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【小説】 夏の終わりのマリオット 「夏の栞編」


あらすじ

高校に入学した藤崎真優(ふじさきまひろ)。彼には人の心の声を読むことができる力があった。しかし、それは決していい事ばかりではなく、読み取れる陰口などに怯える様に高校生活を送っていた。なるべく人に迷惑をかけない様に、嫌な思いをさせないようにと。
ある日、保健室を訪れた主人公の前に現れた黒髪の女子生徒。彼女は学内でも人気を博す高嶺の花。しかし、その日を境に2人は密に言葉を交わすようになり…。2人の男女が奏でる学園恋愛小説、その行方は。


第1章『心の中のマリオット』


 教室の窓辺から差し込む日差しは、少し早い夏の気配を含んでいる。窓側の一番後ろの席、僕はいつもこの席から外を眺めていた。校舎の棟を繋ぐ渡り廊下と専門教科の教室の入った比較的人通りの少ない「芸術棟」が見える。その後ろには絵に描いたような夏の空が広がっていた。雲が気持ち良さそうに夏の青の中を泳いでいる。この時間だけは、僕は何も考えずに生きてしまえる。
 授業間の休み時間、教室には様々な声がこだましている。SNSでトレンドになっている動画の真似をしてはしゃぐ女子生徒、それを見ながら誰が好みかを会議する男子生徒、他にも昨日のドラマの感想を言い合ったり、小テストの点数を明かし合ったりしている。その全てに、人の心が存在していて、それは時々、偽りだったりする。

「——藤崎君、アンケートまだ出してないよね」

僕だけの空間を一つの雑音が切り裂いた。クラスの委員長をしている「大森さん」という女の子だった。昨日行われた卒業生講話の感想アンケートの提出が今日までだった為、彼女は少し困った表情を浮かべながら僕に話しかけてきた。

(この人、いつも独りだよね…)

「それ」が僕の瞳に浮かんできた瞬間、僕は彼女に向けた視線を慌てて逸らした。そして、急いで机の中からアンケートを取り出し、遅れた事を詫びながら端の折れ曲がったアンケート用紙を彼女に手渡した。

「またか…」と、僕は心の中で呟いた。

 ___僕は人の心が読める。正確には相手の心の声が顔の部分に浮かんでくるというものだ。これは生まれ持った能力、というわけではなく中学生の頃に突如として身に付いたものだ。僕はこの呪いが自分の身に降り注いだ事をきっかけに人と深く関わる事を辞めた。心の結び目に生じる喜びも悲しみも、色恋だって必要ない。「心が見えてしまうこと」がこんなにも心の自由を奪うなんて思いもしなかった。委員長の女の子が心の中で「あの人いつも独りだ」と僕を蔑んでいた。上等だ。僕は望んで、選んで独りになったのだから。そんな事を考えながら天井を見上げていると、教室の入り口の方から視線を感じた。顔の輪郭が綺麗に整った、黒い髪を長く伸ばした女の子と目が合った。嫌な予感がした。僕は慌てて窓の外に目をやる。これ以上、必要のない情報は視界に入れたくなかった。
 六月になると、校内はもうすぐ行われる球技大会の話題で持ちきりになった。休憩時間を使って行われる球技大会の練習、次第にクラス内で形成されていく「それっぽい青春」の空気感。集団生活の中で必ずといっていい程に存在する「カースト」は僕たちが送る高校生活も例外ではなく、そのカーストの上位に位置できなかった人間は自動的にエキストラという配役を強いられる。当然、人と関わろうとしなかった僕もその一人だった。ただ、学年全体で体育の時間を使って行われる練習だけは僕たちエキストラも逃れる事は出来ず、自然と連携の取れた「メインキャスト組」との差は歴然だった。人数合わせの為に登録されたバスケットボールの練習を一人コートの隅でしていると、チームプレーの練習という名目で体育教師からメインコートへと呼び出された。ミニゲームの開催に自然と集まる周囲の視線、それは僕に向けられたものではない事だけは確かだった。そっちの方が気が楽だ、と自分に言い聞かせながら、体育館にはホイッスルの音が鳴り響いた。
 バスケットボールの弾む音が館内に響く。みんながそれぞれに声を掛け合いながらボールを回している。基本的に僕へのパスは回ってこない。僕抜きでも十分に優勢を保てる程、僕が所属しているチームは強いらしい。自チームが順調に点を重ねる中、僕は体育の評価に影響しない程度にコート内を走り回っていると、パスの乱れた相手チームのボールが僕の元へと転がってきた。勢いを失ったボールを僕は慌てて拾い上げ、パスを出す為に味方のゼッケンを探していると、いつもの「心の声」が僕の視界から自由を奪っていった。

(あいつ、名前なんだっけ)
(てか、ボール触ったの初じゃね?)
(早くボール渡せよ、時間の無駄)

長い前髪で狭まった視界に敵意に満ちた言葉が容赦無く飛び込んでくる。ノイズの様な粒子が入り、モノクロに染まっていく視界が次第にボヤけていった。
 僕はその場に膝をついた。目の前に転がったボールが近くにいた相手チームの人に拾われていく。その光景をただ霞んだ視界の中で眺めていると、僕の身体が体育教師によって引き上げられた。ホイッスルが鳴り、僕は教師の肩を借りて刺さる様な周囲の視線の中、保健室へと向かった。


「ちゃんとご飯食べてるのか〜?」
 体育教師が腕を組みながら呆れた表情を浮かべて僕に言った。僕はベッドから起き上がり、申し訳なさを十分に含んだ表情で頷いて見せる。

(本当に大丈夫なのか、突然倒れたし…)

こんな時でも心の声は、僕に容赦無く現実を見せる。ただ、体育教師が本当に心配してくれているという事が分かった僕は胸を撫で下ろした。
「先生、僕は大丈夫なので授業に戻ってください」
「そうか、あんまり無理すんなよ。今、保健室の先生いないから、とりあえず先生が来るまでベッドで休んでて良いからな」
ここに拘束するのさえ申し訳なく思ったので、僕は早々に先生をこの場から解放した。助けた側は助けられた側の赦しがないとその場を離れにくくなるというのは、意志の弱い僕自身が一番よく分かっていた。先生が去った後の保健室は、静寂に包まれた。
 僕は深くため息をついた。一体いつになれば、この現象は終わりを迎えるのだろうか。ずっとこのままなのか、僕はいつまで相手の顔にバツ印のテープを貼って生きていかなければならないのだろうか。そんな事を考えていると、座っていた僕の後ろ側から声が聞こえた。

