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【読書メモ】デューイと衝動とプラグマティズム:『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』(谷川嘉浩著)

著者はジョン・デューイを研究する哲学者です。なかなか刺激的なタイトルの本ですが、衝動という言葉をキーワードにし、豊富なコミック作品を中心とした例示を基に書かれているため軽妙で読みやすい本です。それでいながら、ライフキャリアについて深く考えさせられる好著でした。私は、プラグマティズムの思想家ではウィリアム・ジェイムズを好んできたのですが、それは岩下弘史さんという素晴らしいジェイムズ研究者(かつ夏目漱石研究者)がいるからです。本書を読み、谷川嘉浩さんという素晴らしいデューイ研究者がいらっしゃることがよくわかったので、今後はデューイさんにも親しめるかもしれません。

衝動と持続

衝動とは「「将来の夢」や「本当にやりたいこと」を突き抜けて、もっと熱中へと誘ってくれる欲望」(p.17)とされています。ざっくりと言ってしまえば、他者や社会から評価されそうなことであったり、理性で判断できる内容のものではありません。客観的な評価や理性的判断とは異なる源から、自分自身が熱中してしまうものであると著者はしています。

このような捉え方をされているので、衝動とは一時的なものではなく中長期的に継続するものです。つまり、持続するものであると喝破しています。

「何かを学びたい、身につけたい」と思うとき、衝動がその背景にある方がずっと持続するし、遠くまで行くことができます。今の自分の手が届く範囲を超えて、ずっと遠くのものに触れるために何かを学びたいのだとすれば、きっと「衝動」が必要です。自分でも説明がつかないくらい、非合理な衝動が。

p.21

自分でも説明できないというレベルのものであるというのが痺れますね。そのため、内発的動機づけのような一時的なものとは異なり、中長期にわたって自分がとらえられてしまう欲望が衝動なのです。こうした中長期にわたって持続するものだからこそ、学習や習得といったものに結びつくということのようです。

偏愛から衝動へ

では自分自身の衝動を捉えるためにはどうすればよいのでしょうか。探究する上では、自分自身の偏愛がヒントになるようです。この偏愛に関して、「好き」との違いを基にした著者の解説も奮っています。

「偏愛」の視点は、「好き」の細かなコンテクストの違い、質的な違いに注意を向けます。偏愛は、フラットに並べて語ることができるものではないのです。

p.53

私たちは好きなものについては異なるジャンルのものを並列的に並べることができます。たとえば、読書、温泉、ビール、美術館、といった趣味や嗜好と呼ばれるような自己紹介でライトに語れるものは「好きなもの」でしょう。

他方で、キャリア・アダプタビリティに関する先行研究を飽きもせずに積み重ねること、マラソンで自己ベストを更新し続けるために毎回のトレーニングの内容を記録し内省し続けること、文章のアウトプットを継続し毎日何らかのnoteを更新し続けること、といったレベルのものは、趣味や嗜好ではなく偏愛と言えるかもしれません。要は「なんでそんなことするの?」と他者から尋ねられ、それに対して自分自身でもうまく説明しきれないものが偏愛ということなのではないでしょうか。

こうした自分にとっての偏愛について考え、多角的にとらえていくことによって自分自身にとっての衝動に迫ることができるようです。

衝動は、偏愛を丁寧に解釈することで把握できることになります。つまり、特殊で細かな個人的欲望である「偏愛」をほどほどに一般化すれば、自分の「衝動」がどんなものなのかを言い当てることができるわけです。衝動とは、解きほぐされた偏愛にほかなりません。

p.55

デューイ登場

ここまでの内容を読むと、私たちの内側にある衝動に忠実に生きていれば良いと著者は主張していると思われるかもしれませんが、違います。面白いのはここで著者が研究しているジョン・デューイの考え方が出てくるところなんですね。

