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親離れ


「来週の水曜日、私病院行くから予定入れないでね。」
「ふん!そんなの分からんわ!いつ具合が悪くなるかわかりゃ苦労せん!」

 最近調子が悪い。
 病院に行きたいが、なかなか行くことができない。

「ごめん、今日10時から病院の予約があるから…
「朝から歯が痛くてかなわん!今すぐ歯医者に連れて行け!」」

 ああ、今日も病院に行けなかった。

「ぐうたらしやがって!早く掃除しろ!」
「・・・ああ、いまやるから。」

 調子が悪い中、体に鞭を打って母親の願いを叶える。
 食欲が消え失せてずいぶん経つ。

「ごめん、ちょっと調子が悪いから今から病院に行ってくる
「どこが悪いんだ!何をやってるんだ!そんなの気のせいだわ!わしなんか目も見えんし頭も痛いし膝も痛いしこんなに調子が悪いのに!贅沢だ!」」

 調子が戻らないまま、重たい体を引きずって母親を買い物に連れてゆく。
 母親の食欲、物欲は衰えることを知らない。
 だが、本人曰く、食欲が減り、生きる意欲がわかないのだそうだ。

 どこかおかしいに違いない、心配でたまらないから、しょっちゅう病院に行きたがる。さらに月に一度、健康診断のために近所の内科に通っている。

「私もついでに病院で診てもらおうかな
「あんたなんか若いんだから健康だわ!あんな検査してもどこも悪くないとか抜かすクソ医者に診てもらう意味なんかないわ!金がもったいない!」」

 体がだるくて、とても母親の世話ができない。

 地域包括センターの人に訪問してもらった。
 誰かに助けてほしかった。

「松子さん、娘さんもお疲れのようですし、サービスを利用しませんか。」
「何も知らん他人が介入するな!娘は健康なのに大げさでいつもこういう事ばかりはりきって言うんだ!わしは娘しか使う気はないから帰ってくれ!ああホント腹が立つ。あんたそんなこと思ってたの?たった一人の親なのに、なんでそういうこというんだ!親を大切にしろっていつも言ってただろうが!この恩知らず!!もういい、電話は切る。お前は一生他人と話をするな!わしばっかりがひどい目に合う、こんなに苦労してきたのに全く報われない!なんでわしは生まれたんだかわからない、こんな苦しむために生まれたんじゃない、こんな役立たずの娘なんか産むんじゃなかった、ホントどうしようもない人生だよ!」

 他人が入った後の母親の荒れ方は異常だった。
 もう二度と誰かを頼ったりしないと思った。


「あ、気が付かれましたか。ここは病院ですよ。」

 目を覚ましたら、病院だった。

 どうやら母親にクリーニングを取りに行けと言われて、歩いて出かけたところそのまま倒れてしまったようだ。

「あの、ご家族の方は。」
「家に母親がいますが、電話はないので……。」

 地域包括センターの人から電話がかかってくるのを嫌がった母親は、電話を捨ててしまったのだ。

「このまま入院してください。もう、あなたは動いているのが信じられないくらい…手遅れです。」

 私はもう、助からないのだそうだ。
 色んな検査の結果の紙を見せてもらい、説明を受けた。

 血を吐いていたのは、病気のせいだったらしい。
 心臓が痛かったのは、病気のせいらしい。
 首が回らなかったのは、病気のせいらしい。
 頭が回らなかったのは、病気のせいらしい。

 点滴を受けながら、ぼんやりと天井を見つめた。

 ……ここは静かだ。

 母親の怒鳴り声が聞こえない。
 母親の罵倒する声が聞こえない。
 母親の狂った叫びが聞こえない。


 どれくらい、静かな空間でうとうとしていただろうか。

 廊下の方で、足音が聞こえた。

 警察が、二人、看護師さんと共にやってきた。

「お前は本当に大げさなことしやがって!!警察の皆さんに土下座して謝れ!!!あーあー、これだからできの悪い娘なんか持つもんじゃないんだ、アンタわしがここにくるまでどれだけ苦労したのかわかってないだろう!頭が悪すぎるんだよ!だいたいアンタは昔からどうしようもなくてちっとも使えないお荷物で!」
「お母さん、あちらでお話しましょうか!」

 警察の後ろから、母親が怒鳴り散らしながらやってきた。
 静まり返る病室の中に怒号が飛び散る。

 母親は、クリーニングを取りに行ったまま三時間も戻らない私が許せず、マンションの隣の住人に救いを求めたのだそうだ。

 老いた母親を一人残して全然返ってこない、何か事件に巻き込まれたに違いない、心配でたまらない、うちには娘が問題を起こしたため電話がない、警察をよんでほしい。

 警察が来て母親はいろいろと訴えたそうだ。

 老いた私をいつも虐待するひどい娘がいるんです。この傷を見てください、娘に傷つけられた跡です。この拳のアオタンは娘に殴られた時についたものです。私をいつもこき使う思いやりのない娘。私はいつも我慢を強いられ、涙を飲むことしかできない老いた身。このままでは衰弱死してしまう。しかし腹を痛めて産んだたった一人の我が子。何かの事件に巻き込まれた可能性を考えると心配でたまらない。後生だから捜索してくれないか。か弱く貧弱な自分は、極悪非道の限りを尽くす娘でもいないととても生きていけない。