「ねぇ、ため息で眠れないよ〜」

どこかで聞いた事のある声が聞こえてくる。風に触れた葉が音を立てる様な、夏をそのまま音色にした様な、そんなイメージが湧き立つ声色。窓辺から薫る風の匂いに誰かの表情が思い浮かんだ。僕は恐る恐る隣のベッドの方へ視線を向けると、大きな瞳がカーテンの隙間からこちらを見つめていた。その瞳は一度見たら忘れる事を許さない程に綺麗な瞳で、僕は思わず息を呑んだ。この前、教室の入り口からこちらを見ていた、あの女子生徒だ。
「すみません…もう出ます」
文句を言われる前にこの場を立ち去ろうとした僕に「待って」と言いながらカーテンを大きく広げたのは、やはりあの端正な顔立ちをした彼女だった。返す言葉に困った僕は、急いで彼女の顔に目を向けた。しかし、何故かそこには言葉一つとして浮かんでくる事はなかった。予想外の出来事に困惑する僕を、彼女は不思議そうに見つめている。
「何よ、幽霊でも見た様な顔で…」
「別に…なんでもないです」
「ていうか、なんで敬語?私たち同学年だけど」
「あ、そうか…うん、そうだね。ごめん」
人と面と向かって話す事が久しぶりで、上手く言葉を作る事が出来ない。同調なら「うん」と「そうだね」で成り立つし、考えるふりをするなら、相手から受け取った会話のオウム返しで事足りていた。いつからだろう、僕にとっての会話は交わすものではなく作る物になっていたのは。僕の心がここまで揺さぶられているのは、彼女が僕の事を認識しているという事実が原因だった。綺麗な顔立ちに天真爛漫な性格、まさに絵に描いたようなヒロイン気質だ。人当たりも良く、クラスメイトと世間話をしない僕でも、自然と人気者だという情報は入ってきていた。
「僕と話していて大丈夫なの?具合悪いんじゃ…」と僕は精一杯に話題を作って場を持ち直す。会話を終わりへと誘導する様な、小賢しい会話の繋ぎ方。
「具合…?あ、悪くないよ〜」
「え、じゃあなんで保健室にいるの…?」
あまりに呆気なく答える彼女に、僕は食い気味に問い返した。
「ん〜、体育がバレーだったから?とか」
「バレー、好きじゃないの?」
「ううん、好きだったよ」
彼女の答えは的を得ず、それでも彼女の真剣な表情は僕の想像力が及ばぬ程の意味を含みすぎていて僕はやはり返答に困った。バレーは好きだったけど今は嫌いになったのか、体育の授業を休んでまで嫌う理由ってなんだろう、などと様々な思考を巡らせているうちに、彼女が言葉を付け加えた。
「何事も、好きなうちに手を引いておくべきですよ。そうじゃない…?」
淡褐色の瞳が僕に問いかける。
「君は、どう思う?」
立て続けに問いかける彼女の言葉は僕の心を飲み込むような圧力を持っている。僕は真っ直ぐに見つめてくる彼女の瞳を見れずにいた。黒く煌めいた長い髪を彼女は耳に掛ける。そのまま見つめられていたら、僕の心に穴でも開いてしまうんじゃないかと思う程、真っ直ぐな彼女の瞳。僕は視線を逸らしたまま、自分の痩せ細った答えを懸命に紡ぐ。
「何かを好きになった事のない僕は、何かを諦める事さえ出来ないよ」
そう呟いた僕を彼女はじっと見つめていた。そして彼女は何かを思い付いた様に口を開く。
「じゃあ、君が最初に諦めるものを私が作ってあげる」
夏の気配をたっぷりと含んだ風が窓の隙間を縫って、僕の心を撫でる様に通り過ぎる。
 今思えば、彼女と僕の物語の結末は、この時点で決まっていたのかもしれない。


第2章『アトリエ』


 例年より少しだけ早い梅雨明けと同時に、夏の仮面を纏った太陽が「待ってました」と言わんばかりに熱を放つ。日差しのない日々に慣れた人間の体は一気に体力を奪われ、夏バテへと誘|《イザナ》われる。球技大会も無事に終わり、生徒の心は一気に夏休みへと生き急ぐ。僕も一年生の頃はそうだった。しかし、今年は嵐の様に僕の周りを吹き荒れる存在に夏休みの事など考える暇もなくなっていた。
「君、またぼーっとしてる。そんな老後みたいな高校生活送ってたら、すぐおじいちゃんになっちゃうよ?」
「僕がおじいちゃんなら君は老人ホームの介護職員かい?なんで毎日のように僕の様子を見にくるんだよ」
あの日、保健室で言葉を交わした日から彼女は僕のクラスへと足を運ぶ回数が増えた。そして彼女は決まって僕の席へと立ち寄り、一言|《ヒトコト》声を掛けてから教室を後にする。これは決して僕の自意識が過剰になった訳ではなく、皮肉にも周囲の視線と声がそれを物語っていた。

(なんであんな奴のところに夏川さんが)
(なんかの罰ゲームじゃね?)
(まじで意味わかんねぇ)

