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【読書メモ】『客観性の落とし穴』(村上靖彦著)
客観性って何なんでしょうか。企業で働いているとさまざまな施策の効果性について、客観的なデータに基づいて示すように言われることがよくあります。なかには無理やりデータで示しているだけなんじゃない?というようなものもあります。客観的であることを過剰に求める風潮に対して警鐘を鳴らす本書は、今こそ読みたい書籍と言えそうです。
過剰なデータ志向
著者は数字で示すことそのものを否定的に捉えているわけではありません。
とはいえ数字を用いる科学の営みを否定したいわけではない。数字に基づく客観的な根拠はさまざまな点で有効であるし、それによって説明される事象が多いことは承知しています。それでも、数字だけが優先されて、生活が完全に数字に支配されてしまうような社会のあり方に疑問があるのだ。数字への素朴な信仰、あるいは数値化できないはずのものを数字へと置き換えようとする傾向を問いなおしたい。
数値化することの有効性は認めながら、過剰に数値化することに警鐘を鳴らしているということを意識することが重要そうです。では、なぜ私たちはそれほどまでにも客観性を重んじるようになったのでしょうか。
客観思考の源泉
個人の個々別々の経験ではなく、抽象化された客観性を重視するようになったのはデカルト以降のようです。
内省を中心に発展した西洋近代哲学は、経験から切り離された、確実性を持つ「自己」を哲学の基盤に捉えようとした。デカルトの「我思う故に我あり」も、うつろいゆくあやふやな私の経験のことではない。経験がどう変化し、あるいは夢や幻覚におちいって不確実になったとしても、悪い霊に騙されて間違った思考をしているのだとしても、”考える”という運動そのものはたしかに存在する。不確実な経験からは切り離された、確実に存在する思考の確保こそが、デカルトにおいては問題となっていたのだ。
繰り返しになりますが、抽象化や客観性はそれ自身がネガティヴな作用をもたらすものではないのでしょう。過剰に客観性を重視することで個別の経験が蔑ろにされてしまう、ということが問題なのでしょう。
人間の序列化
数値化されるということは、その数値によって他者と比較可能になるということを意味します。
私たち一人ひとりの経験は、客観性に従属するものに格下げされてきた。数値によって人間が序列化されたときには、一人ひとりの数字にはならない部分は消えてしまう。
比較可能になるということは、その数値で示されている人物同士を序列化するという結果につながるとしています。数値化されるものに基づいて人や組織の価値が決められ、数値化できないものは除外されてしまうというのはなかなか怖いことですね。
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