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ホーチミンの春巻き屋のおばあさんミー

代表的なベトナム料理に春巻きがあります。ライスペーパーという米粉で作った皮で豚肉、エビ、野菜、香菜などを巻いて食べる生春巻きと生ではなく油で揚げた揚げ春巻きとがあり、どちらも日本人の口にあって、食事のおかずやビールのあてに最高に美味しい料理です。


私がベトナムに住み始めて間もない頃、職場の近くに春巻き屋がありました。揚げ春巻き3本で3万ドン(約150円)くらいの庶民的な店です。決してきれいな店でもなければ、広い店でもありません。路地の奥にあるベトナム人向けの店です。しかしこの店の春巻きは非常に美味しくて昼食時は行列しなければならないほどでした。周りにある他の店がガラガラに空いていてもこの春巻き屋だけはいつも行列のできる人だかりです。春巻きは店内の小さなテーブルで食べることもできますが、持ち帰りもできます。春巻き屋のお客さんはベトナム人ばかりで外国人はいませんが、とても美味しいので私も時々行列に並んで春巻きを買っていました。


この店には、ごった返す店内を切り盛りするおばあさんがいました。ある日、いつものように行列に並んで春巻きを買おうとしていると、そのおばあさんが「Which country are you from?」(どこの国から来たんですか?) ときれいな英語で話しかけて来ました。私はこんな庶民的な店でおばあさんから英語で話しかけられて、びっくりして「From Japan」(日本からです。) と返事をしましたが、そのことがあってから、このおばあさんと春巻きを買いに行くたびに少しずつ話をするようになりました。


春巻き屋のおばあさんは、ミーという名前で、白髪交じりの髪を後ろでまとめたどこにでもいそうなベトナムの老婦人です。着ているものも普通ですし、毎日春巻きを商売する普通のおばあさんです。でもどことなく気品があって、年を取っていますが整った顔立ちをしていました。そしてこのおばあさんが、他の人と決定的に違うのは、きれいなアメリカ英語を話したことです。私が「You speak English very well!」(英語が上手ですね。)というと、おばあさんは「若いころ一生懸命勉強したからね。」といってアメリカ人のようなウィンクをしました。
このおばあさんは、若い頃きっと裕福な家のお嬢様だったのでしょう。春巻き屋の片隅に古びたピアノがあって、「私は、ピアノが弾けるのよ。」といってそのピアノを指さしたこともありました。もっともその時ピアノの上には醤油やヌックマム(ベトナムの調味料)などが置かれており、食器棚のようになっていましたけども。


おそらくは、ベトナム戦争の終結が、このおばあさんの一家の人生を暗転させたのでしょう。ベトナム戦争後、このおばあさんがどのような人生を過ごしたのかわかりませんが、戦争終結とその後の社会主義化がおばあさんの人生を大きく翻弄したことは間違いないと思われます。あの春巻きの味は、おばあさんの人生が詰まった味だったのだと思います。

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