今日も蝉の様に泣き喚く周囲の声。まだ真夏を感じるには少し早いだろう、と心の中で僕はぼやく。最近になり、彼女の名前が「ナツカワヒナ」だということを知った。周囲の声が図らずもそれを教えてくれたのだ。それ程までに周囲に対する彼女の存在感は大きく、僕にとっての彼女の存在は永遠に交わる事のない平行線の様に無関係なものだった。そんな事を思いながら、僕が今日も彼女の話を受け流す様に聞いていると、彼女は僕が開いていたノートのページを見つめ始めた。
「何これ、めちゃくちゃ上手いじゃん」
僕の特等席、窓辺から見える夏が作り出した景色をそのまま模写したもの。同じ場所から見た景色でも同じ絵は一つもない。空気の構造、雲の形、空の機嫌まで、同じものは一つとして存在しない。僕はその情景を長すぎる人生の暇潰しがてら、日々模写をしていた。昔から絵を描く癖だけは何があっても抜けない。
 彼女は僕の書いた線画を見つめながら、真剣な眼差しで僕に尋ねてきた。
「絵、好きなの?」
僕は少し返答に迷いながら、以前より円滑になったコミュニケーションで言葉を返す。
「別に好きじゃないよ。何かしていれば人は話しかけづらくなるだろ。だから、時々居る物好きな善人に気を遣わせないようにしているんだよ。この世界は優しい人間ばかりだからね。僕は一人だけど、決して独りでは無いですよ、って」
このなんの変哲もない平和な教室に違和感を与えたくなかった。バツ印の貼られた顔を見続けながら平気で話せる程、僕は器用じゃない。それは自分でも分かっていた。だからこそ、この症状が思春期特有のものであると信じて、僕は高校生活を「消費」している。
「君の方こそ、先生から話しかけろとか言われたの?いつも教室に来たら僕に話しかけるけど」
「君の席、窓の外に大きな木が立ってるから、ちょうどそれが日差しを遮ってくれるでしょ?私の席は木陰が出来なくて暑いの。女の子に日焼けは天敵だからね」
「理由になってないよ」
「君は、私に話しかけられるのが嫌?」
彼女はそう言って微笑み、言葉に困った僕は口を噤《ツグ》んだ。人と会話をする事は必要以上に体力を使う。普段会話をしない人間なら尚更だ。周囲の声は日常茶飯事|ニチジョウサハンジで慣れてはいても、やはり心には小さな傷が蓄積していく。それでも、僕は少なくとも彼女と過ごす時間を煩わしいものだとは感じていなかった。
「ごめん、答えにくい質問しちゃったね。君は優しいから」
そう言って彼女は立ち上がる。全てを見透かした様な瞳が、僕の脳裏に浮かび上がる。あの日、初めて言葉を交わした時から君の心の声は映らない。その事実にほっとしている自分と残念に思う自分がいて、彼女との関係性について考え始めた瞬間、僕は自分の心を慌てて自制する。保健室でたまたま言葉を交わしただけで、きっとこの気まぐれが終われば、また日々を消費する生活に元通り。机を去ろうとしていた彼女を目で追っていると、彼女は突然こちらを振り返った。
「どうせ絵を描くなら、もっと本格的に描いてみたら?」
彼女が風のような声で言う。彼女の言葉は不思議な程にすっと、僕の心に届く。
「なんで…道具もないし、場所だってないよ」
「私のおじいちゃんが昔、絵描きをしてたの。その時に使っていたアトリエで描いたら良いよ。道具も少し古いと思うけど結構揃っているんじゃないかな」
瞬く間に整えられていく状況に理解が追いつかない。何より、僕が絵を描いたら彼女にどんなメリットがあるのだろうか。巡る思考の中、彼女は僕の目を真っ直ぐ見つめている。
「…やってみるよ。とりあえず」
また、彼女の瞳は僕を呑み込んだ。僕がそう言うと、彼女の口元はゆっくりと緩んでいった。ここで断ってしまうと、もう二度と会えなくなるのではないかという焦燥感に駆られた。一緒にいる時間が長くなればなるほど、この関係性にも情が湧き始めている。
「じゃあ、今日の放課後に内見しちゃお」
悪戯|《イタズラ》っぽく笑う彼女に手を引かれる様に「うん」と答える僕がいる。水道水の様な透明な時間に少しずつ色が溶けていく様な日々だった。僕はその流れに身を任せながら夏の空に浮かぶ雲を見つめていた。
 アトリエの話をした一時間後、彼女はわざわざ集合時間と集合場所の書かれた紙切れを持って僕のクラスへとやってきた。僕は二つに折られた紙を開き、ホームルームが終わって十分後に設定された集合時間を見て、教室に戻ろうとした彼女を慌てて呼び止めた。
「まだ校舎に人が残っているから、もう少し後の時間にしよう」と提案する僕に、頬を膨らませながらも君は頷いた。
 冗談じゃない。「学校の人気者」と「学校の日陰者」が放課後に校舎で待ち合わせて一緒に帰ろうものなら、間違いなく噂になる。噂は必ずしも真実のみが世に広まる訳ではない。小さな火種が薪《マキ》を焚|べられ燃え上がる様に、ほんの些細な噂が当事者の手を離れ、制御を失った情報は瞬く間にコミュニティの中で広がり始める。やがてそれは根も葉もない噂にまで枝分かれし、気づいた頃には当事者の生きる場所なんて残ってはいない。それ程までに残酷で、環境は容易|《タヤス》く変化していく。
 僕は彼女の持ち寄った紙にホームルームから一時間後の時間と新しい集合場所を記載し、彼女へ紙を差し出した。彼女は納得していない様な表情を浮かべながらもそれを見て頷き、腰あたりで控えめに手を振りながら僕のクラスをあとにする。僕は離れていく後ろ姿を視界の端で見つめながら、何食わぬ顔で生活へと意識を戻す。ふと周囲の環境音が小さくなった瞬間、自分の心臓が強く鼓動している事に気がついた。
 夕暮れを迎えるまでの時間が少しずつ長くなっていく。梅雨が明けた初夏の空は季節の落とし物の様に散らばった雲の欠片に夕陽が差し込み、雲が閉じ込めきれなくなった太陽の光が隙間から溢れ出す。この光景をタイムラプスして、切り取った一瞬を漫画の様に繋げて捲るなら、それはさぞ美しい情景なのだろうと思う。
 彼女とは芸術棟の非常階段で待ち合わせた。芸術系の部活動が盛んではない学校という事もあり、放課後の芸術棟は一気に人の気配がなくなり閑散としている。待ち合わせも早々に、彼女は僕をアトリエへ案内し始めた。「待ち合わせに時間使っちゃったからね」と彼女は僕の手を引きながら前を歩く。早歩きを促す君の足は石畳を強く叩き、僕の夏が少しづつ加速していく。どうでもいい人の心は嫌という程に読めてしまうのに、彼女の心だけは一つたりとも読み取ることが出来ない。初めて触れた僕の掌に彼女は何を思うのだろうか。いや、きっと何も思わないのだろう。
 初めて歩く道はどこに繋がっているのか分からない焦燥感と新しい街を歩く様なふわふわした期待感を同程度に含んでいる。お世辞にも栄|《サカ》えているとは言えない様な緑道を抜けて、その先には遠くからでも異質な雰囲気を漂わせる一軒家が見える。中世貴族を思わせる佇まいだ。
「あそこが例の物件です、お客様」
学校から十五分程歩いただろうか。彼女がこちらを向いて冗談めかしくアトリエの紹介を始めた。玄関の扉を開くと年季の入った音が「__ギギギ…」と響く。中は少しだけ薄暗く夜になれば少しだけ気味の悪さを覚えそうだと思った。それでも多少古めかしくはあったが管理がされていない訳ではなく、物が少ないだけで空き家という雰囲気は感じなかった。
「私がたまに来てお掃除してあげてるおかげだね〜、おじいちゃん」と言いながら、彼女は中に何も入っていない花瓶を撫でながら微笑んでいる。
「おじいさんは今どうしているの?」と気になった僕は反射的に質問をした。
「身体壊しちゃって一年前から施設に入っているの、だから私がたまに来て掃除とかして汚くならないようにしてるんだ」
身構えた心から力がゆっくりと抜けていく。「そっか」と口から言葉が溢|《コボ》れて、僕は慌てて口を結ぶ。
「まぁ水とか電気は使えるし、ある程度の広さもあるから、ゆっくり作業するには良いかなって思うんだけど、どう?」と彼女は少し得意げな表情でこちらを見つめている。
「君も絵を始めるの?」
「いや、私は見てるだけ」
「見てるだけ?どうして?」
「良いじゃん別に、マネージャーみたいな?」
「君もどうせなら描けばいいのに」
「気が向いたら、そうしようかな」
そう呟いた彼女は、優しく微笑みながら窓の外を見つめている。一時的に言葉のない時間が流れ、窓の隙間から入り込む風の音が悪目立ちする。
「良いところだね、お言葉に甘えて使わせてもらおうかな」
僕は変に空いた時間の隙間を埋める様に言った。彼女は僕の方を向いて頷き「それじゃあ明日から『ヒミツ美術部』の活動開始だね」と微笑んでみせる。もっと良いネーミングはなかったのだろうか。そう心の中で呟きながら、僕は彼女に微笑み返す。
「暗くなる前に帰ろう。君の親も心配するだろうから」
「紳士だな〜。どうせならおにごっこでもしながら帰りますか」
腕を走り出すポーズに変えながら戯|《オド》けて見せる彼女を横目に、僕は玄関の扉を開く。
「いつか大人になったら、きっとこんな風にふざけ合える事もなくなっていくんだよ?今のうちに無邪気の貯金でもしておこうよ」
「君の言う『無邪気の貯金』については一理あるけれど、それは絶対に今じゃないよ。こんな舗装されていない所で鬼ごっこなんてするのは無邪気というより無謀だ」
「理屈っぽい男は好かれないぞ〜。前からそんな感じなの?」
どことなく、何かを思い浮かべる様に話す彼女の表情が気になった。僕はその言葉を脳裏に残したまま緑道を歩く。一度でも通れば忘れない程にまっすぐと伸びる一本道、木に囲まれた道は光を閉ざし、周囲は心なしか暗く見える。空を見上げるとまだ、木々の隙間に空の青さは広がっていた。
 突然、彼女の歩くペースが遅くなり、僕がそれに合わせて歩幅を縮めると彼女は「やっぱり君は優しいね」と微笑んだ。「どこか痛むの?」と僕が聞くと「大丈夫」とまた、君は微笑んだ。その笑顔が複製物の様に数秒前と同じ力感で作り出されるのを見て、僕は反射的に彼女の顔を見つめた。すると顔の部分にじんわりと「怖い」という文字だけが浮かび上がってきた。僕はそれを見た瞬間、反射的に彼女の掌を掴んだ。
 虫の鳴き声が緑道の木々に反響している。緑道の中は幾分か涼しく、陽の光が木の葉のフィルターに通されて淡く拡散し、彼女の表情に陰を落とす。気まぐれに光が差し込み、彼女の表情を照らし出した時、僕は彼女の驚いた表情を初めて目の当たりにした。僕もきっと、自分から始めた事なのに同じ様な表情を浮かべている。今まで何度となく苦しんだ僕の特質が初めて役に立った瞬間だった。次第に彼女の表情が平常を取り戻し「どうしたの」と彼女はとぼけて見せる。ただ、数秒経っても僕はあの瞬間の、彼女が見せた陰|《カゲ》りを忘れられずにいた。

