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【読書メモ】教養と偏愛とプラグマティズム!?:『鶴見俊輔の言葉と倫理:想像力、大衆文化、プラグマティズム』(谷川嘉浩著)

鶴見俊輔の哲学を扱った谷川嘉浩さんの『鶴見俊輔の言葉と倫理:想像力、大衆文化、プラグマティズム』がとにかく面白いです!先日のnoteでは第四章を中心に扱いましたが、今回は主に第五章「鶴見俊輔は、なぜ「コーヒーを飲むためなら世界が破滅してもかまわない」と言ったのか」の中から特に興味深かった点の所感を記します。

教養と学び

このnoteのタイトルの前半に「教養と偏愛」と銘打ちましたが、鶴見の教養の捉え方はなかなか面白く、言われてみれば納得感があります。

鶴見は順序を逆転させている。何かを学ぶことで教養を身に着けるのではなく、教養を身に着けた上で物事を学んだ方がよい、と。「教養」と呼ばれているのは、面白いと思うことを見つけていく力のことであり、「教養」があるからこそ、人は色々なことを学ぶことができるとまで鶴見は考えている。
 大学について言えば、この意味での「教養」、つまり、物事の面白がり方が身に着いていなければ、十分満喫することができない。

p.296

「学び→教養」ではなく「教養→学び」という順序であるというのは面白い発想ですよね。(奨学金のために成績が必要な学生を除いて)大学や大学院に入って成績を気にしたり、効率よく単位を取ることを誇らしげにしている人が私には全く理解できなかったのですが、教養をベースとした学びにおいては外的基準は気になりません。好きだし面白いと感じるからその対象を学ぶ、ただそれだけだと思います。

「教養」ある姿勢は、「好み」という根源的欲動に支えられて、自分で面白いと感じる物事をどこまでも追求していく姿として位置付けられている。

p.297

好きであることは根源的な欲動であるとしています。だからこそ、大学においても好きな科目では結果的に良い成績になり(興味のない科目は散々な成績かもですが)、科目数の少ない大学院であれば結果的に成績優秀と見做されることもたまにはあるのでしょう。

偏愛と他者

こうした偏愛とも言えるような根源的な好きという感情は、個人の学びにつながるだけではありません。

「好き」は、自分が想像や学習を積み重ねていく基点になる。つまり、他者や世界との関わり方を教えてくれるのだ。

p.298

こだわりをベースに学んでいくのは、個に閉じるのではなく他者に開く学びと言えるのかもしれません。学ぶための環境に心を配って大事にする、ということなのでしょう。

 共通感覚を停止することで発見された好みに基づいて共同性が構想されるとき、そこには極端な寛容さが現れる。それは言い換えれば、これだけは譲れないという好みを除いて、他のことは「大まか」になるということである。

p.300

よくなんでもかんでもこだわって我を通そうとする人がいますが、こうした態度はベースに教養がなく単なるわがままなのかもしれません。教養をベースにした偏愛は、特定の対象に対してだけこだわって、それ以外には寛容になるというリベラルな姿勢に至ると鶴見はしていたようです。

そしてプラグマティズムへ

教養と偏愛といったキーワードを基に、個人の学びやそれを他者に開いて共同していくというプロセスはプラグマティズムへと繋がるようです。

自分の配役への自覚、つまり、役割をあえて引き受ける姿勢は、役割と自己が癒着している状態から立ち上げることはできない。自分と配役にズレがないなら、「何か役割を引き受けている」と考えることはできないからだ。しかし、ニヒリズム(虚無主義)を経由した自己であれば、役割と自己との間にわずかな空隙を作ることができる。究極的には自分を突き動かす謎の衝動(=好み)のほかには何もなく、あらゆることが意味を疑われているため、自分(I)と自分(me)の間には空虚が横たわっている。

p.305-306

こうしたIとmeのあたりはプラグマティズムの中でもとりわけジョージ・ハーバート・ミードの色合いが濃いように思います。実際、第六章での以下の解説を見てみるとミードに依拠している部分が多いように感じます。

 他者が内側に侵入するというイメージを語るとき彼の念頭にあるのは、子どもが周囲の大人を内面化していく時のように、他者を内に取り込み自己の一部に変えていくプロセスである。(中略)こうした議論は、プラグマティストのG・H・ミードが他者の役割取得(taking the role of the other)について語ったことを下敷きにしたものだろう。

p.330

最後まで目を通していただき、ありがとうございました!


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