理論知と実践知の統合に思うこと

ある先輩が,少し前にSNSで「コーチング学会の理事がエッセイを書いてるので読んで」というような投稿をあげていたので,ざっと読んでみました.

コーチング学会理事のエッセイ

理事の先生方はさすがで,学会の狙いやテーマを抑えつつ,自分の伝えたいことを記載してます.

主な狙いやテーマは
・研究と現場の架け橋
・理論知と実践知の統合
でしょう.

パッとみると同じように見えますが私は似て非なるものと捉えてます.

個人的には架け橋はできても統合はできないと思ってます.というより統合する必要はないでしょう.
そもそも「統合」という言葉が適切でないように思います.

私は随分前から猪飼先生の考え方が好きで,今でも講習会で,その考え方を引用します.
簡潔にいうと
「科学の限界を知り,哲学する」
です.
どこまでが科学で知り得ることで,どこからが哲学の領域なのか,この解像度の高さが実践に強く関わると思います.
理論知は常に科学的に改修工事が行われていて,私たちは今ある理論知と一つの事象にある様々な状況を鑑み,哲学し(私はインテリジェンス化と言ったりも)実践します.
そこで生まれる実践知を活かし,また理論知の改修が行われます.
いつまで経っても統合されることはなく,理論知の改修が延々と繰り返されます.
実践知はその時々でそれまでを固定化(記録)しますが,その個人の実践知はその後変化します.

何が言いたいかというと,理論知には必ず限界があるということ.
実践知を理論知の改修に活かすことが「統合」ということかもしれませんが,表現が適切ではないように思います(実践知が活かされていないということが強調され,問題提起されているのかもしれません).

限界のあるものに「ありのまま」は統合できないでしょうから.

結局,限界のあるものの限界が変化したとしても,限界があるということを知り,そこから先は哲学する,という猪飼の言葉に帰結する気がしてます.

ここを深掘りすると,暗黙知と形式知と同じ議論が起こります.
当時,言語化できなかったものが,テクノロジーの発展によって,明らかになり言語化できるようになった.
これは形式知が広がったことを意味すると思いますが,暗黙知には本質的に言語化や形式化ができないものがあります.
もちろん,100年後1000年後に形式知は広がっていると思いますが,暗黙知は暗黙知で変わらない.今,私たちが想像している暗黙知が間違っていただけの話になるでしょう.

という思考の螺旋に落ち込んだので,
理論知と実践知
形式知と暗黙知
の解像度があげられるように頑張ります.
解像度を上げようとすると(それぞれの知の関係性をみると),それぞれの「知」の具体と抽象の行き来が,また永遠の螺旋に引き込んできます.お気をつけください.


ちなみに,架け橋は哲学を支援することで可能で,私はそれを実践してます.

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