「大丈夫、だから」

僕はもう一度、彼女の手を優しく握った。壊れてしまわない様にゆっくりと、優しく。視線が交わり、潤んで光沢を持った彼女の瞳に吸い込まれそうになる。すると「じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな」といつもの調子に戻った声色で彼女は言った。僕もそれを聞いて安堵しながら、覚えたての道を記憶の中でなぞる様に戻り歩く。手を引くというより、付き添う感覚に近かった。頼れたもんじゃない程に小さく覚束ない僕の背中を、君はどんな気持ちで見つめていたのだろうか。少しでも君の不安を取り除けていたらと、そんなことばかり考えながら僕と彼女は一度も目を合わせる事なく、学校へとたどり着いた。
 学校に戻った僕は、彼女を最寄りのバス停まで送り届けた。
「君って結構、心配性なんだね」
すっかりいつもの調子に戻った彼女は、得意げな表情を浮かべながら僕の方を見ている。僕は何も言い返さずにバスを待った。
 綺麗な夕暮れが僕達を照らしている。十分程して大きな排気音を鳴らしながら「虹ヶ丘」行きのバスが停まった。バスの運んだ生温い涼風は、まるで僕等の時間を攫っていく様だった。
「ありがとっ」
排気音に紛れながらもその声は鮮明に僕の耳に入ってきた。僕は少しだけ照れ臭くなり、視線を合わせなかった。
「また、明日ね」
彼女はそう言ってバスに乗り込み、バスの開閉口は遠慮の一つもなく閉まっていく。開閉口の隙間から見えた彼女の笑顔は今まで見た笑顔とは少し違って見えた。眩い程に強く輝いている君という光が、光量を落としたほんの僅かな瞬間、その光の隙間に存在する柔らかく繊細な心模様の中に、今の笑顔があるのだと僕はゆっくりと想像し、利己的な解釈をする。 
 夕暮れの中、バス停に差した光が僕の影を作り出す。僕は誰もいなくなったバス停で彼女の言葉に頷いてみせた。


