『シンガポールという街にて』  1997.6.12

『シンガポールという街にて』  1997.6.12

クアラルンプールに3日ほど滞在した後、僕はバスでシンガポールへと向かいました。バスは朝の8時30分に出発しました。シンガポールまでは6時間の道のりでした。距離から行ってもっと時間がかかるのではないかと思っていたのですが、バスが走り始めてしばらくするとその理由がわかりました。

バスはシンガポールへの道のりにおいて高速道路を使いひたすら走りまくるようなのです。確かに早い。しかし、つまらないのです。日本の高速道路もそうであるように、景色に全然魅力がないのです。

街中など走ることもなく、森を切り開いたと思われるまっすぐの道をひたすら走りまくるのです。とても退屈な景色です。今までのバスでの移動は道路状況やバスがあまり良くなかったので疲れはしたのですが、一般道を走るため窓から見える風景に飽きるということはありませんでした。快適さと速さに加え、美しい風景を求めるのは虫が良すぎたのかもしれません。

バスは午後の1時半頃にマレーシアの国境の町、”ジョホールバル”という所に着きました。その街で僕はバスから降ろされ途方に暮れてしまいました。僕はてっきりシンガポールの街中までバスで連れて行ってくれると思っていたのですが、訳のわからないバスステーションで降ろされてしまったのです。

はじめ僕はそこがマレーシアなのか、シンガポールなのかさえわかりませんでした。僕は通行人に聞いてみました。「Where is this?」(~ここはですか?~) まさか自分がこんな英語を使うことになるとは思ってもいませんでした。

ようやく”シンガポールへ行くにはもう一本バスに乗り換えなければいけない”ということが分かると、2.1 RM(約100円)のチケットを購入し、バスに乗り込みました。しかしこの後マレーシアの出国手続きやシンガポールの入国手続きをどのようにするかが全然わかりません。

考えてみればバスで国境を越えるというのは、今回が初めてなのです。手続き方法が全くわからないことに不安はあったのですが、一方では”多分どうにかなるだろう”という安心感もありました

その理由の一つに、”まだ時間が早く(午後 2時頃)、いくら手間取っても夜までには十分市街地へ辿り着けるだろうと思われたこと、そしてもう一つ、”シンガポールという国が先進国であること”でした。

今まで通ってきたラオスやベトナムでは、入国の際にヘタな真似をすると”それこそどうなるかわからない”という恐れがありました。しかしシンガポールでは一般的な常識が十分に通用すると思われ、多少手続きにミスがあったとしても、警官に捕まり「釈放する代わりにワイロをよこせ」などと言われることはないだろうと思われたからです。アジアの国々では警官もそれほど信用できないのです。

シンガポールへは思った通り、他のバスの乗客と同じようにしていたら、出入国も入局もスムーズに行うことができました。しかしシンガポールへ入国できても、そこから市街地へ行くにはどうすればいいのか全く分かりませんでした。僕は一応ガイドブックを持っていたのですが、そのガイドブックにはシンガポールについてわずか20ページ程記されているに過ぎず、ましてバスでの入国方法など詳しく書かれていなかったのです。

シンガポールの国境でバスから降ろされたあと、両替を済ませました。僕が降ろされた場所はシンガポールの最北部であり、市街地は最南端にあるため、 ほとんどシンガポールという国を縦断しなければいけないのです。

ホテルに辿り着くにはまだまだ道のりが長かったので、とりあえず昼食をとることにしました。重い荷物を担ぎながら右往左往していたので、この時点では結構ヘばっていました。

両替屋の近くにショッピングセンターがあったので、その中の食堂で食べることにしました。シンガポールというとすべて綺麗な街だと想像していたのですが、そのショッピングセンターは国境近くにあるせいでしょうか、とても シンガポールとは思えないほど雑然としていました。

ただ明らかに他の国と違った点がありました。物価です。食堂の値段は、そこがたとえ他のアジア諸国と変わらないぐらい ゴミゴミしていたとしても、マレーシアのゆうに2倍はしていました。

食後のコーヒーを飲んだあと、まだ暑い日差しを浴びながら僕は再び重い荷物を背負いました。食堂の人に、市街地へ行くためのバス停を訊きと、バス停は食堂より歩いて3分ぐらいの場所にありました。

ただ、どのバスに乗れば市街地へ行けるのかが分からないので、バスに乗ろうとしていたおばさんに尋ねると、なんと「バスでは市街地へ行けない」と言います。じゃあどうすればいいんだろうと思っていると、おばさんが 「MRT で行け」と言います。「 MRT って何ですか?」聞くと、おばさんは”なんだ MRT もあんたは知らないのかい?”という感じで、「とりあえずこのバスに乗りなさい」と言います。

おばさんは、「 MRT 乗り場はこのバスで行くことができるの。そこは私が住んでいるすぐそばだから案内してあげる」ということでした。もう僕はおばさんに従うしかないので黙ってついてことにしました。

バスに10分ほど乗るとおばさんは窓側にいる僕に対して、「 バスの壁についている”STOP"のボタンを押してくれ」と言いました。バスが停車して降りると、そこは何棟ものマンションが立ち並んでいる住宅地域であり、周りには MRT らしきものにも見当たりません。

おばさんの「こっちだよ」という声に従い、いくつかのマンションの間をくぐり抜けていくと急に電車の駅らしきものが見えてきました。 なんとMRT とはシンガポールを走る”地下鉄”だったのです。僕はおばさんに何度もお礼を言い地下鉄に乗り込みました。

 MRT の座席に座れやっと一息つくことができました。これでどうにかホテルまでは行けそうです。しかしおばさんがいなかったら一体どうなっていたのでしょうか。とても一人では MRT までつ取り付けることはできなかったでしょう。僕はおばさんに深く感謝しました。

