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「次のオウンドメディア」のための2つの方向性

オウンドメディアの領域に携わってからしばらく経ちました。

昨年出した書籍も執筆自体は2022年の年始頃で(まさに2年前の今くらい)、今読み返すと、もう一部内容については「古さ」が出ているようにも思うんです(とは言え、枝葉のテクニックに拘泥しないようなベーシックで実際的な内容にはしたつもりです)。

そろそろオウンドメディアにはアップデートが必要です。

それもオウンドメディア(というよりwebメディア全体とも言えるかもしれません)のメディアの考え方そのものをドラスティックに変える必要がある。そのことを肌身でヒシヒシと感じながら、昨年は「次」が見えずに(手応えもわからずに)悶々としていました。

今年はオウンドメディアの「次」の萌芽を、ほんの少しでもいいから見出す年なのだと思ってもいます。

私がwebメディアに携わり始めたのは2013年頃で、その頃はまだ「webでメディアを立ち上げコンテンツを発信する」ということに関しては、無邪気に可能性を感じられていたように思います。

そこから約10年が経ち、大きく変わったのは2点でしょう。シンプルに圧倒的に「届きづらく」なってきているという点、そしてコンテンツにかける「コスト」が上がっているという点です。

届きづらいというのは言わずもがなですが、SNSプラットフォームの乱立、エンタメ領域(サブスク系)の拡充です。ショート動画をはじめとした「リッチな」コンテンツが誰でも発信できるようになり、それまでテキスト中心だったwebに「ライトな没入感」を与えることになりました。

結果としてそのライトな没入感は、人を「ひとつのメディア・コンテンツ」に長時間滞在させることが難しくなりました。なにかしらのアプリを立ち上げれば次から次へ「楽しませてくれる」コンテンツがアルゴリズムの強化とともに目の前に現れ、時間を奪っていきます。そういう中で、企業の情報や公式めいた情報はどんどん後手に回っていくことになります。

テキスト中心のweb時代は、SEO、SNSのシェア、ニュースメディア等の「リソース」に頼って集客を期待することができました。なにより、ひと昔前のテキスト中心の時代は、ある程度webに入ってきた時というのは「情報を得るため」という目的が意識的でも無意識的にでもあったように思います。が、今はふた昔前の「テレビをつける」ような感覚でwebに入ってきます。結果としてある程度「能動的に見てもらう」ことを前提としたオウンドメディアにはどんどん分が悪くなってきている、ということかと思います(その結果、今集客に期待されている手法として、最もクローズドなメルマガ(能動的で個人的な「箱」)が注目されている、というのはなんとも皮肉なことです)。

2点目のコストというのは、上記のような「ライトな没入感」のあるコンテンツと闘うための「クオリティの維持」のための実際的なコストと、もう一方では、ライトにするほどに可能性として浮き上がるレピュテーションリスク(要は炎上)に対するコストです。

簡単に見られるものは簡単に評価をされることにも晒されます。そういった「目」をかいくぐりながらも届きうるだけのライトさを担保したコンテンツを作るというのは非常に難しいことなんです。なので、ここでいうコストというのは、こうした"気にかける範囲”が増えたことによるコミュニケーションコストもあります。

とはいえ、こういった課題はもともとありました。

なので私は口酸っぱくオウンドメディアの「評価をいくつも持つ」ことを推奨してきました。
インターナルブランディング、採用等、「多くの人に届けてなんぼ」から距離を置きながらも今の時代に“必要な発信”にすることで、オウンドメディアが「つづく」ものになる、ということを言い続けてきました。

とはいえ、やはりそれでも「どれだけ届くか」は大事な指標であり、そこが限りなく「ゼロ」になってしまうのであれば、メディアとしての存在意義そのものが揺らぎかねないとも思っています。そしてここ数年でより一層その傾向は加速しているように感じます。