第3章『ヒミツ美術部』


 夏祭りのチラシが繁華街の掲示板に張り出されている。中学生時代以来、こういった祭事とは無縁だったが今年は何を期待しているのか、自然と街に点在するチラシを目で追っている自分がいる。
 ヒミツ美術部がアトリエでの活動を始めてから、僕が彼女と顔を合わせる時間は自然と増えていった。数ヶ月前の僕なら考えもしなかっただろう。学校の人気者と校内だけでなく放課後に二人で顔を合わせ、時間を共にする事になるなんて。
 アトリエでの活動は夏休みに入っても続いていた。一学期の終業式の日、いつもの様にアトリエへの道を歩いていたら、彼女が唐突に「夏休みはお昼ご飯食べてから集まろっか」と言い出した。
「え、夏休みも続くの?」
僕は足を止めて慌てて聞き返す。
「当たり前じゃん。高校生の夏休みは貴重なんだよ?今のうちに出来ることをやって、大人になった時に後悔のない時間を過ごすの。大人になれば時間も自由もなくなっちゃうよ?絵だって描き続けなかったら技術は落ちるし」
ない事を前提としていた僕の質問に、口を尖らせながらそう言う彼女の横顔を見つめながら、僕は返す言葉もなく頷いた。
「でも、君はいいの?友達と遊んだり、それこそ僕と過ごすより優先すべき時間があるんじゃないかなって」
休み時間に彼女のクラスを通りかかると彼女の机を囲む人の量は一瞬で目を惹く程に多く、それは昼休みや放課後になると一層激しさを増した。彼女と過ごす時間が増え、それを自覚する度に彼女の存在の大きさを思い返す。その度に僕は、近づきすぎた彼女との距離を必死に元の状態へと戻そうとする。
「今、私が優先したい事が君だって、そういうシンプルな答えじゃ駄目かな」
胸の辺りが熱くなる感覚があった。彼女からもらった言葉は紛れもなく嬉しい物で、今まで言葉に苦しめられる日々を送っていた僕にとっては尚更だった。生きている中でたくさんの言葉をもらいながら過ごしてきたけど、そのどれもが僕の心に届くまでに色んな感情を帯びて元の形のままでは届かない。いや、もしかしたらオブラートに包まれた言葉が僕の元に届くまでに綺麗に剥がされていってるのかもしれない。他人から受け取る言葉は全て加工品だと思っていたけれど、彼女の言葉は真っ直ぐ届いている気がする。そう信じたい僕がいる。
「夏川はいつでもサボっていいから」
「私、サボる事が一番嫌いなの。約束事だし、だから行くよ」
彼女はそう言うと次第に微笑みを浮かべた。それを見ながら僕は不思議に思っていたが、その理由に気づいた瞬間「あっ」と口から声が漏れた。心の中で呼んでいた「夏川」という呼び方をそのまま口に出してしまっていたのだ。僕が気づいた事を知り、僕の反応を見た彼女の口の端はみるみる上がっていき、彼女はしてやったりの表情でこちらを覗き込んでくる。
「今、名前呼んだ?」
「いや、別に」
「いーや、絶対呼んだ。もう一回呼んでよ」
「話す事ないし、呼ぶ必要ない」
「うーん、仕方ないな〜」
彼女はそう言いながら頭に指を当てながら何かを考えるふり素ぶりを見せる。そして、考えが纏まったのか頷いて見せ、彼女は僕に予想だにしない提案をする。
「じゃあ、八月にある夏祭り、この夏川と一緒に行きませんか」
違う言語で話をしている様な、初めて聞く響きだった。次第にそれは形を成してゆっくりと僕の心を揺れ動かしていく。不安と喜び、二つの色がパレットの上で混ざり合っていく様で僕はその色を慌てて混ぜ合わせて言葉にしようとした。そして出来掛けの言葉のまま、僕は彼女に疑問を投げかける。
「どうして?」
「君と夏祭りに行きたいからだよ」
「いや、理由になってないよ」
「君はすぐに理由を求めたがるな〜。これ以上の理由が必要?」
動揺で埋め尽くされた僕の心からは余裕が消え、自己否定の裏返しの様な質問を浴びせている。
「僕と夏祭りに行って、君に何のメリットがあるの?」
その言葉を口にした瞬間、君の表情からはいつもの柔らかい笑顔は消え、言葉は次第に真剣さを帯びていく。
「感情の受け渡しにメリットって必要?私は要らないと思うんだけど」
「人間は損得を考えないと動かないよ。この人といれば自分が目立てる、仲間外れにならないで済む、クラスで優位な立場に立てる、関係性なんてそんな事ばかりだ。心のどこかでそう思っている。それなら僕はお門違いだよ。他を当たってくれないか」
何かを誤魔化す様な頼りない言葉たちが僕の口から溢|《アフ》れ続ける。喜びをそのまま自分の心に写せないでいる。一種の防衛本能の様なものだ。喜びはやがて色を失うから、その瞬間を目の当たりにするのが怖いのだ。想定した一過性の幸福がいとも簡単に崩れてしまうのが、僕は怖くて仕方がない。
「初めて、君の本当の言葉を聞けた気がする。いつも誰と話していても君の言葉は相手に届く前に堕ちていくような感じがするんだもん。誰よりも周囲の事を見て、気を配って、言葉を選んでいるのに、自分は硬い殻を被っている。きっと誰よりも君は優しくなれるのに」
彼女の言葉を遮る様に僕は視線を落とした。僕は心と視線を彼女に合わせられないでいる。それでもどこか嬉しく思っている自分がいる。嘘のない彼女の言葉は、僕の心へと真っ直ぐに伸びてくる。
「あの日見た君は、もっと真っ直ぐな瞳をしていたよ」
「え?」
言葉の意味が理解できず、形になりかけた言葉が喉の奥で右往左往している。そして彼女は何かを言いかけた口元を結び、ゆっくりと表情を戻して言葉を続ける。
「…言葉を真っ直ぐに受け取ってくれないと言葉は意味を失っていくんだよ。君が私には見えない何かに怯えているのはなんとなく分かる。でも、今は私の言葉だけを見てほしい。目を閉じて、そこにある感情だけに向き合ってほしい」
二人を静寂が包み込む。いつからか自然と相手の言葉を真に受けなくなった。目の前に浮かび上がる相手の本音に苦しみながらも、どこかそれに頼っている自分がいた。見えてしまう事より見えない事の方がよっぽど苦しくて、かけがえのない物だ。彼女の言葉は見えない。だからこそ僕は、今この瞬間にもらった言葉を真に受けていたい。きっとここで変わらないと、僕はずっとこのまま生きていく事になる。僕は心を落ち着かせるようにゆっくりと呼吸をする。そして、彼女の方を見つめて口を開く。
「僕は僕でしか居られない。それでもいいかな」
彼女はいつもの優しい笑顔で微笑む。
「いつもの君がいいんだよ」
僕はその笑顔を見て、喜びが君に伝わってしまわない様にゆっくりと歩き出した。彼女の足音は軽やかなリズムを奏でて僕の背を追う。付かず離れずの距離はまるで僕らの関係性そのものだった。何かを変えるつもりもなく、それでも君のいない日々はどうにも味気ない物になるのだろうと、今となってははっきり言える。そのくらいには僕の生活の中で君の存在は無視出来ない程に大きくなってきている。 
 夏休みに入り、少しだけ早くなった活動時間の中でも僕達は変わり映えのない時間を過ごしていた。彼女は僕が薦めた小説を読みながら僕の作業がひと段落する度に絵のチェックという名目で僕の机へと近づいてくる。そして待ち時間の退屈さの反動なのか、彼女は絵の寸評をしていたかと思うと次第に会話は脱線し、友達との電話の話やSNSで回ってきた面白い話をし始め、僕はその瞬間には作業をやめ、聞き手へと回る。そして彼女は一通り話し終わると、時計を見て申し訳なさそうに自分の席へと戻っていく。そんな時間の繰り返しでも僕にとっては新鮮で、太陽が夜へと落ちていくのを寂しく思う様になった。そして夏祭り前日、僕は落ち着かない心を必死に隠しながら絵を描いていた。
「明日、雨の予報だね…」
彼女は膝を折って、椅子の上で体操座りをしながらバランスを取っている。明らかにいつもより落ち込んだ口ぶりに、僕は返す言葉を失っていた。
「花火、上がるかなぁ…」
心配そうに窓辺を見つめる彼女。その視線の先に映る空は晴れやかだとは言い難く、明日の雨予報は免|《マヌガ》れそうにない。
「一応、傘を持っていくよ。あと、連絡は…」
「あ、そうだね。今更だけど連絡先交換していこうよ」
連絡ツールのトーク画面に家族やグループ以外の人が現れるのは初めてだった。入学と進級によるクラス替えの時、半強制的にクラスのグループに追加されて以来、誰かの連絡先が増える事はなかったし、連絡先を交換したクラスメイトもグループに入れるという学級委員の役割のもとで行った業務だった為、夏川が実質高校に入って初めて、まともに連絡を取る相手になった。
「スタンプ送っとくね。夜に天気予報見ながら集合時間決めよ」
「そうだね」
明日の夏祭りを前に彼女との間にはどことなく距離を感じていた。どんな言葉で繋げばいいのか、そんな事を考えれば考える程に話題は浮かばず、いつも彼女任せにしていた場の雰囲気は静寂を迎えていた。
「雨降っちゃうと嫌だし、今日は早めに帰ろっか」
彼女は少し困った表情を浮かべながらそう言った。僕は自分の不甲斐なさを情けなく思いながら作業道具を片付けた。
 外に出ると空はさっきよりも薄暗くなっていた。それを見た彼女は「あ〜、これは厳しいかもな〜」と苦笑いを浮かべている。
「一応、夜に連絡するね」
そう言った僕の問いかけに「うんっ」と下を向きながらも頷いた彼女を見て、僕は必死に言葉を繋いだ。
「夏祭りは来年もあるし、大丈夫だよ」
そう言った矢先、僕は自分の言った言葉の意味を考えた。来年、君の隣に僕はいるのだろうかと。
「そうなんだけどね、今年どうしても見たくて。りんご飴とか、射的とかもいいよね、当たっても絶対落ちないやつ。でもやっぱり、一番は花火を見たいな」
空を見上げながらそう呟く彼女の表情はどこか切なくて、今すぐにでも消えてしまいそうな程に儚げだった。そしていつもの様にバス停に着いた僕は彼女が乗る虹ヶ丘行きのバスが見えた瞬間、ありったけの感情を込めて「明日、きっと大丈夫だよ」と言った。僕の少し上ずった声に彼女が微笑む。そして、いつもの調子に戻った彼女は僕の方を向いて笑顔で頷いた。
 その日の夜、天気予報は雨のままだったが、彼女に集合場所と時間を知らせて土砂降り以外は集合場所に集まろうと提案した。最後まで希望は持っていたかったし、何より彼女のあんな表情を見てしまっていたら中止だなんて口が裂けても言えなかった。初めて耳にした電話越しの彼女の声はいつも聴いている声と少しだけ違う様に感じ、別の存在の様に思えた。
 電話が終わり眠りにつこうと自室の布団に入った時、窓から見える星空に気がついた。天気予報とは裏腹に星を浮かべる夜空を不思議に思いながらも、僕は中学校時代の事を思い出していた。僕の部屋の窓は広く開いており、街灯の少ない場所に家がある事もあって晴れていれば窓辺からは夜空に浮かぶ星が見える。中学生の頃の僕はその星を一つ一つ数えながら、その日にあった嫌な事を思い出していた。昔みたいに大胆ないじめではなかったが常に誰かの顔色を窺|《ウカガ》いながら、その日その日で変化していく人間関係についていく事に必死だった。そのうち誰と居たいかより誰と居るべきかを考える様になり、独りにならない為に仲良くしてくれる人達への罪悪感だけが日に日に募っていった。「朝には消えるから」と、自分に言い聞かせて、憂いを夜空の星に重ねて過ごした夜。僕にとって夜空の星は、僕を悩ませる種の一つ一つでしかなくて、今まで何かを願って見上げた事なんて一度もなかった。
「…こんな日が来るなんて思わなかったな」
窓辺の星を見つめながら僕は言葉を溢|《コボ》した。彼女と出会って変わり続ける僕の本質とそれを素直に喜べない僕の過去が交差している。ただ、今だけはこの星が消えない様に、どうか明日、彼女の笑顔が夜空に輝く事を祈っている。そんな事を思いながら、気がつけば僕は眠っていて目を覚ました時には夏祭り当日の朝を迎えていた。

