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劇場版 『ビリー・ジョエル:ライヴ・アット・ヤンキー・スタジアム』

長期間にわたってヒット曲を増産してきたアーティストの全盛期について語ることは難しい。

まずは、全米ナンバー1 ヒットが11曲もあるホイットニー・ヒューストンについて考えてみよう。

単純に首位獲得週数でいえば、最大のヒット曲は14週連続ナンバー1となった“オールウェイズ・ラブ・ユー”(現在の邦題はラブではなくラヴ表記)であり、アルバムのセールスでは同曲を収録した主演映画『ボディガード』(1992)のサントラ盤が最大のヒット作となっている。だから一般的な認識ではこの頃が全盛期なのかも知れない。

でも、このサントラ盤から全米ナンバー1 ヒットとなったシングルはこの曲だけだ。しかも、サントラ盤収録曲の半分は他のアーティストの楽曲だ。

毎週、全米チャートをチェックしている者からすると、この時期を全盛期とは呼びたくないという思いの方が強い。

1985年の1stアルバム『そよ風の贈りもの』からは3曲、87年の2ndアルバム『ホイットニーII〜すてきなSomebody』からは4曲のナンバー1 ヒットが生まれている。しかも、この合わせて7曲は注釈つきではあるものの(元々はB面曲だった楽曲がポップチャートではヒットしなかったもののR&Bチャートではヒットしている)、連続でナンバー1 となっている。

そして、この2作のアルバムはいずれも全米アルバムチャートでナンバー1に輝き、ダイヤモンドディスク(フィジカルの出荷やダウンロードのセールス、ストリーミングの再生回数などが合わせて1000万枚以上相当)に認定されている。

この快進撃をリアルタイムで経験していた者からすると、全盛期は最初の2枚のアルバムの頃になるのではないだろうか。

続いて、エルトン・ジョンについて考えてみよう。

エルトンは去年、デュア・リパとのコラボ曲“コールド・ハート”で実に22年ぶりとなる全米トップ40ヒットを放った。
自身の過去曲をサンプリングして若手アーティストとのコラボで再生させた楽曲なので、純粋な新曲でのヒットではないものの、久々にエルトンがチャートに帰ってきたのは嬉しい出来事だった。
そして、今年もコラボによる過去曲再生路線でブリトニー・スピアーズとの“ホールド・ミー・クローサー”がヒットしている。

そんなエルトンは実は1970年から99年まで30年連続で全米トップ40ヒットを放っていた時期があった。
同じ曲が複数年にまたがってヒットしたおかげだったり、過去曲のライブ・バージョンがヒットしたおかげだったりと、かなり苦しまぎれで記録を伸ばしていたこともあったけれど、この記録はおそらく、今後破られることはないと思う。
最新の全米トップ40チャートにランクインしているアーティストのほとんどが2000年代以降にデビューしたアーティストだからね。
ストリーミング時代になって(というか、その前のダウンロード時代から)、ベテランアーティストの楽曲はヒットしにくくなってしまったからだ。
ビヨンセが今夏ヒットさせた“ブレイク・マイ・ソウル”なんて、フィーチャリングアーティストとして参加のものを除けば、彼女にとって実に14年ぶりの全米ナンバー1ヒットだった(ちなみに彼女は数少ない90年代以前からトップ40ヒットを放っているアーティストの1人で、初ヒットはデスティニーズ・チャイルド時代の98年に記録している)。ビヨンセあたりですら、ヒット曲がなかなか放てなくなっているんだから、そりゃ、30年連続ヒットなんて無理だよね。色々なチャート記録を持っているドレイクが15年後も全米トップ40ヒットを連発しているとは思えないしね。

話をエルトンに戻そう。
シングル盤の売上枚数、首位獲得週数で言えば、エルトン最大のヒット曲はダイアナ妃追悼ソングとしてリリースされた“キャンドル・イン・ザ・ウィンド1997”だ(自身のオリジナル・アルバムからのシングル“ユー・ルック・トゥナイト”との両A面)。ダイヤモンドディスクに認定され、14週連続で全米チャートの首位に立ち、97年度の年間チャートでも1位を獲得している。
でも、この曲は70年代に発表され(米国ではシングルカットされなかったが)、80年代にライブ・バージョンで再ヒットした楽曲の歌詞を一部変えてリリースした再々ヒットに過ぎない。

