見出し画像

ひとり。

最近、生きるのが辛い。もっとも今に始まったことではない気もするが、昔のはもっと良い人生を生きたいというもう少し前向きな辛さだった。最近の生きづらさは今までに感じたことなかった種類で、じわじわと心を蝕んでいくものがある。

人のために生きたい。

人生は、自分のために生きるにはあまりにもつまらなさすぎた。仕事はなんだか自分のやっていることが何になっているのかよくわからない、少なくともより良いものを作るクリエイティブなことはしてないない。僕がやらなくても誰かが、それももっと早く出来ることだ。僕がやる意味のあることってそもそもこの会社に、いやこの世の中にあるんだろうか。

家に帰ってからやること。掃除、洗濯、食事。全部自分のためだ。やっても何にもならない。やらないとお腹が空くし着る物がなくなるからやるけど。別に美味しく作れたってその美味しさは自分しか知ることなく終わっていく。そして寝なければいけない時間が来る。寝たくないのになぜ寝なければいけないんだろう。それで夜更かしをするから明日が辛い。

ブレイクダンスは、出来ない技が出来るようになる達成感を与えてくれる。随分と救われてきた。だがその作り上げたダンスをオリンピックで披露し誰かを勇気づけているわけでも、舞台に立って誰かの休日を彩っているわけでもない。ただの自己満足であり、僕が今日ダンスを辞めて2度と踊らなくても、多分誰もそのことに気付かない。チームだって僕が声をかけなければ自然となくなるだろう。

最近周りの近い世代の人たちが「パートナー」という言葉をよく使う。文字通り結婚していく友人も多いし、そうでなくてもお付き合いしていて、将来を見据えている人のことをそう呼ぶのだろう。もうカレシ、カノジョの時代を過ぎていってしまったのだなということを感じさせられる。自分にも「パートナー」と呼べる人がいたら、と思う。自分の人生がつまらなくても、その人の人生を支えて、クスッと笑わせられるためになら生きていたい気がする。そんな生き方のスタンスは健全じゃないかもしれないけれど。
パートナーになってくれたらなぁ、と思う存在がいたのだが、その人が僕と同じように僕を必要としている様子はなかったので、その気持ちはなかったことにした。わざわざその人の人生を少し狂わせてまで自分の隣にいてもらったところで、罪悪感しか生まれないと思ってしまった。

友達と会う時も同じことを思う。大体僕から声をかける。もちろん日程を合わせて会いにきてくれるが、僕が声をかけなければもう連絡は2度とこないのかもしれない。何時までなら大丈夫だよ、と言われるとその後には会うべき他の人がいるのだな、わざわざ時間をあけさせてしまってすまないな、という気持ちになり、最近は誘うのも嫌だ。

せめて家族と一緒にいられたらなぁと今更思う。
父と母は何故か海外で暮らしており、祖父母は祖父母でいい感じに疎遠かつ遠方であり、ふらっと身を寄せる場所もない。

幼い頃祖父の運転する車で家族で車に乗り、デパートでわいわい買い物をしていた頃が懐かしい。大人になる、ということは独りになるということなんだな。と気付いた。本当の意味でね。

最近よくする妄想がある。一枚の物凄く素敵で切ない、12曲入りのアルバムを作りたい。それか、ダンスや手品、音楽を詰め込んだ舞台か映画でもいい。何か作品を作って、世に出る前にいなくなりたい。そして僕がいなくなったあとそれを手に取って、僕のことを思い出しながら見て、聴いてもらいたいなと思う。あんなやついたなって。そこそこすごいやつだったんだなって思われたい。

赴任先のど田舎で深夜3時30分、自販機でコーヒーを買い、だだっ広い道路のど真ん中で啜った。ここは真夏なのに夜風が涼しい。この時間だけはいつも僕を救ってくれた。けれどもうこの時間すら僕を助けてはくれない。うすら明るい東の空が明日の出勤時間が迫ってくることを伝えている。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?