見出し画像

THE BATMAN-ザ・バットマン-

本作は全米興行収入ランキングでは3週連続で首位を獲得し、トータルの興収も3億ドルを突破している。コロナ禍になってからでは、「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」に次ぐ2番目の特大ヒットとなっている。しかも、上映時間が2時間56分という超長尺作品であるにもかかわらずだ。

ところが日本では、観客動員数ランキング初登場3位と、かなり物足りないスタートとなってしまった。2週目で“順調に”ランクを落としていることを考えると、「バットマン」関連でいえば、「ジョーカー」の50億円超どころか、「ダークナイト」の16億円を超えるのも難しいのではないだろうか。

コロナ前から、邦高洋低とか洋画不振と言われていたが、コロナ禍になって、それは一気に加速した。

大作・話題作の公開延期が相次いだことで、映画マニアでない人たちが見たいと思う洋画の供給が減り、洋画に接する機会が失われてしまった(=洋画に対する興味が失せた)。

ハリウッドの大手スタジオが劇場公開と同時に配信したり、劇場公開を優先しても1ヵ月半後には配信がスタートするなど、配信ビジネスで稼ぐ方向にシフトしたことにより、洋画好きの間で、ハリウッド映画は配信で見るものという考えが浸透していった(特にディズニー映画はその傾向が強い)。

などといった事情もあるだろうが、個人的には、上映時間の長いハリウッド映画が増えたというのも洋画離れの要因の一つではないかと思う。

配信映画とは異なる大作感をあおるために上映時間が長くなっているのではという意見もある。
確かに、1950年代から60年代にかけて、シネスコサイズの長尺大作映画の公開が相次いだのは、当時勢いを増していたテレビに対抗するためであったことは間違いないと思う。

でも、最近の長尺傾向はそれとは違うような気がするんだよね。

配信で映画を見る人が増え、そういう人の中には一気に見ずに、何度かに分割して鑑賞する(今日は前半だけ見て、明日は後半を見るみたいな鑑賞方法)人も結構いる。Netflix作品「アイリッシュマン」が3時間29分もあるのは、明らかにそういう見方の人がいることを意識したものだと思うしね。
つまり、配信だと上映時間を気にする必要がないというのが大きいのだと思う。
シリーズものでは、各エピソードの尺が統一されていない作品がある。第1話とか最終話の尺が違うというのは分かるけれど、途中でも尺がバラバラだったりするしね。第2話は23分なのに、第3話は25分とかね。
だから、映画に関しても、無理して2時間に収めなくてもいい。あくまで劇場公開は配信に先駆けたプロモーション(日本のOVAのイベント上映みたいなもの)という考えになっているような気もするんだよね。

そして、何故、コロナ禍になって、日本人が長尺映画を避けるようになったかと言うと、理由は明白だ。マスクを着用しながらの鑑賞に負担を感じているからだ。

海外では、入場時にマスク着用を義務付けていても、ほとんどの人がドリンクを飲んだり、ポップコーンを食べたりしながら、ペチャクチャ、連れと会話しながら見るが、日本だと、休憩時間はうるさくても、本編上映中は黙って見ているし、正直に口にものを運ぶ時だけマスクを外している観客も多い。本作のような上映時間約3時間の作品であれば、本編前のCM・予告を含めれば、3時間15分くらいになってしまう。
マスクを着用したまま、ずっと黙って、前を向いて見るというのは、かなりつらいことだしね。
特に、若者世代なんて10分の動画だってあきてしまうくらいだから、マスクをしたまま3時間以上、同じものを見続けるなんて難しいんだろうね。

最近の日本映画にミニシアター系を除けば、上映時間2時間半以上の作品が少ないのは、そうした日本の観客の特性を考慮したものなんだと思う。

上映時間2時間28分の「燃えよ剣」が11億円台と何とか大台にのせられたのはジャニーズメンバー主演のおかげだし、2時間35分の「シン・エヴァンゲリオン劇場版」が興収100億円を突破できたのもテレビシリーズ、旧劇、新劇を含めた全てのエヴァンゲリオンの完結編という一種のイベントだったからだと思う。
要はジャニーズやアニメ絡みでなければ、長尺の邦画のヒットは難しいということだ。
アート系作品の「ドライブ・マイ・カー」(2時間59分)が、欧米の賞レースを賑わせているのにもかかわらず、現時点では興収10億円にも到達していないのは、ジャニオタやアニオタのような信者を除けば、結局、一般の映画ファンには長尺映画は避けられているということなんだと思う。

洋画では2時間44分の「007/ノー・タイム・トゥ・ダイ」が興収27億円突破と健闘したが、これも、ダニエル・クレイグ版ジェームズ・ボンドの最終作というイベントごとがあったからだと思うし、2時間29分の「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」が40億円を突破したのも、この20年間の「スパイダーマン」3シリーズを総括するものだったからだと思う(そういう意味では「シン・エヴァンゲリオン」と同じ)。

そう考えると、完結編的作品でもない2時間23分の「ワイルド・スピード/ジェットブレイク」が興収36億円を突破したのは異例中の異例の大ヒットであり、いかに、「ワイスピ」ブランドが日本に浸透しているかということなのだと思う。

