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スポーツビジネスに進むきっかけ(その3)

前回は私がスポーツビジネスに進むきっかけとなった事柄の1つ目について書きました。(きっかけは全部で2つあります。そしてそれが不連続でつながっています...)

今回は2つ目の事柄について書きます。今度は結論から。きっかけの2つ目は、

「海外出張中のトランジットで偶然あるニュースを見たこと」

トーメンからトヨタへ

2003年に慶應ビジネススクールを卒業した私は、派遣元であるトーメンに戻りました。繊維ビジネスから離れ、それまで働いていた大阪から離れ、東京にある関連企業部という部署で当時50社ほどあった関連企業を束ねる仕事、いわゆる「連結経営のまとめ」をやっていました。

その後1年もたたないうちに、トーメンの経営難により豊田通商と合併することになりました。存続会社が豊田通商だったため「トーメン」という名前(会社)はのちに消滅しました。会社がトヨタグループの会社となり、私はグループ内での異動ということでトヨタ自動車に出向(その後転籍)となりました。

周りからは「よかったね」「よかったね」と言われました。潰れかけていたトーメンからトヨタ自動車へ。グループ内での異動なのですが、トヨタでの面接試験もあり(15人中10人が出向/転籍になりました)、一応選抜された形となったので見方によっては栄転だと捉えてもよい事柄かもしれません。

トヨタを辞めよう

ただ私が思ったことは違いました。ビジネススクールから戻ってせっかくトーメンに尽くそうと思っていたのに転籍要員にされた(トーメンから転籍可能候補者をトヨタへ差し出していました。イメージとしてはプロ野球でいうFAの人的補償の際のプロテクトリストから外されたかんじ)。なんだかトーメンから裏切られたような感覚になったのです。実は会社からビジネススクールへ派遣してもらう際、私と会社との間で「MBAをとったら10年間はトーメンを辞めない」という契約書を結んでいました。私も当然そのつもりでしたが、図らずも会社側がそれを破棄したことを意味します。

自分の意思ではなく会社の意思で仕事が決められてしまった。サラリーマンであれば当たり前のことかもしれませんが、私の価値観には合いませんでした。そして私は車には何の興味もありませんでした。トヨタ自動車には自動車好きの人がたくさん働いています。居心地の悪い日々が続きました。

辞めよう。ただトヨタ自動車を辞めることはそんなに簡単ではなく、なんだかんだでグズグズと1年半くらい迷いましたが、そう決意しました。日本を代表するような優良企業で、当時売上高が20兆円を超えていたトヨタ自動車ほどの会社を辞めるのであれば、その後の人生は自分の好きなことをしないと割りに合わないなと思いました。はぁ、自分の好きなことか...

さて、自分の好きなことって何だろう?

2005年のことでした。そう深く考え始めた私は、そのうち「そうか、スポーツだ。そういえば修士論文でスポーツビジネスについて書いたんだった」と数年前のことを思い出しました。当時会社から「好きなもので書いていいよ」と言われて自分の好きなことを探した結果、私は日本初のスポーツ X 経営学の論文を書いたのでした。

その時初めて1つ目のきっかけと2つ目のきっかけが繋がる下地ができました。「自分の事業領域をスポーツビジネスに絞る」というのはどうだろう。そう思い始めたのです。まだそんな人は日本に多くないのではないか、それならチャンスがあるかもしれないと思いました。「事業領域を絞る」というのはビジネススクールで学んだ考え方でした。

乗り継ぎ時間に見たニュースとは

あれはたしか2005年のインド出張の途中、マレーシアのクアラルンプール国際空港だったと思います。乗り継ぎで少し時間があったので、ラウンジでぼーっとインターネットを見ていました。(インターネットを見るという表現が時代を感じさせますね...)いつものようにMSNのポータルサイトを見ていた時に、たまたまそのニュースが目に飛び込んできました。片隅に載っている小さい記事だったはずですが、私には大きく見えました。

長崎にJリーグを目指すチームが誕生する!

「これだ!」と思いました。故郷である長崎にJクラブができる!

