声を届ける時、持つべきは鋭さか。
ちいさな声を広く届けようとする時には、鋭さが必要だ。
どこかに刺さらなければ、こんな情報過多の荒波のような世間では、すぐに沈んでしまう。
まるで、最初からそんな声はなかったかのように。
その鋭い言葉が刺さった先は、どこ?
鋭い言葉には、パワーがある。
断定的な言葉。
厳しい表現。
逃げ場を無くす文体。
そういう言葉は、"ウケ"がいい。大きなムーブメントを引き起こす。誰かの明日を変える。
しかし、どんな力にも同等の反作用が働くように、人の心を突き動かす力は人を傷つける力にもなり得るのだ。
だからわたしは、そういう言葉を使わない。
すべての味方であると決めた。
誰かの敵にならないと決めた。
何かを犠牲にして大きな声を得るよりも、ちいさな声のままでも誰かに手を伸ばすと決めた。
100人を助けて10人を傷つけるのではなく、目の前の10人を抱きしめたい。
だってわたしは、誰かを傷つけるためにこの仕事を選んだわけではないから。
ただただ、誰かの苦しみを軽くして、誰かの幸せに寄与する人生にしたいのだと、そう願っただけだから。
届いたのは、愛。
フリースクールを設立してから、1年半。
有難いことに、何度か講演をさせていただいている。
中村さんのお話を伺って、一つひとつの言葉が刺さりました。
以前、講演終了後にわざわざ声をかけてくださる方がいた。
彼女はひとりのお子さんを育てていて、今は学校に行けていない状態だと言う。わたしの話した内容やこれまでの経験が励みになり、「子どものことをつい急かしてしまうが、じっくり向き合おうと思えた」と聞かせてくれた。
彼女以外にも、保護者の方を中心として何人かの方が声をかけてくださった。直接お話する機会はなくとも、涙ぐむ方や真剣にメモを取る方もお見掛けして。
自分の声はきちんと相手へ届くところまできたのだと、ひしひしと実感できた日。
あの日わたしが求めていたのは、鋭さではなく、愛だった。
*
講演の依頼を受けた瞬間から、誰かを追い詰めるような言葉は使わないと決めた。
フリースクールのサイトを作る時にも、コンテンツを作成する時にも、保護者の方やお子さんの相談に乗る時にも。
目の前にいる人だけでなく、その周りの人や関係のない人も含めて。
誰も責めない、誰も追い詰めない。
そういう言葉を使うと決めていた。
時間の限られた講演の中で、そういった言葉に一切頼らず話すことは正直言えば難しい。
今回の講演内容も、原稿を何度も書き直し、内容を大幅に変更することもあった。
だからこそ、嬉しかった。もらえる感想ひとつひとつが。
あの時彼女に届いたのは、きっとわたしの「愛」だと思う。
届けることより、刺すことより、救うことを選べ。そうすれば、届くから
広く届けようと背伸びをせずとも、どこかに刺されと研がずとも、誰かを救おうと覚悟を決めて誠心誠意向き合えば、声は届く。
その声は、世の中を変革するような力は持っていないかもしれない。世界の明日はきっと変えられない。
けれど、隣で泣いているその子の涙をそっと拭うことはできる。
わたしが不登校支援に関心を持ったのは、もう8年も前のこと。
当時わたしはまだ「当事者」で、自分自身が居場所のなさから苦しみもがいていた。つまりは、お金も力も知恵もない、無力な独りぼっちの存在だった。
鋭い言葉に縋ろうとした日もあった。
なぜこんなにも理解してくれないのかと、周りの大人や思慮の浅い人を批難しそうになる日もあった。
でも、その道は選べなかった。
愛情を持って向き合っている相手を傷つけるかもしれない言葉を、わたしは選べなかった。
理解のない者、危害を及ぼす者、考えの浅い者を糾弾するのは容易い。言い訳の利かない、鋭い言葉を選べばいい。
けれど、違うんだ。それじゃ駄目なんだ。
誰かを締め出す構造は、その分誰かに押し付ける構造でもある。
もちろん、悪意を持って関わってくるものから身を守ることは必要だ。何も考えずにすべてを受け入れるのは、何かを大切にする行為とは言えない。
しかし、すべてを「この人は理解してくれないから」と締め出せば、世界は分断されてしまう。分断された世界では、また別の分断が起こる。
その時犠牲になるのは、あなたの目の前にある小さな命だ。未来だ。
だからわたしは、選ぶのだ。
愛を持って、隣人を支える道を。
たとえ時間がかかっても、労力がかかっても、人生を捧げることになっても。
早く行くことよりも、遠くへ行くことを目指しているから。
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cotree advent note たくさん日目。すごいねぇ。
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