 これらの事例から、たとえ衝動に基づく行為をするときだとしても、周囲の環境をよく観察し、それらと協調することは大切だとわかります。つまり、衝動を自分の内側にだけ関係するものとして捉え、環境を無視することには問題があるわけです。衝動だけを見ていては、衝動の実行すらままなりません。
 言い換えれば、デューイは、自分の衝動や関心にとにかく忠実でありさえすればいいという立場を批判しています。無批判に衝動に振り回されるのは、自分の意志を放棄するようなものであり、これもまた別の奴隷状態だと彼は考えました。

p.98-99

内側にある衝動を外化する際には周囲との相互作用が大事である、というわけですね。このあたりはデューイのプラグマティズム的な考え方が満載で個人的には好物な考え方です。環境との相互作用を踏まえて衝動を目的へと落とし込むことが大事だとして、三つのポイントを提示してくれています。

①環境を観察すること
②記憶を探索すること
③意味を判断すること

バックキャスト型キャリアデザインの機能不全

こうした著者のアプローチは、環境を静態的に捉えてバックキャストでキャリアを捉えるという意味でのキャリアデザインとは相容れません。

そもそもキャリアデザインは、「自分の人生を自分で設計する」ことを標榜しています。その役割を果たすために、未来の自分が過去や今の自分と本質的に同質的であると前提せざるをえません。未来像から逆算するとしても、今の私が想定可能な範囲で考えるほかないという意味で、未来にいる自分は今の私と質的に同じです。従って、キャリアデザインは、自分の「溜め」を抑圧・無視した上で未来を思い描くことを暗に求めざるをえないわけです。

p.125

未来からのバックキャストというと聞こえは良いですが、今の私が想定する未来は今の私が見通す「未来」でしかありません。そのため、今の私の価値観は変わらず、今の私に依拠した線形的な未来です。ここには環境と相互作用しながら衝動から目的へと落とし込むというダイナミックさは抜け落ちてしまうといえます。

著者のアプローチをキャリア論に照らし合わせるとプランドハプンスタンス理論のようなテーストを感じます。プラグマティズムでキャリアを捉えるとプランドハプンスタンスになるということかもしれず、なかなか興味深いものですね。

プラグマティズムと衝動

ここから著者の主張はさらに、私の偏った見方のせいか、プランドハプンスタンス理論にしか読めなくなってしまいます。たとえば以下の記述です。

他人の成功譚を聞くことよりもっと大切だと私が思うのは、成功が保証されていない状況で、なんとなく一歩を踏み出してみる非合理な衝動です。つまり、失敗するかもしれない状況で、とりあえず動いてみる意味不明な好奇心のこと。その佇まいをあえて言語化するなら、意味不明なほどの熱量、先が見えないのに一歩進む非合理な勇気とでも呼ぶべきものだと思います。

p.176-177

好奇心に基づいて一歩を踏み出してみるというような話は、花田先生のプランドハプンスタンス理論(とトランジション理論とを統合したキャリア論)の考え方そのものにも読めてしまいます。

こうした著者の衝動に関する主張は、デューイをはじめとしたプラグマティズムと整合したもののようです。

 私が専門家として研究してきた「プラグマティズム」という哲学の立場は、何にもまして、この実験精神を大切にしてきたし、それを尊重する文化を社会の中に根づかせようとしてきました。
 プラグマティックであるとは、飽くことのない実験精神を持つことです。言い換えると、衝動はプラグマティックな実験の営みを駆動するエンジンのようなものなのです。

p.178

プラグマティズムの実験精神が、衝動に基づいた一歩の踏み出しというキャリアのアプローチにまでつながっているのですね。プラグマティズムを知り、デューイと親しくなるために、著者の書籍をまた読んでみたいなと思います。

本書に興味を持たれた方へ

著者である谷川嘉浩さんを初めて知ったのはインタビュー記事です。中原研の先輩である東南裕美さんがSNSで紹介されていた以下のnoteを読んで、この方のデューイ解説ならわかるかも!?と思ったのがきっかけです。(東南さ、ありがとうございました!)

本書の内容に興味を持たれたら、この記事に目を通してみてから買われても良いかもしれません!


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