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努力と失敗と展望と [7/25〜7/31の日記]

8月ですね。今の暮らしになって4ヶ月が経ちました。
今週の週報です。

7/25(土)

家の売りと買いの契約に。今日だけでどれだけハンコ押したのだろう。朝から夕方まで書面と睨めっこして疲れた。

次住む家は僕と同い年なのだけど、建築当時の間取りの図面を見たら今でいうところの「ダイニング」が「食堂」と書かれていてなんだか力が抜けるような感覚になった。

でも食堂と聞いてから俄然食卓まわりはいい環境にしたいと思えた。

7/26(日)

東京都現代美術館でやっているオラファー・エリアソン展示へ。自覚できること(意思)と制御できないこと(自然)に向き合い、捉え続けることがサスティナブルな世界の実現に近付くひとつの道なのかもしれないなどと思った。


アートとサイエンスとビジョンの掛け合わせは、どことなくカミーユ・アンロの作風に通じるものを感じた。

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こうしたアプローチをする日本人アーティストっているのだろうか?そのあたりも気になった。あまり見かけないのは、ひょっとしたら日本人特有のSNSで荒れる理由のひとつ「門外漢は静かに」の空気感がもしたしたらそのあたりの理由なのかもとも、なんとも勝手な穿った結論に至る。

清澄白河の「L&HARMONY」に立ち寄り、ムーンスター の白キャンバススニーカーを買う。

本当は違う商品が欲しかった。在庫を聞いたら売れ切れとのことで諦めて帰ろうとも思ったのだけど、中国広州出身の店員さんが拙い日本語ながらも積極的に話しかけてきてくれて、その突き抜けた明るさと直向きさについついなにかを返してあげたくなってしまい、お目当ての物ではないけど購入した。

家に帰って履いてみたら思いのほか馴染んできもち良い。楽しかった会話の染み付いたシューズ。これからたくさん履いてあげよう。

7/27(月)

今日は雑談の多い日だった。雑談の中から新しい仕掛けが思いついたり、潜在的に思ってたことが言語化でき頭が整理できたりと、とても充実した気分だった。

ひとつわかったのは、僕は話しながらロジックを組み立てていくタイプなんだということ。だから話さないと自信を削がれるのだと思う。なんとも人騒がせな癖だ

それはそれとして話をじっと我慢して聞いてくれる人たちがチームにいて良かった。ありがたい。

気分転換に本棚から適当に一冊引っ張り出してパラパラとめくれば、今の心情にピッタリの言葉に出会った。茨木のり子の詩集の中にある『知命』の一節。

ある日 卒然と悟られるのだ
もしかしたら たぶんそう
沢山のやさしい手が添えられていたのだ

一人で処理してきたと思っている
わたくしの幾つかの結節点にも
今日までそれと気づかせぬほどのさりげなさで


7/28(火)

昨年取材でご一緒させていただいた「言葉」を生業にしている大先輩の方とお食事させていただいた。さすがに緊張したけれど以前お会いした時と変わらず柔和なお人柄でどんどん引き込まれた。

何せ話が面白い。終始メモが止まらなかった。映画の話から趣味の釣りの話まで。会が終わる頃にはスマホのメモには観るべき映画のストックがたまっていった。

何かの拍子に仕事の話になった。僕の話を一通り聞いた後「僕の60代の課題はね」と彼が抱える課題を話してくれた。60代になり、これだけ実績を抱えた方でも課題があるのかと、勇気づけられるとともに久々にガツンときた。

そういえば、彼の口からは過去の話はほとんど聞かなかった。そういうことなんだと思う。

悩みは尽きない。最近は特に悶々としているし、自信は削がれ続けているのだけど、そんな浮き沈みを何倍も繰り返してきているだろう人が、面白おかしく話をしているのを聞くと、不思議と胃の奥の方から力が漲ってくる

いやはや足りない。失敗が足りない。翌朝スマホの写真のライブラリを見たらこんな写真が残ってた。

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7/29(水)

先の「見通し」と外の「見渡し」
双方ないと足がすくむ。
ではどうしたらいいのか。
そんなことばかり考えている。

7/30(木)

(仕事の話をメモがてら)
今やってるnoteの最終形は「マルシェ」をイメージしている。インナーから一人称として語り始めたり、共創を前提とした「マガジン」設計をしているのもその入り口。マルシェのように世界観の類似した出店者(語り部)とお客さん(読者)のネットワーク構築をコアな活動にしていきたい。

なのでやることと言えば、コンテンツの編集ではなく、「人のスカウト」「活動の集約」になる。そうすれば、いわゆるコンテンツマーケティングと呼ばれる「効果」にシュリンクせずに本来のメディアとしての役割の幅を拡げられると思う。

オウンドメディア、コミュニティはここ1年でまた様変わりしている。端的に言えば、もう「きれいなコンテンツ」(定義は長くなるのでまた今度)だけでは届かない。より個人によった「作品性」か、より過激な「アジテート」、見られるコンテンツはこの両極端になってきている。

だから「きれいなコンテンツ」は強いコミットメントができている共感者からのリファラルに頼らざるをえなくなり、コミュニティありきで語らざるをえなくなる

そしてその肝となるコミュニティだが、ここ数年でより熱量は上がってる反面、もうコミュニティオーナー側のギブだけでは熱量の担保は難しくなってきている。要はコンテンツはますます届きづらくなっている。

反面アーカイブとしてのコンテンツの質は、こと企業発信においてはより求められてくる。SDGs、CSV、企業発信にはミッションとパーパスの発露が「前提」となってくるからだ。

これは「建前」の話ではなく、そうゆう企業にしか優秀な「働き手」がつかないという側面の方が大きいと感じる。だから発信がより求められる。そんな観点から見ればインハウスエディターの価値はより向上していくと思われる。

そうなれば「オウンド」という枠組はもうなくなるのかもしれない。ファンを集めるための熱量の溜め込みと拡散を目指す「コミュニティメディア」と企業姿勢をしっかりと漏れなくわかりやすく伝える「インターナルメディア」に二分していく。

その両側面に係るのはHRとPRの機能。企業発信はもはやマーケティングとは切り離され、マーケティングとしての役割を求められるメディアはシュリンクせざるをえなくなる。

そんなことを最近はグルグルと考えている。

7/31(金)

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忘れたくない
思い出せない
そのあいだに
わたしたちはいる

夕刻、早めに仕事を切り上げて(終わってないけど…)映画『もち』を観に行った。先日食事をした大先輩から、僕が以前お世話になったメディアの編集長がプロデューサーということを教えてもらったのだ。

冒頭のシーンから泣いてしまった。家族のつながり、地のつながり、忘れないためには誰かに伝え続ける努力をしなくちゃいけない。そうおじいさんが孫に語るシーンがあった。「努力」という言葉がこれほど凛とした美しい言葉に映るとは。あと少しだけやっているのでぜひ観てほしい。



ありがとうございます。 サポートって言葉、良いですね。応援でもあって救済でもある。いただいたサポートは、誰かを引き立てたたり護ったりすることにつながるモノ・コトに費やしていきます。そしてまたnoteでそのことについて書いていければと。