 

シンガポールですでに泊まる宿を決めていました。クアラルンプール出会った日本人が、彼がシンガポールで泊まった宿教えてくれていたからです。その宿はドミトリーで7ドル(シンガポールドル、約700円)という、おそらくシンガポールでも破格に安い部類に入る宿泊料でした。しかし今まで誰の物価の安い諸国を旅してきた僕にとっては、最も高い宿でした。

 宿には夕方4時半頃に着いたので、早速街を散策してみることにしました。僕がシンガポールについて興味があったのは、日本でよく話題になるその美しい街並みでありませんでした。シンガポールは東南アジアの中では例外的に経済的に発展した国です。

僕はなぜ例外的にシンガポールだけが、これほどの発展を成し遂げられたのか不思議だったのです。しかしそれがガイドブックに出ていたシンガポール人の構成を見てその謎が解けました。シンガポールに住む88%以上の人は中国人だったのです。 つまりシンガポールという国は華僑の国だったのです。

今まで通ってきた国々においても華僑の持つパワーには驚かされていました。彼らはどこの国においても中華街を作り、そして経済的に成功しているのです。特にベトナムにおいては、全体の全人口の10%にすぎない華僑が、ベトナムの経済を握っているということです。そんな商才に長けた華僑が一国を作るほどの人数が集まり力を発揮したら・・・・。シンガポールの発展はある意味で当然のように受け取れました。僕はそんな中国人が作った国を見たかったのです


確かに街並みは美しいものでした。郊外にある住宅もマンション形式のものが多く、きちんと統制が取れて建てられています。でも、ただそれだけのような感じがしました。

僕が日本の多くの女性のように ショッピングショッピングに興味があったのなら、まだシンガポールに対する印象も違ったものになったのでしょう。でも僕にとっては居心地は悪くはないのですが、物価が高く長い間はいられないなと思いました。

夜はシティホールへ行っていました。シティホールおそらくシンガポール随一の繁華街なのでしょう。いくつものデパートが集まっており、日本の”そごう”もありました。僕はまた”そごう”の本屋行っていました そこには日本の本がたくさんあったのですが、日本の定価の倍ぐらいの値段が付いていました。

僕は高くて買うことのできない本を1時間ほど眺めていました。夕食のデパートにテナントに入ってるレストランで取ろうと思ったのですが、どこも値段が高そうです。ちなみにこの時僕がどのような格好でいたかっていうと上は T シャツ、下はジーンズに皮のホーキンスの靴であり、髭もほぼ毎日剃り沿っていました。髪もベトナムの美容院で切っていたため、そこそこ小奇麗な格好だったと思います。たぶんシンガポールでは周りが皆環境であるため僕は外国人旅行者だとあまり気づいていないようです。

僕は”そごう”の地下にある食品売り場行ってみました。するとそこには寿司のバラ売りを売っていました。しかも一番安いものでは一個50シンガポールドル(約50円)です。

僕は50シンガポールドル のものを8個選び取りそれを買いました。味は思ったよりいけました。最も安いものを選んだと言っては言っても、ネタはマグロ、イカ、ヒラメ等でありなかなかのものでした。


夜の9時頃に宿に戻ったのですが、10人部屋であるその部屋には誰もいませんでした。帰るとすぐシャワーを浴びに行ったのですがシャワーの蛇口をひねっても水が出ません。壊れているようです。

仕方がなく普通の水道の蛇口の水をオケ(近くに置いてありました)に汲んで体を洗おうとしたのですが、宿がビルの7階にあるあるせいでしょうか、水圧が低くて水がチョロチョロしか出ないのです。

横を見ると大きな水瓶に一杯の水が組んであります。おそらく”それで体を洗え”ということではことなのでしょう。汲み置き水なので体を洗いたくはなかったのですが、仕方なく髪を洗い流すと何か臭いのです。明らかにその水の匂いです。もうその水を体にかけることはできませんでした。

僕は仕方なく水道からチョロチョロと流れる水が溜まるまで待ち、それで体を流しました。『なんでシンガポールでこんな思いをしなければいけないのだろう。明日は宿を変えようかな』と思いました。

部屋にいても落ち着かないので近くのマクドナルドまで出かけ、本を読みそして10時30分頃に宿に戻ってきました。その時間帯には同じ部屋に泊まっている人がほとんど戻ってきたのですが、彼らは欧米人のバックパッカーではなく、まして日本人でもなく、どこかのアジアの国々の人々またはメキシカン等でした。

年齢もバラバラであり、かなり年配の人もいました。彼らは旅行者などではなく出稼ぎ労働者だったのです。”昼間は工事現場などで働き、そして夜は寝るためだけに宿に帰ってくるという” そこはそんな人たちのための宿だったのです。

一人だけ旅行者だった僕は明らかに浮いていました。ドミトリーという集団部屋は、ある程度、個々の信頼関係から成り立ちます。旅行人同士なら、まず相手の物を盗むということはありえないに思えるのですが、この宿では明らかに立場の違うたちと一緒だったため、ひどく不安を覚えました。

夜はなかなか寝付けませんでした。疲れた労働者たちのの寝息が気になり、なかなか寝付けなかったのです。気づくと朝は4時30分になっていました。

『シンガポールはもういい。もうここを出よう』 僕はそう決めると暗い部屋の中で荷物をまとめ、早朝の MRTに 乗り、真っ暗なシンガポールの街を歩いて駅まで向かいました。重い荷物を担ぎながら歩いていると、眠さとシンガポールでの疲れがどっと出てくるようでした。

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