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壁打ちしたい[5/30〜6/5の日記]

近所の公園の紫陽花が咲き始めました。
それでは今週の週報です。

5/30(土)

通院のため外出。暑い。雲の形が夏だった。
病院はとある駅前にあるのだけど、ぷらっと数分周辺を歩くだけで閉店のお知らせが貼られたお店が3軒もあった。

街の空気が少しずつ薄くなるような気分になった。

久方ぶりに電車を乗り継いだだけで帰宅時には疲れ果てて午睡を貪ってしまった。

夜は登山家のドキュメンタリー『MERU』を観る。なぜ命を投げうってまで登頂を目指すのか、僕には皆目わからないのだけど、命を賭けるほどのことがあるのは少し羨ましくもある。ラストの表情はほんとに清々しくてグッときた。いい作品だった。

5/31(日)

いつも行っている服屋さんが営業を再開したとのことで3ヶ月ぶりくらいに遊びに行った。

ソーシャルディスタンスを保ちながらアレコレ服談議に華を咲かせ、試着も繰り返していたら気付けば1時間以上経っていた。

服が好きで堪らない人が嬉しそうに薦めてくれるのはこちらも気持ちが良いし、膨大な経験から繰り出される予想もできない提案(しかもピッタリと合う)で思いもよらない発見をさせてくれるのも嬉しい。結果たくさん買い込むことになった。

服屋さんとの関係は、少し「遠い人」であるというのもなんだか心地がいい。こうゆう場所があるというのはなんというかちょっとした安心なのだ。

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それはそれとして、商いの基礎はこうゆうところにあるなぁと再確認した。接客業だけではなく会社の中の仕事においても基本は同じ。だって上司は部下を「買ってくれる」訳だから。

たまに見当違いの期待をされて「買い被り」なんてことにもなるけど。

6/1(月)

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以前仕事で行き、とても感銘を受けた鳥取県の「タルマーリー」からパンとビールが届く。半月ほど前に通販をやっているのを知り買っていたのだ。

パンもビールも美味しいのだけれど、食べながらやはり現地で食べたいなぁと思ってしまった。

外で食べるというのは雰囲気もセットで体験することであることはよく聞く話だけれど、遠出するときにお洒落をするように、外食する時はこちら側も少し背筋を伸ばしているようなところはある。背筋を伸ばすということは「感覚を研ぎ澄ます」ということだ。だから味の機微を感じることができる。家で食べるとぼんやりしてしまう、ような気がする。

あぁ、だからたまにジャンクフードを食べたくなるのか。

6/2(火)

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朝の外の散歩が気持ちいい。昨夜の雨の影響か、近所の公園の咲き始めた紫陽花が濡れていて思わず写真を撮りたくなった。

公園の花々にはご丁寧に名札が立てられている。紫陽花にも種類はたくさんあるようで、まだ咲いていない種類のものもあったから、陰鬱なこの時期にひとつ楽しみができた気分だ。

6/3(水)

ここにきて仕事が忙しくなり始めている。パタパタと新しい動きが出てきた。

リモートの弱点は「壁打ち」ができないことかもしれない。順を追って話し合うことで合意形成するのは、むしろオンラインの方がいいこともあるのだけど、ぼんやりしたものを近い人と投げ合って丸めていく偶然の産物的な「壁打ち」は、遠隔で仕事をしているが故に機会を作りづらい

壁打ちしたい。だいぶ手元にボールが増えてきた。

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そんなことだから夜更けになってもついつい頭こら仕事が離れられない。Twitterでつぶやいていたことを少しまとめてみる。

僕がやっている仕事は、ざっくり言えば地道に社内の声を拾ってコンテンツ化(ストーリー化)して読者の共感を獲得することなのだけど、ここ最近、この活動を見つけた社内の多方面からお客さんとの接点として利用したいという声が上がってきた(遠い海外からも)。

