「勝負」

 「負けると思って勝負はしない」と至極、当たり前の事だと言えるが、私感としては「負けると思って勝負をする」との気持ちに成る事がある。それは私だけの感覚なのかと疑問に思うのだが「長い人生で勝ち続ける事などない」と言えば納得する人も居るだろう。しかし「勝負」と成ると、どうしてこうも勝つことが至上命令の様に取沙汰れるのだろうか。「勝つ為に手段を選ばない」とするなら、人は何とも傲岸不遜な生き物だと思えて来る。

 ギャンブルをする人はよく言う、「あそこに預けてあるだけで何時でも引き出せる」と。まるで銀行に預けているかの如くに言うので、私は酔っ払いの戯言くらいの話だと解釈する。私自身はギャンブルをしないのでそう思ってしまうが、ギャンブル依存症と言える人の思考には「負ける」発想が無いのは理解できるので、その様な発言をするのだろう。と成ると「勝った」話はするが「負けた」話はしたくないのが、ギャンブル依存症の人の特徴だと言える。

 ただ、その様に理解する私にギャンブル依存症とまで行かなくても、賭事をしない訳でもない。パソコンなどで気晴らしにゲームをする時は、無謀な事を良くする。所詮、ゲームなので一か八かの賭けをするのは楽しいし、それで実際の生活に影響は皆無である。時間を無駄に浪費したとの感覚に成る時もあるが、飽くまでも趣味としてゲームをしているので誰かに非難される事は無いだろう。しかし「ゲーム依存症」なる表現もあるので、私を観て該当すると思われても仕方ないが。

 人の趣味に吝嗇を付けるのは、あまり気持ちの良い事ではない。それがギャンブルだとしても趣味の範囲で止めて於けば非難の対象には成らないだろう。だが、何かしらの「依存症」と成ると、生活に影響する場合があるので対応が求められる。それが「勝負」事に成ると殊更に注目を集めてしまう事態と成る。個人で行う「勝負」には金銭的な場合が多いので「依存症」と、つい口にしてしまうが果たして適切なのだろうか。

 具体的に例を上げると高齢の年金受給者がギャンブルに填り、生活難に陥るケースが観られる。それを「自己責任」だと言って切り捨てて居るのが今の社会だ。詳しくは知らないが「依存症」として病気と診断されれば治療の対象に成るのだが、マスコミは挙って「依存症」の「害」は伝えるが「治療方法」の情報を発信しない。飽くまでも「自分の落ち度によって招いた事態なので自分で解決しろ」との立場を崩さない。

 それは個人に対してのマスコミの対応だけでなく、政治や経済的に考えれば「治療する金は出したくない」との考えが根底にある様だ。射幸心を煽る情報を発信していて、それで散財した人が出ても「お前が悪い」の一言で片付けてしまう事に、私は「矛盾している」との感覚に囚われてしまう。それはギャンブルだけの話ではなく「勝負」を求められる環境に居る人ならば感じる所がある話ではと思っている。

 あるスポーツ選手が大きな大会でメダルを取ったが、以後の試合でメダルが取れないとマスコミから批判的に扱われてしまう様に成った。その選手はスポーツをする事が好きであるのは変わりがないが、絶えずマスコミから「次こそはメダルを」との、声援と言うよりは脅迫に近い表現で報道されていた。「メダリストの宿命」と一言で終わらせる事もできるが「勝負」の世界に生きていると、この様な状況が待っている。

 その様な軋轢に耐えながら、スポーツ選手として活躍するのが正しい事なのか疑問である。よく口にされる言葉に「健全なる精神は健全なる身体に宿る」とあるが、スポーツがそのまま当て嵌まるのかと言えば違うと答える。メダルを取るためにドーピングとまで行かなくても何かしらの薬物を投与する事があるだろう。例えば怪我の回復を早める薬などを使用しても誰も文句を言わない所か、逆に「怪我をしているのに頑張っている」と称賛されてしまう。

 辞書を引いて見ると「健全なる精神は健全なる身体に宿る」ではなく、本来は「健康な身体に宿る健康な精神を願う」とローマの詩人が書き残している。この詩人が何を意図したのかは分からないが、言葉の意味だけ読み取れば「願う」と言う「願望」がそこには在る。逆説的に表現すれば「健康な身体だからと言って健康な精神を持っている訳ではない」と言える。

