「無辜(むこ)」

 「無辜の市民が犠牲になった」と災害や戦争で被害にあった民間人を、そう表す事に私は何時も疑問に思ってしまう。「無辜」の言葉に値する民など居ない、と言うのが私の感覚であった。

 「無辜」と表現するのは些か大袈裟なのだが「田舎の人は純朴だ」といった表現も適切でないと思っている。「都会の人は言葉は優しいが性格が悪い」とは思う。「田舎の人は言葉も悪ければ性格も悪い」のが実情である。

 では何が言いたいかと結論を書くと「生きているだけで罪の始まりなので、無辜などと言われるに値する市民は居ない」のである。少々、宗教的な感覚と捕らえる人も居るかとも思うが、此処では「無辜」を方便に使うな、と言いたいだけなので宗教的な価値観を押し付けようとは思っていない。

 私が小学生の時、同級生が家に遊びに来たが、私が目を離した時に父の貯金箱を勝手に持ち出した事があった。その時は気付かなかったが、同級生が暫くすると貯金箱を返しに来たので持ち出したのが分かったのだった。ただ正確な金額は分からないが五百円くらいは駄菓子屋で買い食いしたと言われた。

 まだ貯金箱を返す気持ちがあるだけましなのだろうが、そんな経験をしているので子供の頃から「罪の意識とはなんだ」と考える子供だった。貯金箱を持ち出され、中のお金を使われた事を両親には一切言わなかった。

 変な子供だったので「貯金箱を持ち出された事を言うと、その同級生の親に私の両親が苦情を言うのでは」と思っていた。別に同級生を庇う積りは無いが、貯金箱を勝手に持ち出すのも罪だが、それを非難するのも罪なのだと当時は思っていた。

 そんな子供なので「無辜」の意味はまだ知らなかったが「子供は純真」とテレビなどで言われると反感を覚えてしまうのだった。その後、「子供は残酷な生き物です」とある講演会に出席した時、壇上の詩人が言った。やっと自分の考えに近いと思える言葉を聞けたので、安堵する自分が居た。その時、私は二十歳になっていたので遅すぎたとも思えた。もっと子供の頃に聞きたい言葉であったのは言うまでもない。

 さて「無辜」と呼べるに相応しい年齢はあるのかと考察すると、四、五歳くらいまではそう呼んでも差し支えないと言う気持ちである。私は子供を育てた事は無いので、親類の子供を見ているくらいの見識でしかない。子供は言葉を知らないだけで色々な感情を持っているとは認識している。しかし動物的な要素が強いのは四、五歳くらいまでだろうと。動物であれば食事と繁殖の時以外は争い事など起こさない。

 この論法で考えると「無辜」などと言えるのは人間の場合、四、五歳までの子供に限定できると思える。私もこれでも人間なので被災地の子供の窮状を見れば胸が痛くなる。しかし被災地で、どの様な状況になっているのかと想像はする。此処には書かないが「想像しているだけで現状を見ていない奴は黙れ」とお叱りを受けるのは分かっているからだ。

 では体験していないと語る事を許されないのかと反駁する。戦争で子供の死者が出た時に語る事を許されるのは、その両親だけかと。もう一つ言わせてもらえば、一番に語る資格があるのは死んでいった子供なのだと。無辜の子供として語る資格を持っていると。

 私は戦争を体験していない世代なので知識の中でしか知らない。それは恵まれた環境であるのは言うまでもない。しかし戦争体験を語り継ぐ事の難しさを感じている。私の父母は太平洋戦争終結後の世代なので戦争の悲惨さを繰り返して話す。他方、海軍に所属していたお爺さんの話を聞くと「自分の青春時代」としての戦争が語られる。そこには悲惨な一面もあるが若かりし頃を懐かしむ老人特有の哀愁もあった。

 戦争に付いて語る必要があると思える事自体が、何を意味するのかは書くに及ばないので書かないが、新聞やテレビ、将又ネットで「無辜の市民が〜」と言った内容を扱いだしたら私は危険であると思っている。

 結局、私たちは先祖代々、何かしらの争い事の中から生き残った者達なのである。「親の因果が子に報い」と書くと古臭いオッサンだと思われるのも承知である。「無辜」と呼ばれる資格があるのは四、五歳の子供だけかと思うが、幼年期の終わりから「無辜」の冠が外されるのは、それはそれで変な話だと思える。

 どの様に「無辜」の言葉が使われるか、それを注視しているだけでも世の中の趨勢を感ずる事は出来ると言いたい。それがメディアで頻繁に俎上に載せる様になる世の中が果たして良いものか悪いものかの判断は人それぞれだろう。

 私は分からないでいる。戦後世代なのか戦前世代なのか、どう呼ばれる世代なのかと。少なくとも「無辜の市民」とは呼ばれないであろう。結局、誰も責任を取る事をしなかったと後の世代には言われるとは思っている。

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