個人的には、コンテンツは外に届けるだけが目的ではなくて、むしろ内側に本来あった「宝」に気付かせ発話のきっかけを作ることだと思ってやってきていたから少しずつ本懐に近づきつつあるようで嬉しい。

なぜ「発話の欲求」が本懐なのか。それは、自身が「物語り始める」ことはこれまでやってきたことや資料にまとめてきたことを「はじめまして」の方に説明するために改めて頭の中を整理整頓ができるからだ。頭の中が整理できれば今度は「上手に」伝えることができる。コンテンツ化するのは、ひとつの手段でしかなくて、本来的なゴールは「上手に伝え続けること」で関係者(味方)を増やすこと

あとは、シンプルに「私が」が主語になるだけで、「誰のために」「どんな価値を与えて」「どんな想いを持って始めて」「どうなってほしい」を語ることでもある。どうしても仕事として物事にあたると、関係者がわかるように(時にその場でしか通じない)フレームに当てはめることがゴールになってしまい、合意形成ができたタイミングで疲れ切ってしまう。

それはそれで大事なのだけど、当初抱いてた想いが遠い彼方に忘却されてしまうことも往々にしてある。だからフレームだけでは満たせない情緒的な部分を取り戻すためにも文章化は必要なのだと思っている。ちなみに、周りを巻き込めている人は言葉にして発信し続けている人でもある。

6/4(木)

ずっと気がかりだった仕事もひとつ前に進めることができてほっと一安心。この案件を通じて新たにひとりの方と知り合うことができて(しかも長く追いかけそうな)嬉しい。

ふと思ったのは、関わるのはもうこれ限りにしたいと思う人もいれば、これからも追いかけたいと思う人もいて、その境目はなんだろうなということで。

これまで関わった人の顔を思い浮かべていたらとてもシンプルで、その人自身が飽きることなく動き続けているか否かでしかないということだった。

当たり前のことだけどちょっと考えさせられるものがあった。僕は今動けているだろうか。

今回仕事で新しく関わることになった方から「人はね、解決できそうな人にしか相談しないんです」という至言をいただいた。そして「解決できると想像できないものは課題として考えることすらしないんだよ」とも。僕は相談を持ちかけられているだろうか。またもや自分に立てる問いができてしまった。

夕方過ぎ、打ち合わせもすべて終わり連絡も途絶えるとようやく頭がまとまってくる。今日もひとつ納期の迫った資料を片付けた。昼時だと全然進まないのに、夕刻以降は効率が3倍増しくらいになる。

いいところで切り上げて今日は終了。

6/5(金)

1週間が恐ろしく早い。同じような感覚の人もチーム内だけでも数人(ほぼ半分)いて、この種の「早さ」はあまりよくない気がしている。

同じようなタイミングで同じような暮らしぶりをしている人たちから「早い」と声が上がるのは、今の暮らしへの「飽き」のサインのような気がしてならない。そうして次に顕れてくるのは「不安と不満の発露」だ。既に世の中的には蔓延しているようにも思えるけれど。

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転職の話題がSNSで流れてきて、僕自身の転職を振り返ってみたら、僕の場合は年収とか肩書き以前に「動けているか」が判断のきっかけになっているようだ。成功とか失敗とか、キャリアアップやスキルアップなどはあまり頭にないようだ(そもそも何をもって成功で、何をもってスキルアップなのだろうか)。

動きがある現場にいるのであればしっかりとコミットできる。動きがないのであれば動きを作るように働きかける。その繰り返しをずっとやってきた気がする。

動き続けていると不思議と外との繋がりも増えてくる。そうするとまた新しい動きを起こしたたくなってくる

そんな繰り返しの中でなんとなく「そろそろかも」と思う時がある。外の動きと内の動きを比較して外の動きの方が活発に見えてくると、途端に今いる場所の空気が薄くなる気がして、息がしやすい場所に移りたくなるようだ

それがいいかどうかはわからないけれど。



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