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祖父の死と、絶対に忘れたくないこと。

約一週間前に、祖父が亡くなった。
もう祖父の身体はこの世界には存在しないのに、何度涙を流しても尚どこか現実感がなく、感情の整理がついていないように思う。

祖父は、長いこと病と闘っていた。
私が産まれる前から何度も救急車で運ばれるようなことがあったようだが、私の前では殆ど、不調を仄めかす素振りはしなかった。
元教師と言われれば誰もが頷くであろう、温厚で物知りで我慢強い人だった。

そして、孫である私や妹達の幸せを第一に考える人だった。
私達が幼い頃は、台車に私達を乗せて庭を走り回ったり、私達が遊べるように、プール、ブランコ、卓球台など、色々な遊具を作ってくれた。
私達が好きだと言った食べ物は、祖父の家に遊びに行くと必ず用意されていた。美味しいものを沢山食べて欲しいという気持ちからだろう、お風呂にまであんみつやアイスを届けてくれることもあった。
私と妹達は、「食べなさい」という祖父の口真似がすっかり上手になった。

日本に本帰国してからは、祖父に会いに行ける頻度は減ったものの、メールのやり取りで近況を報告するようになった。
入学、卒業、成人、就職、結婚など、人生の節目にはいつも祖父の温かなメールが寄り添ってくれた。

私の撮る写真は、祖父母の家で過ごした記憶の影響を受けているのではないかと考えたことがある。
とあるweb媒体のインタビュー用に書き留めていたものの、文字数の関係で掲載できなかった回答文を一部抜粋したい。

Q. 高埜さんのお写真からは、“懐かしい匂い”がします。
この匂いの正体を、ご自身ではどうお考えになりますか。

A. 私は田舎の田園風景や古民家で人を撮影ことが好きで、その時に撮った写真を「懐かしい匂いがする」と言っていただけることがあります。今までその理由を深く考察したことがなかったのですが、私の中での原風景とも言える、夏に過ごした祖父母の家と周辺の風景の影響が強いのではないかと考えています。私は子供の頃の9年間を国外で過ごしたのですが、夏休みには日本に一時帰国し、1ヶ月程度祖父母の家で過ごしました。縁側で食べたスイカ、畳のざらざらとした感触、緑に濡れた畑に迫る入道雲・・・。夏休みが終わり、国外に戻って毎日を過ごす中で、ふと祖父母の家を思い出すことがよくありました。その時に感じた強い郷愁の念は、日本で生活するようになって10年以上が経った今でも忘れることができません。


そんなにも大切に想っている場所に、私は約2年間訪れなかった。
理由はコロナだ。都心に通勤している私が、基礎疾患持ちの高齢者である祖父に会って、万が一のことがあったらどうしよう、という不安があった。
それでも、今になって考えてしまう。
コロナの波が少し落ち着いている時に、マスクをしたまま十分に距離をとる等の対策をとれば、会えないこともなかったのではないか、と。

祖父の危篤を知り、すぐにでも病院に駆けつけたかったものの、コロナのせいで孫の私は面会が叶わなかった。
「コロナが憎い。」と咄嗟に思い、しかし次の瞬間、その怒りは「自分が憎い」という罪悪感に上書きされた。
祖父の体調が悪いことを知っていながら、会いに行くのを先延ばしにしていた。心のどこかで、まだ大丈夫だと思っていた、いや、信じ込んでいたのだろう。

「会える人には、会えるうちに会っておいた方が良い」
そんな言葉は幾度となく目にしてきたし、当然の事として納得しているつもりだった。
でも、実際は文字面で納得していただけで、心の底から理解なんてしていなかったのだ。
悲しくて、悔しくて、自分に腹が立って号泣した。

数日後、最後のお別れをするために、棺の中の祖父と対面した。
「ずっと会いに行けなくてごめんね」と祖父に謝るつもりだったのだが、穏やかに眠るような表情に赦されたような安堵を覚え、「ありがとう」と心の中で語りかけた。

会える人には会えるうちに会いに行くべきで、会えなくなってからではいくら後悔しても遅いのだということ。
祖父の死という痕跡が残してくれた教訓を、私は絶対に忘れない。

もう読まれることはないと分かっていながら、思わず祖父に送ったメール。祖父の携帯を預かっていた母親が返信してくれたが、一瞬祖父から返信がきたと思って涙が止まらなくなった。

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