第4章『夏祭り』


 降水確率五十パーセントというどっちつかずの天気予報を見つめながら、僕はリビングで朝ごはんを食べている。気象予報士の言葉を片耳で聞きながら、僕の意識のほとんどは夏祭りへと傾いていた。幼少期以来の夏祭りの為、浴衣はもちろん持っておらず、たとえ持っていたとしても着る勇気などないのだからと自分の性格に嫌気が差す。狭いクローゼットの中に仕舞い込んだ限られた選択肢の中で右往左往し、結局、僕はいつもの冴えない格好へと着替え始めている。「準備があるから」と、夕方に設定された待ち合わせ時間。暇を持て余すようにリビングでニュースを見ていると何かを察した母が「髪、切ってあげようか」と長くなった僕の髪を見ながら言った。元美容師の母からはお洒落をする様に幼い頃から諭|《サト》されていたが、まるで外出の予定のない息子を見て次第にそれもなくなっていった。
「今日、どっか出かけるんでしょ」
僕の髪を切りながら、母は穏やかな口調で話しかけてくる。
「うん、夏祭りに行ってくる」
鏡越しに目が合い、「そっか」と優しく微笑む母を見て、美容師だった頃はこんな感じだったのかと勝手にその姿を想像する。
「服、もう少しちゃんとした方がいいかな…」
中学校時代はいじめに遭うまではこんなふうにいつも話をしていた。髪型はこうした方がいいとか、休日に出かける時の服装を相談したり。それもいじめに遭って誰とも遊ばなくなり、容姿に気を遣わなくなってからというもの、なんとなく母との会話もなくなっていった。あの頃と変わらない幼さを含んだ僕の言葉に、母はあの頃と変わらない口ぶりで言葉をくれた。
「ううん、いいんじゃない?だって一緒に行く人は貴方のお洒落してるところを見て、一緒に行くって言ってくれた訳じゃないでしょ。普段の、ありのままの姿を見て、一緒に行くって言ってくれたんだから」
「そうだけど…」
僕は少しだけ照れ臭くなり、鏡越しに交わった視線を逸らす。母は変わらず、僕の髪を慣れた手つきで切ってくれている。そして最後に僕の前髪を切り終わり、首から下を覆っていたカーテンを外しながら母は言葉を続ける。
「一緒にいてくれる人の顔と心が見えれば、それで十分よ」
瞼の上で切り整えらえた前髪を見て、自然と嬉しくなった。僕は不思議な能力を言い訳にして、自然と人の目すら見れなくなっていた。自分から目を逸らして、現実から逃げて、自分だけが被害者だと思い込んでいた。僕はリビングへと戻る母の背中を見つめながら「ありがとう」と呟いた。母は小さく手を振って「楽しんでおいで」と微笑んだ。

