高校無償化に思う教育の地域性
少し前になるが、大阪の高校授業料完全無償化が決まった。
これについてのネット上の声を拾っていると、改めて教育の持つ地域性をを感じることができる。
否定的な意見によく見られたのが、私学を無償化にする必要がない、格差が広がる、というものであった。
なるほど。そういう捉え方もあるのか。改めて「常識」とは自分達が住んでいる地域の自分達の感覚に過ぎないことを実感した。
おそらくそうした意見は東京の方々からだと思う。論法としてはこうだ。
私学は設備が充実し、教育サービスも手厚い。上位層の多くが名門私学を目指していて、家庭環境にも恵まれた子たちが私学に進学すると金持ちがさらに得をする。
言われてみればそんな懸念もわかる。
しかし、大阪(といっても全員が同じ感覚ではないが)に住んでいる人間の肌感覚としては思いもよらない指摘だ。
基本的に大阪の上位層は公立を目指している。いや、上位層に限らず、基本的には公立が本命で、私学は滑り止めだ。
私学に入学する生徒は「妥協して」専願で私学を受験したか、本命(公立)の受験に失敗した生徒だ。
だから家庭環境に恵まれた子は受験対策用の塾などの力を借りて公立を目指し、合格を勝ち取っていく。一方、そうした環境に恵まれていない生徒は落ちて私学へと進学する。これが基本パターンだ。
つまり、金持ちの家の子が公立に行って格安の授業料で高校生活を送る。一方、塾にも行かせてもらえず私学へ行かざるを得なかった子は、受験に失敗したショックを抱えながら、高い学費も納めなければならないというダブルパンチを食らうこととなる。これこそ格差拡大だ(ちなみにウチの学校など公立より校舎もボロい)。
新入生のクラス開きで先輩教員に言われたのが、まずは専願か併願かをチェックすべしということだった。ダブルパンチによるダメージの心のケアをして、前向きに学校に来るようサポートするのが最初に取りかかる仕事なのである。
この公立>私立という構図は教員にすら存在する。ベテラン教員にはよく「いつまでウチにいてくれるの?」と言われた。教員は公立の採用試験に合格するまでの間だけ私学で務めるというのが基本パターンだったらしい。
正直、最初は言っている意味がわからなかったのだが、何年か務めてその空気感を理解した。我々の世代にはその感覚がほとんどないので、今はそんなことを言われることも言うこともなくなっているが。
話を戻そう。要するに、無償化1つにしても地域によって「格差拡大」になったり、「格差縮小」になったりするのが教育政策の難しさだ(ちなみに、そもそも格差縮小のためではなく、維新お得意の新自由主義的な手法だと解釈している)。
私の住んでいる自治体では国歌を教えることも歌わせることもなかった。卒業式の時は体育館の前にバリケードの跡のようなものもあった。
だから大人になるまで国歌は歌えなかったし、校歌というものにもさほど愛着はない。
しかし、大学で他府県の友人の話を聞くと、そんな私の常識は大きく揺さぶられた。ある時、友人たちが高校入学後の「校歌合宿」の話題で盛り上がっていたのだ。
彼らによると、入学式の翌日から校歌をマスターするためだけの合宿が行われていたという。メロディーや歌詞を覚え、全員で教師のOKが出るまで心を込めて大声で校歌を練習する。
「お前たちはそんなものか!」
「気持ちがこもっていないぞ!」
「全員で心を1つにするんだ!」
そんな掛け声をかけられながら、生徒たちは必死に声を張り上げ、最終日の最後のチャレンジでその努力を評価される。
「よくやったな、お前たち」
そこで生徒みんなで号泣するらしい。理屈を超えた達成感や連帯感が得られるようで、話しぶりからは決して悪い思い出ではなく、いい思い出として残っているようだった。
国歌を教えない自治体で育った身としては信じがたい話であった。ガチなの? 昔のスポ根ドラマの話じゃないよね?という感じで聞いていたのをなんとなく思い出した。
彼らの出身は福岡、大分、長野であったが、大阪や京都といった近場でも地域によって全然違ったりする。
私の育った地域は高度成長期にベッドタウンとして開発されたところなので、伝統行事についての関心が薄い。だから、大阪の南の方ではだんじり祭りが近づくと学校が休みなると聞いた時は衝撃を受けた。京都でも葵祭の時などは同様らしい。
私の地域の感覚では学校が休みになるなんて暴風警報が出たときくらいで、他の理由で休みになったことなどなかった。それどころか風邪で学校を欠席することすらも何か犯罪でもしているような気まずい感覚があるので、少しの熱なら無理してでも登校するのが普通であった(そういえば震災の時すら登校したなぁ)。
教育と社会は密接に繋がっている。自分の受けた教育が全国で同じように行われていると考えるのは全くの勘違いである。
私の地域で「校歌合宿」なんてしたら、「洗脳教育」とバッシングを受けて中止になるのは目に見えているが、先述の通り、彼らの地域では「大人になるための登竜門」的な良き思い出として残っているので、問題にもならないだろう。
生徒の心を揺り動かし、成長を促すアプローチに正解はない。たまにそうした地域の取り組みが、あまりに「非常識」「時代遅れ」としてバッシングを受けることがあるが、批判する際にはその地域の文化的背景や歴史的経緯まで理解した上でしないと、本当に残すべきものまで誰かの偏った「常識」によって葬り去られてしまう懸念がある。
その意味で、教育を語ることは社会を語ることなんだと思う。だから、どの科目を教える教員であっても社会情勢には関心を持ってほしいというか、もたないとダメなんじゃないかと思うのだが、最近の教育実習生と話していると「時事を知らないこと」を恥じる感覚すら弱まっているように感じる。
これも「脱知識偏重」、「個別最適化」の成果なのだろうか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?