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【読書メモ】習慣は社会的に構築される!?:『ブルデュー『ディスタンクシオン』 2020年12月 (NHK100分de名著) 』(岸政彦著)

「100分de名著」でブルデューの『ディスタンクシオン』を扱った回は、岸政彦さんの解説ということもあって毎回たのしみに閲覧していました。先日、書籍で読み直しましたが、これはこれでじっくりと読めて良いです!今回は、ハビトゥス(通常は習慣と訳されますが、傾向性や性向とも表現されています)について見ていきます。

社会的に構築されるハビトゥス

趣味について考えてみてください。野球が好き、〇〇の音楽が好き、小説ならXX、といった具合に私たちは自分が好きなものを自分で選んできたと考えます。しかし、ブルデューはこの点に疑問を持ち、家庭や学校など経験してきた社会的環境によってハビトゥスは構築されると考えます。

著者が提示しているピアノのレッスンを受ける子どもの例はけっこう怖いなと思って読みました。自宅にピアノがある、ピアノの先生との人的な繋がりがある、ピアノを習っている友人がいる、レッスンを受けるだけの経済的なゆとりもある、といった環境があることで子どもはピアノのレッスンを受けるようになります。つまり、ピアノを習いたいという欲求は、独立した意志というよりも社会的に構築される傾向性、すなわちハビトゥスの一つと考えられるわけです。

怖いのはここからです。ピアノをはじめとした習い事には、他の欲求を我慢したり優先順位づけをして自分自身を統御する経験を伴うものが多いでしょう。また、努力を継続することによって、より難しい曲を弾き切るという成果を得て、達成感や自己効力感を得ることもあります。つまり、努力したり高い目標を設定するといったハビトゥスを獲得する可能性が高まります。こうした環境から孤絶した状態では、そもそも努力とは何かを感得する経験が得られず、習い事をすることによって得られるハビトゥスを得られない可能性があるのです。

ハビトゥスが人を分類する

私たちは通常、自分たちのハビトゥスによって趣味や好みを選んでいると考えます。大学も、職業も、人生の伴侶も、自分の意志によって選んだと考えがちです。ブルデューはこのような考え方を否定するのではなく、ハビトゥスの側から人間を捉えると違うように見えると説いています。

ハビトゥスから人間を眺めてみると、同じハビトゥスに複数の人間が集まってくるように見えます。つまり、私たちは個人として世界の主人公のように世界を解釈しますが、ハビトゥスから見ればハビトゥスが人を分類しているというように解釈できるのです。私たちの主体性の根源を疑われるような、ちょっとこわい考え方にも思えますが、最終的に著者は肯定的な捉え方へと回収するのでこの後をお待ちください(あるいは本書を買って「第四回」をお読みください)。

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