国に整備され、宿場を利用して庶民が旅に出るようになった。江戸時代も中期以降は世情が安定し、「お伊勢参り」という空前の旅ブームが巻き起こる。江戸後期、文化・文政時代に十返舎一九じっぺんしゃいっくのベストセラー『東海道中膝栗毛』が多くの人々に受け入れられ、20年にわたり続編を出せたのも、旅に憧れる庶民が多く、また旅の経験を語る者が増えたからに他ならない。

 文化7(1810)年に出版された『旅行用心集』も、大ヒットを記録した1冊だ。

 これは著者の八隅蘆庵やすみろあんが、「私が旅好きなことを知る人からあれこれ問い合わせがくるが、その都度答えるのが面倒だから、1冊の本にまとめたよ」というものである。現代風にいうと『蘆庵さんの HOW TO 伊勢参り』といったところか。要するに旅のハウツー本である。その中の、道中用心六十一ヶ条に、次の一節がある。

旅行に持っていく物は、懐中物のほかは、なるべく少なくしなさい。持ち物がたくさんあるとなくしたりして、かえってわずらわしいものである。
現代訳『旅行用心集』 八隅蘆庵 著 桜井正信 監訳

 そして、所持品リストは次のとおり。

  • 矢立:筆と墨壺を組み合わせた携帯用筆記具

  • 扇子

  • 糸と針

  • 懐中鏡

  • 日記手帳

  • 鬢付油びんつけあぶら:関所の前に髪をセットするための整髪料

  • 提灯:折りたたみ式の提灯。現代のヘッドライトや懐中電灯

  • ろうそく

  • 火打道具:マッチ・ライター

  • 懐中付け木:火口

  • 麻綱:洗濯物を干すためのロープ

  • 印板:印鑑の代わり

  • かぎ:ロープとセットで使う、現代のカラビナに相当するもの

 これらに道中案内(ガイドブック)や財布を加えたのが、江戸庶民の旅の持ち物である。

 江戸後期に出版された本を、現代にその全てを当てはめるのは難しい。

 が、大筋は現代でも通用し、例えば安宿を利用するバックパッカーの最低限の装備として、上記の所持品リストは、現代と大きな違いはないのではないか。

 ここでは所持品にスポットを当てたが、『旅行用心集』には「毎日の身ごしらえは自分ですること」「食べ物に不満があっても、ぐっとこらえて食べること」「風俗や文化の違いから、気分にそわない待遇を受けることもあるものだ」など、旅先のみならず、日常でも心得ておきたい数々の教えが記されている。

 現代でも通用する、旅好きのための必読書——。

 人が生きるために必要な道具はそれほど多くない。

 旅は、そのことを身をもって確認できるよい機会だ。

 より快適により便利に、経済が発展し道具や環境を変化させても、人の本質は変わらないのである。

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