 天気予報は嘘をつかなかった。ただ、今日に関しては神様が僕たちに味方をしてくれた様だった。昼頃に降った通り雨を境に天気は回復し、僕は待ち合わせ場所に向かって日の傾き始めた街を歩いている。
 夏の下を歩き慣れていない僕の体には、月日を重ねて悪くなった代謝になかなか放ち切れない汗と熱気がこもり、一気に重たくなっている。そして昼頃に連絡をした待ち合わせ場所に向かう途中、同じ学年の生徒がグループで来ているのをちらほら見かけた。僕が彼女と夏祭りに来ているのを見かけたらどんな顔をするだろうか、どんな文字が、彼らの顔に浮かび上がるのだろうか。そんな事を考えているうちに僕の足取りは段々と重くなり、僕の心には不安が宿り始めていた。
 待ち合わせ場所の神社に少し早く着いて、昼に降った通り雨の名残りの様な雲を見つめている。空気は少しだけ湿っぽく、それは僕の心に宿った不安の様に体の中に染み込んでくる。腕時計の秒針が一定のリズムを刻んでいる。やがて集合時間になり、スマートフォンをチェックしても彼女からの連絡はなかった。早く着いた僕を嘲笑《アザワラ》う様に目の前を通り過ぎ、お祭り会場へと向かう人々。祭囃子|マツリバヤシが鳴り響く境内|《ケイダイ》で僕は、世界中に一人みたいな焦燥感を抱いている。彼女にとって僕はなんなのだろうか、ただの暇つぶしか、彼女が来なかったらどうしようか、母に悪いし、適当に時間を潰して嘘をつこう。時間と共に募っていく不安は夜と共に僕を呑み込もうとする。そんな事を考えながら、彼女の気配を無意識に探し始め、また心が重くなる。彼女が来る気配はなく、待ち合わせから三十分が経過する。秒針を見つめ、深く息を吐いた時、「__コツッコツッ」と不意に石畳を叩く音が鮮明に聞こえた。それは次第に近づくように大きくなり、音の鳴る方に視線を向けると、そこには肩で息をする浴衣姿の彼女がいた。
「ごめんっ、遅くなっちゃった」
息を整えながら申し訳なさそうに僕の顔を見つめている彼女。僕が何も言えずにいると、彼女は髪を耳に掛けながら口を開く。
「浴衣の着付けとか髪の毛をしてもらってたら遅れちゃって。スマホの電源が切れちゃったから、連絡もできなかった。ごめんね」
遅刻の理由を説明する彼女をぼんやりと眺めていると、周囲から何度となく向けられる視線を感じた。明らかに僕達に、明確に言うと彼女に向けられているもので、微かに聞こえてくる会話に耳を傾け、その方向を見た瞬間、その集団は一斉に目を逸らす。それを目の当たりにして大体は想像がついた。彼女と僕の釣り合いの無さを対象にした会話であることが。

(女の子、めっちゃ可愛いのにな)
(なんか釣り合ってなくね?)
(せめて浴衣着てくれば良いのにな)

分かりきっていた事だった。こうなる事も、僕と彼女が不釣り合いだという事も。分かったうえで僕はここに立っている。それでも、具現化され、ナイフの様に鋭く尖った言葉たちが僕の視界を閉ざしていく。僕は耐え切れず思わず目を背けた。
「ねぇ」
彼女の声が聞こえて、俯いていた僕の目の前に、小さく白い手のひらが現れる。君が僕の顔を覗き込んだ瞬間、綺麗な鈴の音が鳴った。顔を上げると君の微笑みが待っていて、鈴の音は君の髪飾りから放たれたものだと気がついた。
「行こっ」
夏をそのまま音にした様な響きに僕の手は自然と彼女の方へと伸びていった。僕の手を掴んだ君は石畳を勢いよく蹴った。僕の手を引いて、祭囃子の中を駆けていく。人混みの中を周りの視線なんて構う事なく、夏の風の様に颯爽|《サッソウ》と。この瞬間だけは、僕たちの邪魔なんて誰も出来ない、どんな声だって気にする事もない。まるで世界中に僕たち二人だけみたいだと思った。
 お祭り会場に着く頃には空はすっかり暗くなり、屋台の照明がより一層、夏夜の雰囲気を醸|《カモ》し出している。彼女の髪が風に靡いている。いつもと違う三つ編みの髪型に蓮の花が描かれたアイボリーカラーの浴衣は、彼女をいつもより大人びて見せた。その姿を思う度に遠く感じる彼女の存在を離さないように、僕は彼女の手を強く、離さないように握る。それに気づいた君はこちらを振り返り優しく微笑むと、それを誤魔化すように金魚すくいの屋台を指差して僕に呼びかける。
「あっ、金魚すくいだ!やりたい!」
どんなに大人びて見えても、こういった姿を見せた時の彼女は紛れもなく女子高生であり、僕と同じ一人の人間なのだと思う。
「いいね、記念に持って帰ろう」
「もし取れたらアトリエで飼おうか。でも、チャンスは一回までだね。そうそうチャンスがあるとありがたみがなくなっちゃう」
「うん、なんかその考え、好きだな」
僕がそう呟くと彼女は照れ笑いを浮かべながら金魚すくいの道具を構えて見せる。そしてタイミングを見計らって金魚すくいのポイを水に浸けるも、その行方は全く見当違いの方向だった。
「ちゃんと見てた?」
僕が揶揄|《カラカ》うように言うと、彼女は首を傾げながら「う〜ん」と言ってうなだれている。予想外の落ち込みように僕は少し申し訳なくなり「あ、あっちにりんご飴があるよ」と、彼女の意識をりんご飴の方へと誘導した。
「りんご飴だ〜。食べたかったんだ〜」
「夏祭りって感じがするよね」
「そうそう、君はいる?」
「僕はいいよ。甘いのあんまり得意じゃないし」
「え、そうなの。じゃあ私だけ買っちゃうね」
そう言うと彼女は屋台のおじさんにりんご飴を一つ注文する。目の前に刺さっている大量のりんご飴から一つを抜き取り、こちらを向いて満足そうにりんご飴を揺らして見せた。
「あっちの人が少ないところに行こ」
「そうだね。少し休憩も兼ねて」
脇道から少し中に入った所にちょうどベンチがあり、僕たちはそこで休憩をすることにした。
「人混みとか慣れてないの?」
彼女はベンチに座りながら僕に問いかける。そして隣をトントンと叩きながら、そこに座るように僕に促す。
「うん。夏祭りも小学校以来かな。普段誰かと出かける事もないし。夏川は慣れてるだろ」
「私も人混みは得意じゃないよ。それに、普段出かける事もないよ。君とアトリエに行くくらい」
想定外の回答に驚きを隠せずにいた。
「そんな遊び回っているように見える?私」
「そうだね、少なくとも僕とは住む世界が違うとは思っていた。君が日向なら僕は日陰。そのくらいには違うものだと」
「私ね、前はこんなんじゃなかったんだ。小さい頃とか本当に引っ込み思案で、よくいじめられてて、自分の考えを上手く伝えられない子供だった。でもね、小学生の時にある人に出会って変わったの。その人が、私を変えてくれた」
彼女はりんご飴を見つめ、優しく微笑む。
「小学生の頃、夏祭りに友達と来てたんだけど置いていかれて人混みではぐれちゃって。親同士の付き合いでって感じだったから友達も本当は行きたくなかったんだろうけど。それで、夏祭りの夜に独りになっちゃって座り込んで泣いていたら、男の子が声をかけてくれて」
懐かしそうな表情を浮かべ、君は話を続ける。
「りんご飴を買ってきてくれたり、一緒に友達を探してくれたりしてね。本当に心強かった。歩いている時はしっかり手を握ってくれて、友達を見つけれた時は一緒になって遊んでくれた。言葉で伝えるのが苦手な私の代わりに「離れないようにしてあげて」って友達に言ってくれて。そして最後に「しっかり目を見て話していたら大丈夫だから」って、その子なりに何かを察してくれたみたいで、私にそう言ったの。本当に、私にとってその男の子はヒーローだった」
一通り話し終えて、彼女は僕の方に視線を向ける。話の最中、僕の心臓の鼓動が少しずつ早くなっていくのが分かった。