 少々、仏教的な考え方をすれば「健康な身体」を欲しいと思うのは煩悩の一つだと言える。と言う事はスポーツ選手の中には「身体」と「精神」が乖離している場合が多いと考えられる。私は「メダルを取る気持ちで頑張ります」と言うスポーツ選手が信じられないで居る。それよりも「大会を楽しみます」くらいの発言のほうが、私は好感が持てる。「メダルを取る」と言う、そこには「勝負」に「勝つ」事に誇りを持つ「精神」が既に「自身の欲求に負けている」と感じる為なのだろう。それよりは「楽しむ」くらいの精神的な余裕があった方が良いと思うのだが。

 以上の事から「勝負」とは結果が全てで「負け」に価値は無い、との考え方が社会に蔓延しているのだろう。そんな社会に反抗する様に、私は「負け」た事に注視してしまう。それが個人だろうが組織だろうが関係なくに「負けた事から学ぶことが多い」と思っている。付け加えるなら、「負け」を恐れず「勝負」している人を評価できる人は、その人も絶えず「勝負」しているとの考えだからだ。「勝負」から逃げている人は何も作り出せない。結果、それで「負けた」としても私は何かしら評価はする。

 しかし「負ける」と怒りが込み上げてくる時がある。私もそんな感情に支配される瞬間があるが、そんな時は「負けた原因は何処にあるのか」と考える事にしている。そうすると私は感情的に怒る事が少なくなるが、多くの人は思考停止状態に成る方が多い様に感じる。ギャンブルの話に戻せば財布の中の金を全部使っても飽き足らずに、借金をしてまでギャンブルに興じるのは病気と言えるだろう。負けた事で怒り、常識的な判断ができない状態に陥っているのだろうか。

 その様な状況ならば精神科に行けば薬を処方してもらえるので、「怒り」をコントロール出来ない人は行くべきだと思う。それだけで「精神が病んでいる」と私は思わない。寧ろ、自分で精神科に行くべきと判断できたら、正常な考え方をしていると言える。それよりも負けた時の「怒り」を他者にぶつけて解消しようとする人こそ、非難の対象として扱わなくてはならない。それが今の社会では上手く行って居ない様に感じるのだ。

 人は「怒り」を感じると三時間は脳が「怒り」やすい状態になるそうな。それなのでちょっとした事でまた「怒り」、終いには一日中怒っている人と成る。それが毎日続く人も居る。そんな人達に囲まれて居たら自分はどうなるのか。多分、私も一日中怒っているだけの人に成ってしまうだろう。そう感じたのなら何か対策を考える必要があるが、具体的な方法を思い付かない。「ジョギングでもしてストレス解消に努めましょう」と言えれば良いのだが。

 いっその事、「勝負」事を始めるのも良いのではと思えて来た。会社勤めで「怒り」に疲れた頭を空っぽにするのにはギャンブルは良いだろう。それが深みに填って財布の中身まで空っぽにするのは「自己責任」と言われるだろう。この様に「自己責任」との言葉を使ってみたが、何とも的外れな感じがする。少なくとも「ストレス解消でのギャンブルはオススメしない」と書かなくてはいけないのだ。これは今書いている私の「自己責任」からだと理解して欲しい。

 「勝負」が好きなのは誰か。「勝つ」事にしか意味を見い出せないのは誰だ。そんな人が集う場所は何処か。ギャンブルやスポーツ選手と言った個人の問題なら、解決策を考える事も容易いかも知れない。それが大きな集団に成るとどうなるのか。「負けた原因を究明する」とはよく聞く話だが大概は会社などのトップの辞任で誤魔化して終わりだったりもする。それで勝てる様に成れば誰も文句は言わない。結果、「負け」から何も学ばないで終わる。

 「命をかけた勝負」、と勇ましい言葉を書いてみたが、それが凄惨な悲劇を生んだのは歴史が証明しているので詳しくは書かない。「欲しがりません勝つまでは」と叫ばれた時代を懐かしむのを悪いとは言わない。だが、少なくとも「負け」から学ぶ事が大事なのだ。それが蔑ろにされて居ると感じるのは、私だけの錯覚なのだと思いたい。しかし新聞を見ると「人は何故、変われないのだろう」と悲観してしまう。