今となっては15年以上前のことなので、なかなかそれらしい記事を探せませんが一つだけ紹介します。もしかしたらこの記事ではなかったかもしれませんが、要は2005年にV・ファーレン長崎というチームが誕生するというニュースでした。

経営はどうするのか?

ご存知の方も多いと思いますが、長崎県の島原半島はサッカーの強い地域です。高校世代では島原商業や国見高校が全国制覇を数多くしています。

「このまま行ったら多分サッカーは強くなるだろう、でもそれだけではJリーグには上がれない。経営は誰がやるんだろうか?」(誰もいないのでは)

そう考えた私は早速、新聞記事に書いてあった連絡先を見つけ、V・ファーレン長崎事務所のアドレスにメールをしました。「いくらチームが強くても法人組織を作ってちゃんと経営しないとJには上がれません、自分にぜひやらせてください」という内容です。

一度は断られました。「間に合ってます」というような内容だったと思います。後で聞きましたが、そのようなメールが全国各地から何通かきたらしいです。そしてそれらがみんな怪しく見えた...というのです。

諦められなかった私は再度メールしました。「ゴールデンウィークに帰郷するので15分でいいから時間をいただけないか」と。やっとそこでOKが出ました。これも後で聞いた話ですが、たくさんのメールが来た中で長崎県島原半島の国見町まで実際に足を運んだのは、私一人だったそうです。足を運んで話を聞いてもらって、先方は「この人は本気だと思った」とのことでした。

忘れもしない2005年5月3日、チーム設立のキーパーソンだった方に国見町で初めてのプレゼンをしました。「こういうことをやりたいんです」「わかった、検討する」。その時は一旦住んでいた豊田市へ戻りました。数日後「もう一度きてくれ」となり、そこで数名の幹部の前で再度プレゼンをし、晴れて受け入れてもらえることになりました。「一緒にやりましょう」「よろしくお願いします」その時の握手は嬉しかった。私のスポーツビジネスにおけるキャリアの原点とも言えるでしょう。

生まれてから高校卒業まで18年、長崎を離れて18年、ちょうど36歳の時に長崎に戻りました。でも私は長崎が故郷とはいえ長崎市内の人間です。(地元では「どこ出身ですか?」「しないです」で通じてしまいます。長崎というのを言わないんですよ...ちょっと思い上がってますよね。でも本当です)実は島原半島には縁もゆかりもなかった。ましてや中学高校と野球をやっていたのでサッカー界には'つて'も全くありません。(ただ奇跡的に小学校6年生の時、メンバーが引っ越すからという理由で急遽数ヶ月の間、長崎市立滑石小サッカー少年団でGKをやったことがあり、それが後々役に立ちました。これも何かの縁かもしれません)

後発でしかも地方でのJクラブ立ち上げは、もちろんうまくいく保証はなく、今思えば不安な点もたくさんありました。移り住んだのは、とてもゆっくりした時間が流れている、こんなところからよく高校日本一になったもんだ、というくらいの田舎の町でした。(国見高校の近くにV・ファーレン長崎の初代事務所がありました)

でも私は自ら切り拓いた新しい仕事にワクワクしていました。「ここから長崎の歴史を作るんだ」と、できないということをあまり考えなかった。こうして私はV・ファーレン長崎の初代事務局長となり、後の法人化につながっていきます。

これがスポーツビジネスに進むきっかけとなった2つ目の出来事の顛末です。

まとめ

この3回シリーズをまとめると、私がスポーツビジネスに進んだきっかけといえるのは2つです。

1つ目は「修士論文で(偶然)スポーツビジネスについて書いたこと」

2つ目は「出張先の空港で(偶然)V・ファーレン長崎誕生のニュースを見たこと」

この2つの偶然が、また何の因果か数年を経て偶然つながった、ということになります。(それはつまり偶然ではなく必然だった、という人もいます)

みなさんはどう思いますか?普通、トヨタは辞めないよね。今の時代ならわからないけど。

ここまで読んでいただきありがとうございます。

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