恐ろしい夢を見た
幼い頃、怖い夢を見た。
あまりにも怖くて、真夜中に目が覚めてしまった。
恐怖で目を覚ましたことなど、初めてのことだった。
真っ暗な部屋の中、豆電球の光を見つめて呆然としていたのを覚えている。
全身に、嫌な汗がまとわりついていたのを覚えている。
狭い家に育った私は、母親の隣で寝ていた。怖くてたまらなかったが、電気をつけるわけにはいかなかった。
開けっぱなしになっている、ふすまで繋がるとなりの部屋には…朝五時起き、五時半出勤の父親が寝ていて、睡眠を妨げるようなことは許されなかった。
夜中にトイレに起きただけで、次の日ひどく怒られるので…下手に声をあげたり動くことができなかった。
家族の睡眠を妨げるようなことをするなど、とてもできなかった。
おそらく、私は覚えてはいないが、昔夜中に家族の睡眠を妨げて激しく叱られたことがあるのだろう。
声を出してはダメだ、動いてはダメだ、家族が目を覚まさないよう我慢するしかない、私の体には、そうプログラミングされていた。
微塵も動かずに、ただただ恐怖が過ぎ去るのを待った。
目を閉じれば、夢に見た恐ろしさが思い出されるので、オレンジ色に光る豆電球を見つめている事しかできなかった。
時折家の前を通る車のライトが、天井に届いて明るさを与えてくれるのが救いだった。
……もう四半世紀以上も前のことだというのに。
はっきりと、見た内容を、覚えている。
おそらく、朝陽が出るまでずっと夢の事を考えていて、脳ミソに刻まれてしまったのだ。
……月に一度通っている、眼科に行く夢だった。
私は眼科の先生が苦手だった。いつもひどい事を言うし、高圧的で、眩しい光を当ててくるし…はっきり言ってしまえば、キライだったのだ。
「よくないねえ、これじゃあ、いつ見えなくなってもおかしくないよ!」
「じゃあ、目の検査をします。こっちに来てください。」
看護婦さんに連れられて、会議テーブルの前にある椅子に座る。銀色のトレイの上に、目隠し棒とはさみ、手術道具が並んでいた。
ガチャガチャと道具が音を立てて、自分の顔の前で何かやっていた。
七三分けの四角い顔の先生が、顔を間近で覗き込み、何かやっている。
何をしているのかはわからないが、私は先生のポケットに刺さっているボールペンの先を見つめていた。
「手のひらを前に出して。」
言われるがままに手を出したら、何かが落ちてきた。
自分の、目玉だった。
「はい、これ、鏡。見てみて。」
看護婦さんに手渡された鏡をのぞき込んだ瞬間、恐怖で目が覚めたのだ。
目玉が、取れた。
目玉が、取れてしまった。
目玉がなくなったら、もう見えない。
目玉がなくなってしまったら、もう二度と元に戻らない。
物が見えなくなるという恐怖。
自分の目玉が取れてしまったという恐怖。
目玉の無くなった眼孔を見なければならないという恐怖。
今でも思い出す、あの時の、恐怖。
夜中に家の前を通りかかった車の台数は確か25台だった。
チュンチュンと鳥が鳴き始めるのは暗いうちからなんだと知った。
父親が起きる前に布団の中でうーんと声をあげることを知った。
母親が起きるのは父親が家を出た瞬間だということを知った。
祖母が朝から母親と言い合いをしていることを知った。
明るさと喧騒を聞いて安心して二度寝をしたら、蹴り飛ばされて目を覚ますことになると知った。
耳の上あたりに婆さんの足の爪が刺さって…血を流しながら登校したんだよね。大人になって丸坊主にした時に、耳の上にハゲがあるのを見つけてすごく嫌な気分になったんだよ、確か。
しばらく寝るのが怖くなったんだよなあ、毎晩九時の消灯が嫌で嫌で。
でも、それ以降、あの夢を見ることはなかった。
……いつぐらいまで、あの夢が怖かったんだったっけかな。
夢なんかよりも現実の方がよほど怖いって、いつ頃気付いたんだったっけかな。
今では恐怖で目が覚めるなんてことは全くない。
眠りが浅くなったせいで、起きてしまう事はボチボチあるけれども。
夜中三時に目が覚めれば、スマホで動画を見ながらぬくぬくと布団の中で時間を潰す。今はぼんやりと豆電球を見つめてじっと身動きせずに過ごさなければならないルールなんか、どこにもないのだ。
……さあて、何を、見ようかな?
動画サイトのお気に入りチャンネルの更新を、まだ暗いうちからチェック、チェック……。あ、新しい動画、公開されてる……、よしこれを見よう。
……私がタップした、動画は。
とある眼科の、手術動画。
…硝子体だの、レーザー凝固だの、水晶体だのの動画である!
おかしなもので、幼い頃あれほど恐怖した眼科のイメージがぐるりと真逆の方向に変わってしまい、今はむしろ好奇心をくすぐる存在となってしまった。
長く生きていくうちに、あれほど恐怖したはずの眼科関連の映像が、平気になってしまったのだ!
むしろ、現代の医学の進歩と技術の向上を確かめたくてたまらないというか……。おお、すごいな比重の重い薬剤かあ……、ついつい最後まで見てしまう…。
手に汗握る繊細な手術の成功を見届ける頃、ちょうどスマホの目覚ましが鳴った。……よーし、起きるかー!
あんなにおそろしかった夢をいつの間にか克服し。
あんなに気を使っていた実家をいつの間にか捨て。
あんなに何も言えなかった私が好き放題に言いたいことを文字にしている。
人というものは、本当に変化してゆくものなのだなあ。
私は晴れ晴れとした気持ちで布団を跳ね上げ、朝ごはんの準備をするためにキッチンへと向かったのであった。
最新の外科手術って目が離せない…。
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