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記憶と知覚を呼び覚ますランドスケープ

【VOCA展2020 現代美術の展望─新しい平面の作家たち─】
三瓶玲奈さんの作品「Landscape」
推薦者は金沢21世紀美術館アシスタント・キュレーターの野中祐美子さん。

三瓶さんとは横須賀で出会った。
ツイッターで『向こうにある光』という個展情報を得て
とにかく行ってみたというのが本当のところだ。
(ほんのちょっと横須賀ビールが目当てだったりした)

そこで出合った三瓶さんの展示は印象的なものだった。
その中で、掲示されてはいなかった(だったと思う)ものの、
わざわざ出していただき拝見した、
夕日を描いた一枚も忘れられない。ほぼ白。
だが、よく見ると、夕日が確かに射している。
それは、その他の展示作品のようにショートストロークで
光を集積させるものではなく、
眩しさそのものを捉えたとでもいえる一品だ。

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なんでそんなことを言い出したのかというと
大きな括りで今回の「Landscape」へ連なるものではなかったかと思うからだ。
いや、もっと正確に言えば、この「Landscape」を観て
あの夕日の一枚を思い出したのだ。

『向こうにある光』展でのステートメント、
三瓶さんはこう言っている。「絵画の表面を境界として、こちら側と向こう側がある。
こちら側と向こう側は同じ厚さを持ち、絵画の表面は常にその中間を捉える。こちら側の光は、向こう側の光を物質として照らす。向こう側の光は、こちら側の光の姿を写し取ったものではない。別質のものだからこそ、境界が生まれる。境界があるからこそ、互いがあることをも確かめられる。向こうにある光は、光の存在そのものを眩しく照らしている」

彼女が依然として同様の認識をもっているとすれば、
「Landscape」はこちら側の光が照らし出した向こう側の光ということになる。だが、この画は、その直截的な画題が示すように風景を描いたものだと受け取るのが素直な反応だろう。ではそれは一体、どのような風景なのか。
推薦者の言葉には、
「どこまでも広がる空と大地、そして地平線。日の出とともに闇が光になる瞬間」
とある。
金色に輝く空は日の出のそれなのだ。
大地にはかすかに人の営みの気配が描かれる。
そして濃紺の闇が、光によってその存在を奪われていくさま。
しかし、この濃紺の部分は、山水画の山並みのようでもある。
あるいは何か飛翔するものを捉えたような瞬間も感じる。
向こう側が遠方で、手前の乱れていない闇がこちら側なのか。
なにか異なるレイヤーに描かれた別のランドスケープのようにも見えてしまった。

『向こうにある光』展に寄せた内海潤也さん(キュレーター)の言葉も一部引く。
「三瓶が彼女特有の短くも幅のある筆致によってキャンバス上に描くものは、主に、なんでもない風景やモノである。鉱石、ソファ、椅子、モビール、夕日のある風景。これら描かれたモチーフは元来の文脈を洗い流され、『どこかで見たことがある』と鑑賞者に思わせる抽象性を付与されている。しかし、一旦親密性を感じさせた絵画は、画面に近づくと、色彩と筆致の組み合わせであることを主張し始める。と同時に、抽象的なモノや風景は、不思議なことに、具体性を帯びるのではなく、知らないどこかの誰かの記憶を覗いている感覚を鑑賞者にもたらす。(中略)彼女が描いているものは、光それ自体でもなく、モノそれ自体でもなく、モチーフにまつわる彼女の記憶でもない。(中略)彼女の絵画が持つ広がりは、『作品を見た』という経験ではなく、鑑賞者が自身の記憶や知覚と対話する時間を与える。三瓶の作品の面白さは、作品自体の主張ではなく、鑑賞者を受け止めるそのしなやかさにある」

「Landscape」は私の記憶や知覚との間において、どのような対話を生み出したのだろう。

私の脳裏に浮かんだのは、
岡山のベンガラの町・吹屋から山並みに添って車を走らせていたときの風景だ。
雲海が目線より下にあり、夕日がそこに射していた。
私たちはベンガラ色から抜け出して、今度はオレンジ色に染まっていた。
その不思議な浮遊感に包まれながら、帰りの便に間に合うよう空港を目指していた。
そのときの光景が、車中の会話が、身体の疲れが蘇ってきた。
ただ、そこには群青の雲はなかった。
きっとそれは、朝日ではなく夕日だったからだ。

【VOCA展2020 現代美術の展望─新しい平面の作家たち─】
上野の森美術館
3月12日(木)〜3月30日(月)
*開館情報を必ず確認してください。

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