『ホイアンという街について』  1997.6.3

『ホイアンという街について』  1997.6.3

ホイアンの街では、夕暮れどき運河沿いにあるベンチにあるベンチに座り、沈みゆく夕日を見ながらとりとめのないことを考えていることが好きでした。

ホイアンという街はベトナム中部にある小さな町です。この街には汽車も通っていないため、バスに乗らなければ来られません。日本から持ってきたガイドブックにも小さく取り上げられているだけで、街自体も1時間もあれば主だった見所はすべて巡れてしまうくらいの小ささです。

なぜ僕がわざわざこの小さな町までやってきたのかというと、今までの工
程の中で知り合った旅行者からその評判を聞いていたからです。どちらかというと日本人より欧米人の方からの評判が高かったのでした。僕はその手の情報は信じる性質ですので、ホイアンをベトナムでの目玉として考えていたのです。


ホイアンに来てまず驚いたのは、みんな英語が話せるということでした。ベトナムではタイほど英語が通じず、そのためベトナムでは何よりもまず、ベトナム語で1から10までの数字を覚えたのですが、この街では子供から大人までおよそ物売りに携わっているほとんどの人は、ある程度の英語ができるのではないでしょうか。

つい最近訪れたサムソンという街では「Hotel」(ホテル)という言葉も通じず、かなり苦労したので、街で英語が通じるというのはそれだけで快適な観光ができることの一部は保証されたようなものです。しかし英語が通じるということは、同時にそれだけ多くの欧米人訪れるということであり、観光客ズレしていなければいいなと少し心配にはなりました。


ホテルを決めしばらく休んだ後散歩に出かけました。レンタルサイクルもあったのですが十分に歩いて回れそうだったので歩くことにしました。ガイドブックによればホイアンの見所は日本人街ということでした。かつてはこの町には~人の日本人が住んでおり、貿易によりホイアンの街に独特の文化を築いていたそうです。

その街並みが今でも一部残っており、日本でいうとどこになるのでしょうか、そう、山口県の“萩”のようにひっそりとした佇まいを見せています。僕はまず日本橋へ行ってみることにしました。

橋は思ったより小さく、長さは1メートルもないくらいです。ただ変わっているのはその端には立派な屋根がついており、しかも端のなかほどには小さな神社があるのです。正直言って僕は来るまでは“日本橋”にほとんど期待していませんでした。四国の高知市にある“はりまや橋”のように、たいしたものではないと想像していたのです。

しかしその橋は小さいながらも厳かであり、日本人が確かにこの家に住んでいたこと言うことを証するには十分に説得力のあるものでした。古い街並みから外れ少し歩くと川が見えてきました。それは川というより運河のよう
であり、漁師の家なのでしょうか、たまに小さな木の船が通り過ぎていきます。

僕は川沿いにあるベンチに腰を下ろし、しばらくの間、ボォーッと川とその先に生い茂る木々をいつまでも眺めていました。川の幅はだいたい70~100メートルくらいでしょうか。対岸では釣りをしてる人が何人かいました。彼らは一本の竹竿を持ち小さなウキをじっと見つめています。僕は子供の頃によくやったコブナ釣りを思い出しました。

小学生の頃よく通った釣り場はちょうどホイアンと同じような運河で、決してキレイとは言えないのですが日曜日になるといつも目覚まし時計が鳴る前に目を覚まし、仲の良い友達と一緒に川まで自転車を走らせたものです。子供の頃を思い出しているうちに川に映る白い雲はオレンジ色へと色を変えていきました。


翌日ははもう少し詳しく街中を見て回りました。ホイアンの町の特徴として旧日本人街の古い町並みを一つ挙げましたが、もう一つ挙げるとすればそれはギャラリーがとても多いということです。ここで言うギャラリーとは日本の銀座に無数あるあのギャラリー(画廊)と同じものです。ホイアンの街には一体いくつのギャラリーがあるのでしょうか。


ある街並へ行くとギャラリーが何軒も並んでいるのです。小さな街にしては異常なくらいの数の多さです。僕はいくつかのギャラリーに入ってみました。絵のモチーフとして描かれているもののほとんどはホイアンの街にあるものでした。それは畑仕事をする
女性であったり、牛にまたがっている少年であったり、船に乗っている漁師らでした。
それらが水彩画とも油絵とも判断がつかないような淡いタッチで色鮮やかに描かれ
ているのです。ギャラリーに寄って描き方のタッチは多少違っているのですが、ほと
んどのモチーフをホイアンしている点では共通していました。僕は各ギャラリーに入る
度に、「これは誰が描いたものですか?」とと聞いたのですが、「私の兄」だとか、「私
の妹」だとか、「私が描きました」という答えでした。つまりギャラリーを開いている人の
ほとんどは画家だったのです。あるギャラリーで四十歳ぐらいの男性が油絵を描いて
いたので、僕はなるべく邪魔にならないように彼が描くのを遠くから眺めていました。
すると彼は僕に気づいたらしく話しかけてきました。彼らは画家であると同時に絵を売
る商人でもあるのです。彼は“お土産用にどうか”と A 4版ぐらいの小さな絵を何枚
か僕に見せてくれました。その絵は彼はではなく、彼の妹が描いたもののようだった
のですが、淡いタッチで鮮やかにホイアンの風景が描かれていました。その絵は美し
く僕の感性に合ったものでした。すぐに日本に帰るなら買おうとしたのかもしれません
が、まだ旅は長いのでここでいろんなものを買い込んでいるわけにはいきません。で
も一応価格を聞いてみると、1枚2 US ドル(約200円)とのことでした。『1枚約200
円』。僕はその安さをありがたがるよりも、その絵をたった2 US ドルで売られなければい
けない彼の妹のことが気の毒になってきました。たしかに物価の安いベトナムでは2 US
ドルはそこそこの金額です。それでもその絵には十分それ以上の価値があるとように
思えるのです。世に名前が出なければ値がつかない“絵”という商品を、生きる糧とする
ことの難しさに、僕は少々困惑しました。それでも彼らは好きな絵を書いてくださるならば、
それはやはり幸せなのかもしれないと思いかえしました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?