ということで、2時間56分もある本作の話に戻りたいと思う。まずは、「バットマン」という映画コンテンツ自体について語っておこう。

連続活劇時代の作品や昔のテレビシリーズの劇場版、アニメーション作品、レゴムービーのバットマン版、スーパーマンなどと共演したクロスオーバー作品、それに、ジョーカーになると思われる人物の過去を描いた「ジョーカー」を除くと、実は純粋なバットマン映画ってそんなにないんだよね。

ティム・バートン監督、マイケル・キートン主演で1989年に始まったシリーズ全4作は、3作目では監督がジョエル・シュマッカーにかわり、ティム・バートンが製作総指揮に。主演もヴァル・キルマーに交代。4作目ではティム・バートンが製作総指揮からも外れ、主演もジョージ・クルーニーに交代したものの、ジョエル・シュマッカーは監督として続投という変則的なものだった。

2005年に始まった「ダークナイト」トリロジーは3作とも、クリストファー・ノーラン監督、クリスチャン・ベール主演による布陣で作られた。

ぶっちゃけ、バットマン単独映画って、今まではこれだけしかないんだよね。つまり、本作は8本目のバットマン単独映画ということになる。

2002年にソニー・ピクチャーズでスタートした「スパイダーマン」が、アニメーション作品やスピンオフ、スパイダーマンが登場するマーベル・シネマティック・ユニバース作品を除いても、現時点では既に3シリーズ計8本あるから、スパイダーマンよりスタートがはやいバットマンが今回でやっと8本目というのはちょっと少ない気がするかな。

それではやっと本題に入りたいと思う。まぁ、長さを全く感じなかったと言うと、ウソになってしまうが、2時間56分もあったとは思えなかったくらいには感じたので、つまらなくはなかったと思う。

というか、これはアメコミ映画やヒーロー映画ではないね。そういうシーンは終盤だけ。
クライム・サスペンスとか、フィルム・ノワールみたいなジャンルにカテゴライズした方がいいと思う。ぶっちゃけ、ノーラン3部作よりもアメコミ映画要素は薄いと思う。
ほとんどの場面が夜だし、やたらと雨が降っているシーンだらけだしね。本当、ダークな内容だと思う。

でも、そういう内容だからこそ、作中で複数回使われる“アヴェ・マリア”とニルヴァーナ“サムシング・イン・ザ・ウェイ”というタイプの違う2大主題歌(?)がピッタリとはまるんだよね。
この映画のおかげで、“サムシング・イン・ザ・ウェイ”がリバイバル・ヒットしたのも納得だ(正確に言うと、アルバム『ネヴァーマインド』リリース当初はシングル・カットされていないからリバイバルではないんだけれどね)。

音楽絡みでは、レニー・クラヴィッツの娘ゾーイがキャットウーマン(作中でははっきりとそう呼ばれてはいないが)役で出ているが、表の活動をしている時に、カツラをかぶって登場するシーンがあるけれど(カツラをかぶっている時点で表ではないか…)、ぶっちゃけ、ショートヘアの時よりも、こっちの方が可愛い。本作のキャットウーマンのマスクはダサいけれどね。
ただ、彼女がキャットウーマンを演じることで黒人差別問題に言及する台詞があったりするのは何か違うんじゃないかなって気もする。

それから、バットマンことブルース・ウェインの父親で政治家でもあるトーマスがクリーンでなかったり(こういうのは「ジョーカー」にもあったが)という描写がある一方で、捜査当局(警察・検察)の中で数少ない汚職に手を染めていない良心の象徴であるゴードン警部補を黒人俳優が演じていたり、リドラーの復讐によってダーティーなことに手を染めていた市長選立候補者が殺されたことで黒人女性候補が投票日を前に事実上の次期市長になっていて、しかも、この人はクリーンで孤児思いだったりとかいう描写を見ると、“何だ、このくそポリコレ描写は!”と言いたいなってしまう。

でも、その一方で(リベラル層が大好きな)慈善活動をする連中はウラがあるみたいに描いたり、現在、世界中の敵になっているロシア出身の女性を観客が同情したくなるような被害者みたいなキャラクターにしていたりもする。

BLMとかMeTooみたいなポリコレっぽい主張をしたいのか、それとも、リベラル的な意見の奴はウラで何をしているか信用できないと言いたいのか、イマイチ、整合性がとれていない気がする。リベラル層の否定=民主党の批判につながるような作品だと、米国での批評家受けはあまり良くなさそうな気がするんだけれど、本作はそれなりに評価されているってことは、黒人問題を扱い、たとえ、ロシア人であってもフェミが興味を持つ女性蔑視に反対するメッセージが読み取れればOKということなのだろうか。

それにしても、これまでのバットマン映画のタイトルには、“ザ”がついていなかったのに(「ダークナイト」のようにバットマンという言葉が入っていない作品だってあるが)、今回は「ザ・バットマン」と言っているということは、これが決定版だという自信のあらわれなのかな?

でも、クライム・サスペンス、フィルム・ノワール的な作風だったことを考えると、当初の予定通り、ベン・アフレックの監督・主演の方が良かったんじゃないかなって気がする。
彼の監督・主演によるノワール作品「夜に生きる」は傑作だったしね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?