 老人の介護放棄、虐待。事件を疑い、警察は動き、私の所在を明らかにして病院にやってきたらしい。

 あれこれ聞かれたけれど、私はぼんやりとした返事しか返すことができなかった。

「早く帰るよ!晩御飯の買い物に行かなきゃいけない、早く起きろ!」
「何言ってるんですか!娘さんはもうとても動ける体じゃないんですよ?!」

 看護師さんが口をはさんだ。

「他人が人の家庭に口をはさむな!こいつは大げさなんだわ!こんなの大したことない、病は気からっていうだろうが!甘えがこんなバカげた事態を引き起こしたの、それを親である私は収束させなきゃいけないの、こんなのはやく取れ!点滴?必要ない!こんな健康な奴にもったいないわ!わしに点滴しろ!!わしは朝から晩まで頭も痛いし心臓も痛いし腰も痛いし膝も痛いし腹は減るしアアア、腹が立って仕方がない、そうだ、責任者を呼べ、今すぐ!!」

 ああ、これはもう、収まりそうに、ない。

「すみません…、私、帰ります。点滴、抜いてください。」
「わしはコーヒー飲んどるでな!早く車いすもって迎えに来い!!」

 母親とともに、タクシーに乗って家に向かう。

 看護師さんの泣きそうな表情が、目に残る。

「入院なんてしゃらくさいんだわ!わしだって毎日必死に生きてるのに、ずうずうしい!わしより先に入院するなんてできるわけないだろう、わしのほうが弱っているし老い先短いんだ!お前が入院するならわしが死んだ後だわ!怠け者はいいねえ、気楽に入院させてもらって!充分休めただろう、明日はスーパーの朝市があるからそこに連れて行け!あーあ、腹が減ったわ、買い置きのカップ麺食べただけじゃ足りないね、家帰ったら稲荷寿司と天ぷら作って!あんたの料理はホントマズいけど我慢して食ってやるわ!40年経っても全然上達しないねえ、才能がないってのは本当にみじめだねえ、あんた生きてる意味ないねえ、無駄な人生だねえ、あーあ、どうしようもないねえ!」


 翌朝、痛む体を奮い立たせて朝食を作り、車に母親を乗せてスーパーに向かった。

「遅いねえ、あんた何わざとらしく皿洗ってたんだ、体がきついって遠回しに見せつけてんのか!厭味ったらしいねえ、そんなことしたって気分が悪くなるだけだろうが!さっさと洗わないからスーパーのオープンに間に合わないじゃないか!特売のキャベツが買えなかったらアンタのせいだよ、罰として今日の買い物は全部お前が代金払え!けちけちと貯め込んでる金ぐらい、わしのために使え!どうせはした金だよ!大金も稼げないろくでもないごく潰しが!!」

 ああ、どうして…こうなったかな。

 若いころ家を出て、独り立ちして、家庭も持って。
 老いた親に家庭を捨てろと命令されて、拒むこともできずに。
 働きに出れば帰りが遅いと退職させられ。
 自宅で細々と内職をしながら貯めた小銭は母親の欲を満たすために使われ。

 母親の呪縛から逃げ出せなかった。
 母親を捨てることができなかった。

 自分を産んでくれたという負い目が。
 自分をこの世に発生させてくれたという事実が。

 母親を無下にできなかった。
 母親を、冗長させてしまった。

 でも、この人は。

 生きている限り、私の、たった一人の、母親だ。

「こんな遠い所に停めるな!!歩くのがきついだろうが!!向こうの端にしろ、早く!!」

 車を止める場所を怒られる。

 頭が、ぼんやりする。
 ああ、壁にぶつかりそうだ。

 私は、焦って、ブレーキを思いっきり、踏んだ。


 ……つもり、だった。


 どうやら、私は、意識の混濁で。

 ブレーキとアクセルを、踏み間違えたようだ。


 大きな柱に、ぶつかっている。


 運転席の醜くひしゃげた車が、見える。

 運転席でつぶれているのは、ああ、私か。


 つぶれた私を殴っているのは、あの肉体の母親だ。

 シートベルトが体に食い込んで痛いと叫んでいるな。

 驚かせやがってと怒鳴っているな。

 早く動かせと騒いでいるな。


 …知ったこっちゃないな。


 あの肉体の母親は、あの肉体にとって母親なだけで。

 私はあの肉体から解き放たれた、ただの魂だからさ。


 こんなつまんない風景、見るまでもないや。


 私は、空に向かって、羽根を、広げ。

 大きく羽ばたいて、青に、混じった。


私が夜空や暗い色の写真を使う時は、だいたい心がえぐられるようなひどい話の事が多いです。

いわゆる毒親、毒家族、親ガチャ大ハズレ的な話を書くことがたまにあるのですが、こういうエグイ話を思いついてしまう程度の環境があるだけで…私自身はたぶん大丈夫だと思いたい←


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