「それが、藤崎真優(ふじさきまひろ)君。君の事だよ」

一瞬、頭の中が真っ白になった。僕は昔、彼女と知り合っていて、僕が彼女を助けていたという事実がそこにあって、君の言葉をゆっくりと脳内で反芻し、僕は幼少期の記憶の中を漁|《アサ》った。そして一つの過去と出会った僕は全てを理解する。確かに僕は小学生の頃に夏祭りで一人の女の子と出会っていた。そして最後に名前を教えてと言われ、僕は自分の名前をその子に伝えた。今にも消えてしまいそうな小さな声で、境内に座り込んで助けを求めていたあの子が、今、目の前にいる夏川陽菜(なつかわひな)だった。

「なんで今まで教えてくれなかったの」
「高校に入学した時に名前を見て気がついた。でも、君は私の事を覚えていないみたいだったし、なかなか言うタイミングもなかったし。本当はもっと早く、君と話したかった。あの時のお礼をずっと言いたかった」
食べかけの型崩れしたりんご飴を見つめ、僕は言葉を探している。あの頃の僕を知っている君は、今の僕を見てどう思うのだろうか。見違える程に弱くなった僕を見て、彼女はどう思ったのだろうか。

「何か、あったんだよね」

寂しい表情を浮かべながら僕に尋ねる君を見て、僕は覚悟を決める。そしてゆっくりと問いかけに頷いて、僕は自分の話を始めた。
「心が見えるんだ。正確に言えば、人の本音がわかる。陰口だとか、悪口だとか。僕に向けられた言葉の本意が分かる。だから、それから人の顔を見て話すのが怖くなった。信じられないかもしれないけどね」
彼女は驚いた表情を浮かべながらも「そっか」と言って優しく頷いた。理解の速さに驚きながらも、僕は話を続ける。
「中学生の最初まではグループのリーダーって感じで、何かあればみんな頼ってきてくれたし、僕の事を好いてくれるクラスメイトもいた。でも、それをよく思わない連中もいて、ある日、女子生徒の体操服を僕が隠したって嘘を流されてね。思春期真っ只中の中学生はそういう事に敏感で、みんなが真偽を確かめようとする時には、既に僕の居場所なんて残っていなかった。それからかな、他人の顔に言葉が見え始めたのは」
言いたくない事を言ったはずなのに、やけに心の中は軽くなっている。きっと誰かに知って欲しかったのだ。今まで誰にも打ち明けられず、これから先も一人で抱えていくものだと思っていた。彼女が信じてくれなくてもいい。ただ今だけは、話を聞いてくれるだけでよかった。
「だから君はあんなに人を避けるように過ごしていたんだね」
大きな瞳が街灯の光を反射する。その瞳は心なしか潤んで見えた。
「大変、だったよね。でも私は少しほっとしているの。だって君が悪い事なんて一つもないし、私と話す時だけは真っ直ぐに目を見てくれる。私にとってはあの日と同じ、藤崎真優だよ。私のヒーローだよ」
そう言って笑う彼女は今、僕を暗闇から連れ出してくれたヒーローだ。
「あっ、もうそろそろ花火が上がる時間じゃない?見やすい所に行こうよ」
僕の腕時計を見ながら、楽しそうに笑う彼女がいる。僕はまた彼女に手を引かれてベンチから腰を上げる。まるで何事もなかった様に笑う君に、これまで何度も救われてきた。これから先、僕の人生に光が差す事なんてないと思っていた。闇夜の中、空に浮かんだ星ばかりが目につき、また同じ様な独りの夜を彷徨う。そんな日々の中、君という光が優しく差し込み、星たちを溶かす様に飲み込んでいく。この感覚を、どうにか言葉に出来ないかと僕は模索する。時計の針が八時半を指し示す。会場に大きな歓声が響き渡り、僕たちは空を見上げた。赤、青、黄色の花火が次々と打ち上がり、周囲の人々はみんな、上を見上げている。僕は花火を見つめながら一人、呟く。
「あぁ、君は花火なんだ。僕にとって、闇夜を照らす花火だ」
火薬の匂いが優しく香る、きっとこの匂いさえも僕は生涯忘れないだろう。
「何か言った〜?」
彼女は花火を見上げながら僕の方へ耳を傾けながら問いかける。
「ううん、なんでもない」
僕がそう言うと、君は再び花火に集中する。そして花火が終わり、君が僕の方を振り返り「綺麗だったね」と笑いかけた時、今まで見つからなかった感覚の答えが見つかった。

”僕は恋をしているみたいだ”


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