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僕の憧れ、惚れた監督 #2
こんばんわ。指導者2年生の油井です。本当はゆっくり書こうとしたんですけど、昨日(5月4日)まさかのニュースが飛び込んできました。ジョゼ・モウリーニョ来季からASローマの監督に就任!いやぁ驚きましたね。正直に言うと、指導以外のことでトップクラスに嬉しかったです。ということで、#2始めていきます!
ジョゼ・モウリーニョという男は傲慢である。これは本人がチェルシー就任当初に口にしたことでもあるし、事実彼の記者会見を見ればその姿は一目瞭然だ。まあそうでなければ、「I think I am THE special one」なんて言わないだろう。これが世間一般のジョゼ・モウリーニョのイメージだ。ただ、彼はただ傲慢なだけではないし、彼は。今回はそんなモウリーニョのパーソナルな部分に迫っていく。まずは彼の生い立ちについて、かんたんに紹介していきたいと思う。
1963年。J・F・ケネディ大統領の例の事件が起ころうとしている頃にポルトガルはリスボンの最南端に位置するセトゥーバルでポルトガル代表経験者であるフェリックス・モウリーニョの元でジョゼ・モウリーニョは生誕した。ポルトガルも当時少しずつ教育に力を入れてきて、その影響をもろに受ける。特に語学の質の高い教育を受け、彼の人生に大きく影響することになる。
幼少期から父親の右腕とは言わないが、相手の分析などを父親の手伝いとして務めていた。その頃から情報収集、分析能力に長けていて1980年にプレーヤーとして活動していたが、コーチとしての素質も磨きつつ合った。1987年に現役引退。指導者としてのキャリアを本格的にスタートさせる。リスボン工科大学でスポーツ科学を経て、イギリスではコーチングを学んだ。その後スポルティングの通訳を経て、監督に至る。
スポルティング以降のことについては、次回以降に話すとして、彼は選手としての輝かしい経歴がない。彼は父の影響もあり、子どもの頃からサッカーに携わってきた。しかし彼にはジョゼップ・グアルディオラのような功績はない。だからこそ、彼がサッカー界のトップトップで生き残る方法は1つしかなかった。それこそが、
勝ち続けること
である。今でこそユリアン・ナーゲルスマンを筆頭にプロとしての功績が輝かしい指導者は数多くいるが、当時ではかなり珍しいケースと言えたはずだ。その中でジョゼ・モウリーニョに求められたことは、勝ち続けることだった。
彼は試合に勝つためにも常に緻密で、繊細だ。幼少期の頃からの分析能力を駆使し、対戦相手を丸裸にする。あるときは審判にプレッシャーを掛け、あるときには自身のパフォーマンスで相手を挑発する。そしてメディアを利用したマインド・ゲームも彼の十八番だ。レアル・マドリード時代のクラシコ前は常にメディア戦争が行われていたし、プレミアでもモウリーニョの発言がタブロイド紙やSky Sportsで取り上げられることも、日常茶飯事であった。それほど彼は自分自身に注目、批判の的を当てた。
自分に注目の的を当てることで、選手が試合に集中できるように仕向けたのだ。選手がミスをしたときにも自分にヘイトが向くように仕向ける。彼は外部から否定的な話をよく聞くが、誰よりも選手のことを思い、誰よりも選手を愛し、誰よりもチームの勝利のために動いた。時に選手より目立つこともあるが、チームのために傲慢であった。彼の真の姿が傲慢であるとは思うが、少なからずチームは結果を残した。
事実ジョン・テリーやフランク・ランパード、ズラタン・イブラヒモヴィッチなど数多くの名選手がジョゼに感謝し、指導者として選手からの尊敬を集めた。インテル時代の選手が集まる「トレブル」というチャットグループがあるらしい。1日たりとも連絡を取り合うことはないらしいが、それほど選手からの信望も厚い。だからこそ、ポルトガル、イングランド、イタリア、スペインで結果を出した。「チームの勝利のために傲慢であった」ジョゼは新天地でも変わらずに、結果を残すために傲慢であるだろう。新天地でもチームだけではなく、メディア戦略にも注目していきたい。
今回もご試読ありがとうございました!モウリーニョのこの手のことは、1回で語るのは難しいですね笑。衝撃のインタビューやら選手とのエピソードなど本当にいっぱい話しても話しきれない人ですね。そして、ローマでの成功も心から祈っています。#3も近々更新します!
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