【読書メモ】教養と偏愛とプラグマティズム!?:『鶴見俊輔の言葉と倫理:想像力、大衆文化、プラグマティズム』(谷川嘉浩著)
鶴見俊輔の哲学を扱った谷川嘉浩さんの『鶴見俊輔の言葉と倫理:想像力、大衆文化、プラグマティズム』がとにかく面白いです!先日のnoteでは第四章を中心に扱いましたが、今回は主に第五章「鶴見俊輔は、なぜ「コーヒーを飲むためなら世界が破滅してもかまわない」と言ったのか」の中から特に興味深かった点の所感を記します。
教養と学び
このnoteのタイトルの前半に「教養と偏愛」と銘打ちましたが、鶴見の教養の捉え方はなかなか面白く、言われてみれば納得感があります。
「学び→教養」ではなく「教養→学び」という順序であるというのは面白い発想ですよね。(奨学金のために成績が必要な学生を除いて)大学や大学院に入って成績を気にしたり、効率よく単位を取ることを誇らしげにしている人が私には全く理解できなかったのですが、教養をベースとした学びにおいては外的基準は気になりません。好きだし面白いと感じるからその対象を学ぶ、ただそれだけだと思います。
好きであることは根源的な欲動であるとしています。だからこそ、大学においても好きな科目では結果的に良い成績になり(興味のない科目は散々な成績かもですが)、科目数の少ない大学院であれば結果的に成績優秀と見做されることもたまにはあるのでしょう。
偏愛と他者
こうした偏愛とも言えるような根源的な好きという感情は、個人の学びにつながるだけではありません。
こだわりをベースに学んでいくのは、個に閉じるのではなく他者に開く学びと言えるのかもしれません。学ぶための環境に心を配って大事にする、ということなのでしょう。
よくなんでもかんでもこだわって我を通そうとする人がいますが、こうした態度はベースに教養がなく単なるわがままなのかもしれません。教養をベースにした偏愛は、特定の対象に対してだけこだわって、それ以外には寛容になるというリベラルな姿勢に至ると鶴見はしていたようです。
そしてプラグマティズムへ
教養と偏愛といったキーワードを基に、個人の学びやそれを他者に開いて共同していくというプロセスはプラグマティズムへと繋がるようです。
こうしたIとmeのあたりはプラグマティズムの中でもとりわけジョージ・ハーバート・ミードの色合いが濃いように思います。実際、第六章での以下の解説を見てみるとミードに依拠している部分が多いように感じます。
最後まで目を通していただき、ありがとうございました!