なので、この頃をエルトンの全盛期と呼ぶ人はほとんどいないと思う。

一般的には70年代がエルトンの全盛期とされているようだが、80年代にリリースされたアルバムにも複数の全米トップ40ヒットを放ったアルバムが複数ある。というか、ミュージックシーンがガラリと変わった92年リリースの『ザ・ワン』ですら、3曲の全米トップ40ヒットを生んでいる。
また、30代以下のリスナーにとっては1994年のディズニー映画『ライオン・キング』のサントラを手掛けた人というイメージも強いと思う。しかも同作の主題歌“愛を感じて”はアカデミー賞も受賞している。なので、全米チャートに、洋楽に興味を持った時期がいつかによって、エルトンの全盛期というのは違うのではないかと思う。

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やっと出番となったが、本稿の主人公、ビリー・ジョエルもそうした、リスナーによって全盛期がいつかの定義が変わるアーティストの1人だ。

日本基準で考えても考え方は色々ある。

ロートル音楽雑誌では“ピアノ・マン”収録の『ピアノ・マン』(1973)、“素顔のままで”や“ストレンジャー”など収録の『ストレンジャー』(1977)、“オネスティ”など収録の『ニューヨーク52番街』(1978)なんて辺りの70年代の作品に固執する世代が多いようだ。

しかし、既にバブル世代もアラ還になっているので、“ロックンロールが最高さ”収録の『グラス・ハウス』(1980)や“アップタウン・ガール”、“あの娘にアタック”など収録の『イノセント・マン』(1983)がリリースされた頃のビリーを全盛期としている人もかなりいる。

また、90年代はCDがよく売れた時代だったので、現時点ではビリーの“最新の”オリジナルアルバムとなっている(クラシック作品を除く)1993年の『リヴァー・オブ・ドリームス』は日本でもヒットした。全米チャートではこのアルバムから3曲のトップ40ヒットが生まれている。

でも、個人的には89年に『ストーム・フロント』をリリースした頃が全米ヒットチャート的には人気のピークだったのではないかという気がする。

ビリーが生まれてからこの曲がリリースされるまでの40年間の近代史を振り返る内容の1stシングルの“ハートにファイア”は全米ナンバー1となり、米国では学校教材としても使われた。

このほか、2ndシングルの“愛はEXTREMES”も全米トップ10入り。第5弾シングルの“アンド・ソー・イット・ゴーズ”もトップ40入り。このほかにも2曲が100位以内に入っている。
さらに、アルバム収録曲だった“シェイムレス”が91年にカントリー歌手ガース・ブルックスによってカバーされ、カントリーチャートでナンバー1 になったことから、ビリー自身のオリジナル・バージョンもアダルト・コンテンポラリーチャートでヒットすることになった。

80年代洋楽人気は根強いなどと言われているけれど、実は日本では88年から91年くらいの期間って、あまり洋楽は売れていなかったんだよね。
邦楽曲を洋楽アーティストがカバーしたやつとか、埋もれかけていた名曲を日本のテレビドラマのテーマ曲にしてヒットしたとか、日本独自の洋楽ヒットを除くと、洋楽人気はイマイチだった。そんな時期にリリースされた作品なので、『ストーム・フロント』は日本では過小評価されているようにも見えるが(米国ではイマイチのセールスだった86年の前作『ザ・ブリッジ』の方が日本では知名度が高い気もする)、今回のライブ映像を見ると、やっぱり、この頃のビリーは“全盛期”だったんだというのを改めて実感せずにはいられなかった。

このライブ映像作品は史上初めてヤンキー・スタジアムで行われたロックコンサートの模様を収録したものということで、球場内で撮影されたインタビューも挿入されていた。
その中ではビリーの野球に対する思いなども語られていて、それがちょっと感動的だった。

また、ビリーが球場のあるブロンクス出身ということもあり、ライブでも“ニューヨークの想い”や“アップタウン・ガール”といったニューヨークにちなんだ楽曲で観客が大いに盛り上がっている様子を確認することができた。これも感動的だった。

そして、観客のリアクションと言えば、ビリーに花束を渡そうと前方席にいる女性ファンが一生懸命だったことが印象的だった。(本公演が開催された)1990年の米国でも日本の昭和のアイドルのコンサートとか演歌歌手のディナーショーみたいなことをやっていたのかというのが衝撃的だった。

そして思った。ビリー・ジョエルって、“ピアノ・マン”というイメージのせいで、シンガーソングライター的に思われることが多いけれど、こうやってライブ映像を見ると、やっている音楽は完全にロックだね。特に『ストーム・フロント』収録曲はロックだ。

それにしても、いつの間にかビリー・ジョエルってハゲた太ったオッサンになってしまったが、この頃は女性がキャーキャー言うようなアイドル的なルックスだったんだね。既にこのライブの時点で40代に突入していたけれどね。

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