 何も「負け」を望むべきだと言いたいのではない。「勝って兜の緒を締めよ」の言葉が指す通り、何かしらの「勝負」をしたのなら検証する必要があると言いたいだけだ。それが「怒り」が「怒り」を引き起こす現状に嫌気が差して来るのであった。「嫌気が差した」と言って逃げる訳にも行かないので、こうして書いているのだが「それが何の役に立つのだ」と聞かれても明確な答えは用意していない。

 人間は「勝負」に拘泥り過ぎて居る様だ。しかも、金銭でしか動かない人達の「勝負」に巻き込まれて居る様に思える。金で買える「勝ち」に何の価値があるのだろうか疑問である。そうは言っても「評価」を得る為には「金」による「勝ち」が分かりやすいのも事実だ。だが、金銭以外の基準として「勝負」をどう捉えるのかを指し示す必要がある。

 適切な例題ではないかも知れないが、百億円賭けて映画を作ったとする。その映画が二百億円の収益があった。差し引き百億円の収益が出たのは「勝ち」なのだろうか。逆に一億円で作って三十億円の利益が出たとする。賭けたお金が二倍に成るのと三十倍に成るのとでは、何方が「勝った」と言えるのだろうか。考え方は人それぞれだから私は答えを出さないが、この場合、映画産業での「勝負」として両作品を同列に比べるのも間違っているかも知れない。

 要は「勝ち組」と「負け組」に分けて考えるのが、問題の始まりである。誰だって「勝ち組」に成りたいとは思っている。私だって例外ではなく「宝くじにでも当たれば」などと夢を見ている時もあった。だが、冒頭に書いたが「長い人生で勝ち続ける事などない」と思えば、勝ち負けに拘泥るのが馬鹿らしく成って来る。それでも「勝ち続ける」事を望む人達が居るのも事実だが、何を持って「勝ち」とするのだろう。

 ギャンブルやスポーツなら勝ち負けが明確なので、異論の挟み様が無いが「人生」と成るとどうなのか。以前、雑誌で読んだ記事に、IT企業の社長の話が出ていた。若い二十代の人で私の年収と比べるのも恥ずかしいくらい稼いでいる人だった。所謂「勝ち組」の代表として取り上げれたて居たが、社長は独身でワンルームマンションに住んでいて、部屋にはベッドとパソコン、冷蔵庫もあったが飲料水くらいしか入っていない。食事は全て外食で済ます。

 その暮らしぶりが私の持っている「勝ち組」のイメージと懸け離れたものだったので、今でも思い出す。少なくとも「人生」の「勝ち組」と成れば、結婚して子宝に恵まれて家では良き父親として振る舞う。このイメージ事態が懐古趣味なのは分かっているが、何を持って「勝ち組」とするのか判断基準が無いので書いてはみた。では、単純にセレブ張りの豪華な生活をしていれば納得するのかと聞かれても返答に困る。納得もするが妬みも持つだろう。

 一方「負け組」はイメージしやすい。知り合いに莫大な借金を作って夜逃げをした人を知っているからだ。借金取りに追われ家族離散になり、今では生きているのさえ分からない。その人の例があるので、私自身は「勝ち組」だとは思わないが「負け組」とも言えないと思っている。そんな中途半端な状況なので、ただ単に「勝負」する機会が無いだけかも知れない。

 夜逃げをした知人から学ぶ事は多いが、IT企業の社長から学ぶことは無い、と結論めいた事を書いたが「お前は勝負できない様な環境に居るだけだ」と言われれば「その通りです」と答える。そこで変に見栄を張って「命をかけた勝負が待っている」と威勢よく言い切る事はしない。しかし、「人生」には「勝負」は付いて回るものである。「男には負けると分かっていても勝負するしかない時がある」と書くと、これも威勢よくて私には具合が悪い。

 私が言えることは「勝負は最小限に抑えて、負けてもまた勝負できる環境に居る。勝っても見栄を張らない」くらいだ。そのくらい気楽に「勝負と言う名の人生」と遣り合うのが私には似合っているだろう。

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