ではどうしたらいいのか。コンテンツが届きにくくコストがかかる時代において、何を施したらいいのでしょうか。

詳細の手法はさておき、大きくは以下のふたつの方向かと思います。

①ひたすら丹念に「出面」を埋めていくこと
②「伝わる」スキームそのものを新しく作ること

①については「それができたらやっているわ」と突っ込まれそうですが、もう少し丁寧に伝えるとすれば、先述した企業として伝えなくてはいけないテキストコンテンツを最終到達地点として捉えた上で、ユーザーとそのコンテンツの「間の場所」(要はSNSなど「ライトな没入感」を伴って留まる場所)に、その場に応じた「見せ方」のものを拵えるようなイメージです。

とかくSNSは、メデイアごとに担当がいて、それぞれがそれぞれの考えのもとでクリエイティブを拵えますが、それだと本当にコストがかかり続ける構造になります。そうではなく、最終地点のコンテンツを中心にして、その間を埋めるコンテンツを揃えることで、まずはコストを圧縮できます。

さらには、「間の場所」に合わせたコンテンツを考えるということは、ひとつのコンテンツのコンテキストをしっかりと考えることにもなり、それはインハウスエディターの育成上にも非常に有意義な機会になりえます

とはいえ、これは誰もが考える手法です。肝心なのは② です。

②は昨年末に行ったイベントや、以前ここで伝えた「ほぼ日の学校」ようなことです。企業と届けたいユーザーの「間の場所」を埋めるもののひとつが「人からの発話」です。

結局のところ見知った人やフォローしている人の言葉であれば追いかける傾向はまだ厳然としてあるからです。その人をつかまえ、その人からの発信をつくっていければ、コンテンツそのものは届かなくても、「伝えたいこと」は伝わっていくという仮説が成立します。

noteに参画している企業アカウントは、ある程度の相似性があると思うんです。企業の「人格」を顕すために、広告からは一線を置き、文化的・社会的な視座に立って素直に(たぶん)発信している。特定の企業のファンというよりは、「そういった視座」で企業(もっと言えば社会課題)を見てみたい人は一定数いるように思います
その「文化・社会に耳を立てる」人たちをnote側で「ほぼ日の学校」のように束ねて、その人たちに向けて企業側からお話をする、もしくは企業同士の対談のような形で新しい学びを得るようなイベントを定期的に作り、それをコンテンツ化していく、そういった取り組みができれば、企業からの発信が堅苦しいものだけではなく、よりわかりやすく・面白く伝わるのではないでしょうか。

ついでに、参加者自身もnoteで感想や解釈を広げていけば、コンテンツも拡充していきます。そういう循環が生まれれば、よりオウンドメディアが企業からの発信だけに留まらない取り組み(そしてそれはnoteの街の住民にとっても有意義な場所)になるのではないかと思うわけです。
つまり、シンプルに言えばnoteの中にひとつ「社会科見学」のようなコミュニティが立ち上がるようなイメージです。そしてそれは多分にnoteにとって強い武器にもなるように思うんです(勝手ながら)。

年末のイベントは上記の可能性を探るひとつのきっかけではありました。課題がたくさん見つかる結果とはなりましたが、次やるべきことも少しずつ見えてきてもいます。この辺はまたまとめたいですが、この手のコミュニティ色の出るものは、「共鳴者・協力者の巻き込み方」と「個人の発話(レポート)を通じた擬似体験の拡げ方」がキーだということはわかってきました。

どこまでやれるかは未知数ですが、今年はここにチャレンジしてみたいと思っています。

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確たる根拠はないけれど「そうかもしれない」と思うことは、日々の生活や仕事の中で結構あると思うんです。普段は通り過ぎてしまうそういう感覚が後々顔を出してはヒントを与えてくれることも。正解やノウハウばかりが並ぶSNSでは発言することに気が引けてしまう「なんとなく」を月に2回を目処に書き残していきます。読んだ方々にとって、日常の「小さな兆し」に気づくきっかけになれれば。

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